◯ はつこい
「………初恋?」
貸本屋の店主は、きょとんと目を丸くした。
店内には立ったまま、本棚の本を物色する一人の軍服を着た青年と、申し訳程度に小さく作られた座卓に俯せになる禅僧がいる。
黒の法衣が目を引くその彼は、「そうです」と短く言った。
「………最近疲れているようだなあ」
「他人事にしないで下さい。貴方の所為なんですよ」
見ようによれば十代ほどに見えるほど幼い顔つきの彼は、その黒い瞳で店主を睨みつけた。
「色恋沙汰ばかり持ってきて。意趣返しに聞いてさしあげます。貴方は恋をした事があるのですか?」
「ずっと「本」に、恋してるかな?」
「ふざけろ」
いつもの丁寧な口調とは打って変わった雑さに、軍服を着た彼は何事かと禅僧を一瞥した。
「此ればかりは仕方がないだろう。何と言っても、俺は人間ではないのだし」
「はん––––––」
禅僧は嘲るように鼻で笑って、いつの間にやら手に握った細身の鋏をくるくると回す。軍服の青年はまた本に戻る。ぱらぱらぱら。
雨はしとど降る。
「恋にまつわる縁を切り過ぎました。何奴も此奴も自分の為だけに縁を切り過ぎている」
「そうかい。まあ、大変なのさ」
「私にはわかりかねますね。なんせ、人でないもので」
禅僧はくるくるくる、鋏を回す。
店主は「それじゃあ」と、話の向きを変えた。
「元人間に聞けばいいんじゃないか?」
「?………ああ、成る程」
禅僧と店主は、軍服の青年に視線を注ぐ。
青年はその視線に気づいていないのか、二人に見つめられても微動だにしない。手で陳列された本の背表紙をなぞって感触を確かめている。
「ねぇ将校さん。どうなんです?」
「何が?」
青年はようやく口を開いた。禅僧はぐんにょりと体を曲げたまま、「とぼけないでくださいよ」笑いを含んだ声で言う。
「人だったのなら恋の一つや二つありますでしょ?」
棚から、青年の手が離れた。
「そうだな」
そしてゆっくりと禅僧の方を振り向く。
「ただ、誰かを《綺麗だ》と思うことはあっても。その女性と添い遂げたいと思う事は無かった」
「へえ、それはどうして?」
うん、と軽く頷いて。
青年は腕を組み、棚に背を預ける。彼の目を覆う白い包帯がはっきりと見えた。
「––––––あの時代は、そんな事を考える余裕なんて無かったから、と言ったら納得してくれるか」
「ふうん。じゃあ経験は乏しいんですか?」
被せて禅僧は言った。
「いいや」
軍服の彼はそう応じる。はて、と、禅僧は首を捻った。「じゃあ誰と経験したのやら」その独り言のような問いに、彼はまた首肯して、呟く。
「うん、道ならぬ恋というやつだ」
「……………」
「……………」
禅僧と店主は口をつぐむ。んんん、と唸ってから店主は彼に質問した。
「具体的には?」
答えは簡潔だった。
「人妻だ」
「はぁ?!」
驚きのあまり大きな声を出し、禅僧は目を剥いた。店主は店主で口を半開きにしている。いつも通り、表情を感じさせない声色のまま彼は腕を組む。
「更に詳しくいうと上司の奥方だ」
ぱくぱくぱくと、口を開けて閉じてを繰り返し、禅僧は起き上がらせた上半身を硬直させる。
「何があったんですか………」
「それは守秘義務がある故」
ただまあ、と。彼は言葉を紡ぐ。
「恋と云う物は、病気のようなものだ。目は
右足を左足に軽く被せるようにして、片足で重心を取り、彼は背を本棚に預けたまま左手で顎を
「恋は決して悪ではない。誰かしらと関係を持とうとすることは悪になり得ないからだ。だが、その恋に溺るることにならば、軍人でなくとも命を失いかねん毒薬となる。されど人は恋をする生き物であり、だからこそ縁は紡がれてゆく。縁を断つ者からすれば迷惑この上ないのではあろうが––––––」
顎を摩った彼の手が、彼の皮膚から退けられる。そして彼はその手を制帽のつばに当て、軽く、被る仕草をした。
「愚かな者共と思いつつ、眺めてやるのがよいのではなかろうか」
ぱらり。
しんと静まり返った店内に、ぱらりぱらぱら、雨の降る音がこだました。
「花足部さん」
禅僧が店主に声をかける。
「お客さんの様ですよ」
ぱらりぱらぱら。
黒の法衣の袖を伸ばし、襟を整え、鋏の遣い手は想う。耳の辺りで切り揃えた禅僧の髪がはらりと揺れ、彼は眇めて軍服を羽織る彼の白い手袋を見つめた。
「人間って、面倒ですねえ」
ぽつりと誰にともなく呟き、禅僧は襟足の辺りを撫でる。
「そう云う生き物だ」
軍服の彼はいつもの様に無感情に、そう返した。
白く細い指が彼の首筋を慈しむ様に撫でている。そんな禅僧を見て、花足部は静かに
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