モノノカタリベ貸本屋裏事情《笑壺の会》

宮間

 

◇ かはたれ

 ああ、なんて美しいんだろう。

 僕は、そう思った。

 濃茶にくろずんだ肌が覗く。その肌には蚯蚓腫みみずばれのような跡がのたくっている。火傷のようにも、見て取れる。それを隠す為なのか、目深に被った制帽の下には白い包帯。両目を完全に覆ったその白い布は目を隠す為なのか、それとも肌を隠す為なのか、とんと僕には判断できない。白い手袋にマントが翻り、朝焼けの金色の目映まばゆい光それの輪郭を際立たせた。白い包帯はさなぎを僕に想像させ、それと共に僕はその下の流麗なはねの筋も脳裏に浮かばせた。すらりとした長身や広い肩、大きな背。

 横たえた僕の体が軋む。

 しんでしまうのかな。

 なぜかふと、そんなつまらない事を考えた。

 僕の眼窩に刺さるその光景はどこまでも端麗で。

 僕にとって、決して恐れるものではなかった。

 瞼が重い。

 眠い。

 彼がこちらを振り向いた。ゆるりと首を回して。

 僕の体はもうぴくりとも動かない。

 別にいいと思った。

 このまま死んでも–––––、

 別に構わないから。




 ずっと昔から。––––––僕は、細かく小さな違和を感じている。

 此処にいるべきではない、という、ものではない。其の逆だ。僕の場所は此処ではない、と言うものである。それは似ているが全く違う別個だ。だから僕は奇妙だった。此処に居てもいいことはわかっていた。母がいた。父がいた。普通の人間と同じように生活をしていた。それは何処までも当然で、何処迄も普遍的価値の存在だった。でも、世界は違った。

 それは別個だった。

 空気の皮膜が僕を包んでいた。子供らしからぬ達観的な言葉を口にしては気味が悪いと顔で表す母や教師も、理解出来ないと首を捻り曖昧に口角を歪ませる同級生も、僕の皮膜だった。僕と世界を隔てる、僕と世の中を隔てる皮膜。眼に見えない空気が皮膜だった。そこには確かに何かがあった。それを壁と表するのはあまりにも無粋で、僕としても好きではないから皮膜と言う。壁のように強固ではない。ぶよぶよと跳ね返る言葉の羅列だ。雰囲気だ。

 だから、今とても驚いている––––––


「気分はどうだ」


 ここは、快適だ。

「はい、とても」

 レトロな長椅子に横にされていたらしい。頭に乗せられていた濡れタオルを退けて、僕は起き上がる。

 背中と椅子の間に挟まれていたクッションを軽く撫でる。羽毛の心地がした。

 顔を上げて部屋を見回した。本が所狭しと並んで、棚から溢れそうだ。背表紙も様々で大きさも一つ一つが違っている。不思議なのは、その本たちすべてに共通して題名と作者名が書かれていなかったことだった。

 どうしてだろうと首を捻る。人がやっと通れるほどの通路をあけて、並べられた本棚たち。向かい合わせに置かれたその姿はまるで図書館のようだ。でも多分、図書館なら本棚と本棚の間はこんなに狭くないだろうと僕は思った。

 おそらくこのソファは本を読む為のものだ。適度な広さと弾力があって、本を読むのに寝転がったり腰掛けたりするのに最適だろう。臙脂色のカバーには金糸でダマスク柄が描かれている。

 オレンジ色の照明が照らしている。花を地面に向けた形の、白い百合を模した照明だ。酷く凝っている。

「ここがいつの場所なのか、わからなくなるな」

「そうか」

 ぽつんと口に出した僕に、彼は短く応じた。

 なんとなく気になって、僕は聞く。

「すみません、今は何時ですか」

 彼はマントの内側を探り、懐中時計を取り出した。

「19時半––––––」

「そんなに」

 彼はちらりと僕を見るように、顔をこちらに向けた。

「急ぐ用事があるのか」

「いえ、そうでもないですが、あまり遅くなると心配されてしまうので」

「誰に」

「それは––––––」

 詰まった。

 僕を心配しているのだろうか。

 母や、学校の先生は。

「はい、多分、母に」

 それでも、帰らなければならない。

 僕は急いで立ち上がった。早く帰らないと。

 心配はされないかも知れないけれど、迷惑はかける事になる。それだけは駄目だと。

 立ち上がり、本棚の間をすり抜けて、扉に向かう。引き戸を掴んだ。がらりと古風な音がする。体を外へ放り出した。

「少年」

 彼が僕へ声をかける。

には、気をつける事だ」

「え?」

 伽藍がらん

 扉は閉まった。


 振り向くとそこには、

 ただの空き地が広がるばかりだった。

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