平等

「新婚旅行、どこに行きたいですか」

 朝食時に問えば、飛紗は沈黙して顎の動きを緩めた。瞬きが増えたことから、動揺が窺える。そのうちうつむきがちになって、ごくん、と咽喉を鳴らした。まさか考えもしなかったわけではないと思うが、話題に出すのが遅すぎるのも確かだ。朝食をつつきながら返答を待つ。今日はわかめと油揚げの味噌汁である。

「……国内、かな」

 しぼりだすように首を大きく傾げながら言われて、答えに詰まった理由を察した。

 国内。行ったことのない場所はたくさんあるし、行ってみたい場所も確かにたくさんあるが、いまの言い方は「行きたいから」ではなく、「他の選択肢がない」からだろう。

 告白と求婚が同時で結婚資金と銘打った貯金はなかったし、親からの支援を断ったのも、飛紗自身が納得していても、現実問題として懐への打撃は痛かったに違いない。

「旅費は出しますよ」

 と言えば、

「それはあかん」

 と語尾を喰い気味に拒否された。あまりに脳内で予想したどおりの映像が目の前で再生されたので、なんだか安心して緑茶をすする。ひとりでいたときは朝昼晩問わず水しか飲まなかったが、いまは朝食担当の飛紗が温かいお茶を毎朝淹れてくれている。体温を下げる効能があるので、暑がりの瀬戸はちょうどよい。反対に冷え性の飛紗にはよくない気がするが、本人がすきで飲んでいるので何も言わずにおく。

「学くんが出したいんだそうです。もちろん全額負担してもらうつもりはないですけど、厚意を受け取ってもらえませんか」

 晟一とは違って同性以外すきになったことがない学は自分に子どもができるなど考えもせず、平たく言えばはなから諦めていたところ、晟一とその息子である瀬戸に受け入れてもらえて、言葉にできないほどうれしかった、らしい。どのくらいうれしかったか、わかってもらいたくないくらい、と電話で言われて、固辞するのは難しかった。

 だから飛紗が何と言おうとすでに受け取ったも同然なのだ。そうでなければ、現金書留で送りつけられかねない。学の行動力は少し突拍子のないところがある。

「いや、でも」

「旅行、行きたくない?」

「そんなわけない」

 これも語尾を喰い気味に否定されて、満足げに微笑む。じろりと睨みつけられてしまった。

「そんな言い方は卑怯や」

 わざとなのだから当り前だ。もちろん飛紗もそんなことはわかっていて、すぐに諦めたように焼き鯖を箸で半分に割った。

 瀬戸はどちらかといえば好意を抱いた相手に対して世話を焼きたいほうである。飛紗のこともじわじわと追い詰めるように懐柔してきたが、一度は必ずこうして逡巡される。受け入れてほしいのであって、折れてほしいのではない。

「負担をなるべく同じにしようとするのはよいことですけど」

 ごちそうさま、と両手を合わせる。

「すべてを半分にするのは無理です。稼ぎが違えば性別や年齢も違うわけですから、妥協して国内にするくらいなら、私が出して飛紗ちゃんによろこんでもらいたい」

「それやと常に眞一の分が悪いやん」

「飛紗ちゃん、公平と平等は違います」

 やはり、なかなか手ごわい。飛紗は承服しかねるようで箸を持ったままぶつぶつ何かを言っている。責任感からくるものだろうか。弟の綺香には存外あっさりと頼るくせに、と思って、自分でも気づいていなかった嫉妬を今さら暴いてしまう。以前智枝子が二人で話したときに嫉妬の話を持ち出したのは、彼女も同じような気持ちを抱いているからかとやっと得心がいく。

「それに、これから先もふたりでいるんだから、今回のことだけで考える必要はないんですよ」

 そう言うと、飛紗は少し心が揺れたようで、もぐもぐと頼りなく鯖を咀嚼しながら、ちらりと視線を持ちあげた。

「……飛紗ちゃん、ブライダルエステ通っているでしょう」

 持ちあがった視線がぱっと落ちる。明らかにぎくりと体を硬調させたのを見て、すでに茶が入っていない湯呑を小さく回すように揺らした。卑怯な手ではあるが、それこそ、致し方ない。

 ドレスのデザインは、もちろん瀬戸も知っている。肩も背中も出ているので服とその着こなしに心を砕く飛紗が気にしないはずはない。ウエディングプランナーにエステの勧めを受けて愛想笑いでやんわりと受け流しながら、チラシはしっかり持ち帰っていたのを当然見逃したりはしなかった。

「そ、いや、わたしがしたいだけやから」

「ふたりの結婚式で必要なドレスを着るためにしているのに、飛紗ちゃんだけが負担するのはおかしいですね?」

 ごちそうさま、と飛紗が箸を置く。不服が顔に表れていた。

「眞一がわたしに奢った総額と比べたら安いもんやし」

「論点がずれています。だいいち全部金額で計ればよいというものじゃないでしょう」

「そうやけど、そうやないやん」

 そういうことやないやん、と呟くように落とされて、瀬戸はまじまじと飛紗を見る。いつも以上にこだわりがつよい。そしてめずらしく、自分がどこか腹を立てていることに気づいた。これも嫉妬からくすぶり始めた火だろうか。だとしたら相当情けない。

「うまく言えん」

 ごちそうさま、ともう一度言い放って、飛紗は逃げるように立ちあがった。皿を重ねて流しに持っていく。洗うのは瀬戸の役目だ。茶碗に水をそそぐ音が聞こえたかと思うと、飛紗は洗面所に消えていった。

 いってらっしゃい、いってきます、と言葉を交わしつつ、飛紗は普段より一〇分ほどはやく家を出た。忘れたわけではないだろうキスもせずに。

 皿を洗って歯を磨き、皿を拭いて食器棚に仕舞って棚を閉める。途端、ああ、と細い声が漏れた。ひとりになったふたりの家で、やってしまった、と瀬戸はほんのり湿った手で顔を覆った。



 久々の自己嫌悪である。無心で学生のレポートを採点しては胸の内で嘆息してしまう。講義などは何ということもなく進められるが研究を進める気にはなれず、足は自然と廣谷の研究室に向かった。同じ階、廊下の向こう側にある廣谷の研究室は、扉を開けるとまず背の高い本棚が威圧感を与えてくる。用がなければ入ってくるな、用があっても入ってくるなという廣谷からのメッセージであるが、当然瀬戸は歯牙にもかけない。ノックをしたところで無駄なのでそのまま足を踏み入れていく。

「遅いでえ眞一」

 ソファに深く腰かけてこっちこっちと招くように手を挙げる御仁は、廣谷ではない。廣谷は入口に背を向ける形で置いている机に座っている。背中だけでげんなりした様子が伝わってきて、こちらに目を向けたかと思うとなんとかしろと言わんばかり、顎をくいと前方に出した。顔には「不快」と深く刻まれている。

 向かい合わせにならないように、廣谷の部屋にはソファが一つしか置いていない。徹底して人と交わるのを拒否した配置なのだ。座る前に、脇に立ってうやうやしく頭を下げる。まるで約束でもしていたかのごとく口ぶりだが、そうではなく、押しかけだ。

「お久しぶりです、朽木先生」

「ほんまにな。弟子が師匠に挨拶に来んとはどういう了見や」

 座らず連れて出ていけという熱狂的な視線を感じ取るものの意に返さず、一笑して隣に失礼する。どこかで本の雪崩が起きた音がしたが、部屋にいる誰一人として気にしない。

 朽木は関西における瀬戸の恩師であり、史学の権威でもある。年齢も年齢なのでいまは名誉教授となり、そこそこ悠々自適に暮らしている。ただ熱も体も衰えていないらしく学会への参加、後継の教育など意欲的に行っていた。瀬戸のことを眞一と呼ぶ歴史学の関係者は朽木だけだ。

「何度行っても先生がお留守なんですよ。大福届きましたか?」

「届いた。届いた日のうちにのうなったわ」

 瀬戸の性質を知っている朽木は口角を上げたまま怨めしげに見つめてくる。お前が意図しないかぎり留守なわけがないだろう。気のせいです先生。声には出さずに会話をして、はははと二人で笑う。朽木のことは好意的に感じているし尊敬も感謝もしているが、適度にあしらわれるのがすきなことを瀬戸はわかっていた。どうも朽木は偉くなりすぎたらしい。若者に不遜に接せられて愉快なようだ。あとはまあ、奥方に気に入られているのが気に喰わないようなので、できれば家に訪問する際には会いたくないというのが正直なところである。

 追い出すのを諦めたらしい廣谷が背を丸めてページをめくっていく。彼が師事した教授と朽木の仲がよいため、頼まれる形で朽木が廣谷の面倒も見始めたことから、師弟関係ではないにせよ二人も一応懇意ではある。廣谷がそう思っているかどうかは別として。

「来年度から准教授やて? うちの誘いを蹴ってこっちに入ったくらいやから、これくらいの出世の速さは当り前やな」

「京都には廣谷さんがいないので」

「この男のどこがそないええんか、俺にはちっともわからん」

 巻きこまないでください、という言葉が背中に書いている。発言すると有無を言わさず朽木にあれやこれやとつっこまれるので、意地でもこちらを向く気はないようだ。

「けどめずらしいもん見れただけ来たかいあったわ。たまには芝居も足をのばして観に行くもんやな」

 ふふん、と朽木は得意げに笑い、顎に手をやった。瀬戸は溜息をつく。年の功というか、ごまかしが利く相手ではない。天性の人たらしなのだ。知らず知らず、引っ張りこまれてしまう。

「女と喧嘩した。図星やろ」

 首をかいて、仕方なく首肯する。廣谷がぱっと頭を上げて、椅子ごとこちらを向いた。

「別れるんですか」

「別れるわけないでしょ」

 語気をつよくして返せば、廣谷は無表情のまま頷いて立ちあがる。お湯を沸かし始めたので、どうも珈琲を淹れてくれるらしい。催促する前に廣谷から動いてくれるなんて初めてのことだ。

「何てこと言うねん。俺なんて先月からご祝儀用意しとるんやで。別れられたら困る」

 どういう怒りなのか、朽木は豆を電動ミルに入れた廣谷をなじるが、廣谷は無視である。披露宴の際、二人を隣席にしていることは当日まで黙っていよう、と改めて思った。

 喧嘩というか、今回のことは完全に自分が一言多かった。責めるような口調になってしまった。あるいは隠し事を暴くような。それこそふたりのことなのだから、飛紗が納得してよろこんでくれなければ意味がないというのに。

 はあ、と顔を覆って嘆息する。結局駄々をこねただけではないか。金の話をしたいわけではないのに、金はあるから従えと言ったのと変わらない。

 朽木がぽんぽんと瀬戸の背中をたたく。

「ああ、眞一くんが落ちこんどると気分ええなあ」

 なんてことを言うのか。かちゃりと音がして顔を上げてみれば珈琲が現れたので、ありがたく飲む。どの店で飲むより、廣谷が淹れてくれるほうがおいしい。朽木は珈琲が苦手なので茶の催促をして、廣谷がしぶしぶとそそぐ。そもそも茶を出しているだけでも彼なりの気遣いかつ譲歩だ。

「せやけど、いざというときつよいんは女性のほうやで。どういう喧嘩したか知らんけど、うかうかしとるとさっさと謝られてもうて罪悪感だけが残るで」

 超がつくほどの愛妻家である朽木に言われると説得力がある。経験の見える助言に、はい、と頷くしかなかった。

「本命にはうまく立ち回られへんなんて、かわええもんやな。ご祝儀上乗せしたるわ」

 わははと大声で笑い、今度はばしばしと瀬戸の背中をたたいた。

 それで何があったんやと聞かれて答えれば、

「払わんのやなくて払う言うて喧嘩になったんか? はあ、時代やなあ。面倒くさ」

 と一蹴された。宣言をするまでもなく、亭主関白が当り前の世代である朽木にはなかなか理解しがたいようだ。

「俺なんか全額嫁さんの両親に出してもろたけどな」

 下積み時代から支えてもらって、新潟に新婚旅行に行った話は耳にタコができるくらい聞いている。とはいえ恩返しとして家を建て直して二世帯住宅にし、死ぬ間際まで介護をしていたというのだから立派な話だ。

「わかっとるやろうけど、もっとうまくやりいや。人に聞かせて頑固な女と思われるかどうかは男の度量次第やで」

 にやりと笑われる。試すような視線に眉根を寄せて応えた。何度目かの深い嘆息を大笑されて気分が悪い。

「ほんで丞、お前はどないやねん」

 突然話を振られて、廣谷はびくりと肩を震わせた。廣谷のことを丞と呼ぶのも、学者関係ではやはり朽木だけだ。

 智枝子のことを教えてやろうかと思ったが、ここに至るまでずっと本格的には追い出さずに我慢していた廣谷を思えば酷な気がした。こんなことを言うと廣谷はなおさらいやがって白い目で見てきそうだけれど、胸の内までは伝わるまい。

「……瀬戸が女のことで悩んだり落ちこむ姿は見たくありません」

「そういう話違うねん」

 追従の手を緩めずあれやこれやと質問する朽木とろくに答えず生返事をする廣谷を見ながら、そうか、と思う。廣谷がそう思うのなら、正さなければいけない。

 瀬戸、とついに助けを求める声が聞こえてきた。恋愛だの結婚だのというのは廣谷にとって鬼門であり、特に人から言われたくない事柄である。

「先生、せっかく来ていただいたので夕飯でも一緒にどうですか」

「今日飯を外にしたら余計こじれるで。俺も嫁さんがつくって待っとるから帰るわ」

 あっさりと腰を上げて、朽木は結局何をしに来たのか、上着を羽織りながら颯爽と帰っていった。部屋に二人残り、朽木先生はあなたの領分ですよ、と廣谷に怨みがましく睨みつけられてしまう。



 夕飯は瀬戸の担当だ。何かをつくるのが億劫で豚肉と白菜のミルフィーユ鍋にする。簡易な料理は多忙なときに回したほうがよいのはわかっているが、飛紗と話し合うまではどうにも気持ちが落ち着かなかった。ひとりであれば何かを買って帰るか、どこかに寄って帰るところだが、ふたりだとそうもいかない。連絡が入っていないので、飛紗もまっすぐ帰ってくるだろう。

 白菜は包丁で切ってしまうと栄養価が落ちるので、芯に切れ目を入れたら手で割く。必要分以外は冷蔵庫に戻し、葉を一枚一枚はがして豚肉と重ねる。とはいえ食べやすい大きさにするのにはさすがに包丁を入れて、あとはひたすら鍋に詰めこんでいく。だしを入れたら沸騰させて、蓋をして煮る。白菜の芯がしんなりとして、白が透明さを帯びていった。締めのうどんも適度にゆがいてざるにあげておく。

 このメニューで飛紗が帰ってこなければあまりに侘しすぎる。その際は明日に回してしまおう、と台所に立ったまま発泡酒を取り出してプルタブを引っかけた。アルコールを体に入れたところでなんの変化もないのだが、気分の問題だ。一缶飲みほしたところでちょうどドアの開閉の音がした。

「ただいま」

「おかえり」

 おずおずと顔を出され、瀬戸は穏やかに微笑する。飛紗の頬に反省、の二文字が書かれていた。

 外のひんやりとした空気がふわりと漂ってくる。上着、マフラー、手袋と三月に入ったいまも重装備の飛紗が、眞一、と意を決したようにまっすぐ見つめてくる。

「手、洗ってきたら? 夕飯できてますよ」

「え、ああ、うん」

 出鼻をくじかれて、飛紗がぱちぱちと瞬かせながら頷いた。朽木の言葉が脳内で再生される。先に謝られて、飛紗が自分を悪者にしてしまうようではやりきれない。

 鍋を運んで準備を整えると、部屋着に着替えた飛紗が戻ってきた。本来は先に風呂に入りたいらしいが、平日は仕事で夜も遅いので夕飯を優先させる。

「飛紗ちゃん、朝はごめんね」

 座る前にするりと手をとる。お互い夕飯時に気まずい思いはしたくないだろう。荷物を置いて飛紗も落ち着いたこのタイミングで切り出そうとずっと考えていた。ふと視線を落とせば、爪の色がはがれかけている。飛紗が気づかないわけはないから、ほんとうは直してきたかったに違いない。

「私がね、行きたかったんです、飛紗ちゃんと」

 学がどうではなく、金がどうではなく。

「そこに妥協を入れてほしくないなという、私の我儘でした」

 別に飛紗が海外に興味がなく、行きたいところが国内にあるなら、それでもかまわない。しかし義務的に旅行をするのは本意ではなかった。どうしても厚意を受けとるのがいやならば懐が潤うまで日を開ければよいのだし、無理をする必要などないのだ。まして他のことを引き合いに出して飛紗を責めるなどお門違いだ。

「わ、わたしこそ、頑なでごめん」

 気まずそうに前髪を触りながら、うつむいて飛紗は言う。先に謝られてどうしたらよいのかわからないのだろう。

「朝、平等と公平は違うって言われて、そうやなって反省したっていうか、全部自分でなんとかせんとって肩肘張っとったっていうか。申し訳なさが先行してもうて、これやとひとりでおるんと変わらんよね」

 最後は自嘲気味に眉を下げて言うので、反射的に抱きしめる。少しして、ほう、と安堵したような吐息が聞こえてきたかと思うと、背中に腕を回された。身長がほとんど変わらないので、頭がすぐ横にある。やわく触れると、さらさらの髪が心地よい。

「わたしも、眞一と行きたい」

 学くんには申し訳ないけど、と唸るので、体を離して頬をなでた。

「そういうときは、突き抜けるような感謝だけでいいものです」

 今日初めて、やっと重なった唇を震わせて、飛紗はうん、と頷いた。

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