侵食

 世間一般的に、バレンタインデーは注目されてもホワイトデーはあまり重要視されていない気がする。結局女性のほうが根本的に贈り物をするのがすきなのだろうか。それともどこから言われ始めたのか、お返しは三倍返し、というやつに男性がしりごみしているのだろうか。

 飛紗の職場では女性社員のほうが多いので、当然のように女性社員に力関係として天秤が傾いている。決まった金額を全員がカンパし、経理がその予算に合わせてチョコレートを買って休憩室に置いておくのが毎年の流れだ。置いているだけなので男性社員が全員食べられるとは限らないし、女性社員も同じく食べる。そのわりに、男性社員は食べていようと食べていなかろうと、力関係ゆえにお返しを用意せねばならない。茂木や尾野などはアソートを買って休憩室に置き「ご自由にどうぞ」としているが、量は少なくとも一人ずつに渡す人もいる。後者のほうが基本的に人気だが、それをやるのは既婚者が多い。

 しかし予想どおり瀬戸眞一という男は抜け目なく、三日ほど前からきっちり用意していた。あの大量のチョコレート(まだいくつかは冷蔵庫にねむったままになっている)の贈り主に個々に返すつもりらしい。大学に研究室はあっても休憩室はないだろうから当り前なのかもしれないが、実にマメだなと感心する。人数が多いので量は少ないが、選べるよう数種類あって、苦手なものがあった場合の配慮がされている。抜け目がなさすぎてじゃっかん引く。そのうえ、飛紗の分もお返しの全種類が別にされていた。

 そのなかの一つ、チョコを挟んだ小さいクッキーを口に放る。さくさくとした食感と、メレンゲなのかほろりとほどける舌触りがおもしろい。

 絨毯の上で足を抱えて、ちらりと隣に座る瀬戸を見る。眼鏡をかけて黙々と本を読んでいた。ページをめくるペースが飛紗よりも断然はやい。あれで頭に入っているのだから恐れ入る。瀬戸は読書中に話しかけられても特に怒ったりはしない。それでも自分がされたくないので、基本的に何かを読んでいるときは話しかけないようにしている。

 いつもにやにや、もといにこにことしている瀬戸の口が一文字に結ばれて、目が真剣になることはそう多くない。普段との違いに、ともすれば腹を立てていると思われるだろう。

 無意識のうちにじっと見つめ続けていると、瀬戸が軽い溜息とともに本を閉じた。読み終わったようだ。不意に目が合って、なぜだか慌ててしまう。

「これ、食べとるよ。お返しありがとう。おいしいで」

 一つをつまんで口元に運ぶと、瀬戸は飛紗の指先から直接食んだ。咀嚼しながら眼鏡と本を眼前のテーブルに放り投げる。

「これはおまけです。お返しは別」

 ぽんと頭に手を置かれて、首を傾げた。明日のために、お返しとして用意していたのではないのか。てっきり同じものかと思って、特別ではないことにがっかりしていたというのに。いや、少し考えれば瀬戸がそんな横着をするわけないことくらいすぐに考えつく。そもそもホワイトデーは明日なのに、今日渡したりはしないだろう。不満と嫉妬が先に立ってしまったのだと自覚して恥ずかしくなった。

「バレンタインはありがとうございました。ホワイトデーですから、お返しです。明日渡そうと思っていたんですけど、前倒しで」

 寝室から戻ってきた瀬戸にはい、とリボンのついた箱を渡されて、箱と瀬戸の顔とを交互に何度も見やる。飛紗が用意したチョコレートと手作りのお菓子なんかとは比べ物にならない。おそらく金額的にも。見覚えのあるブランド名が刻まれている。

 それでも思いがけないお返しに頬が紅潮して、おそるおそる開けてもいい? と聞いてみる。ふっと相好を崩してもちろん、と答えられて、この顔が見られただけでもバレンタインをした価値があった、などと思う。

 金の細いブレスレットが現れて、目が輝いたのが自分でもわかった。チェーンにつけられた軽やかなパーツが揺れる。主張しすぎないので、どの服装でも合いそうだ。

「あ、ありがとう。かわいい」

「どういたしまして。飛紗ちゃんがいつもつけてる時計とも合いそうだなと思ったので」

「つける。つけたい」

 瀬戸に左の手首につけてもらって、手を表にしたり裏返したり、きらきらとしたブレスレットを眺めた。薬指につけている金の婚約指輪ともバランスがよくてうれしい。

「眞一、ありがとう」

「うん。もう聞きました」

 するりと左手をなでられる。瀬戸の手はいつも温かく、飛紗をほっとさせた。

「左手からじわじわ侵食していきます」

「なんそれ」

 笑っていると、戯れに指を甘噛みされてふざけた叫びをあげた。指から肩、肩から首にきたところで、目線がぶつかって唇を重ねる。何度も短く重ねるのに羞恥が起こって、口元は離れて額を合わせるとぐいと頭を後ろから押さえつけられた。くるしい、と主張してみるが聞いてくれるわけはない。生温かい侵入を咥内に許したあとしばらくして、やっと瀬戸が自由にしてくれた。

「……満足した?」

「うん」

 こちらは自分でも赤くなっているとわかるくらい顔が熱いのに、対する瀬戸がしれっとしているのが悔しい。瀬戸の薄い唇に触れると、ほんのり湿っていた。

「こんな大きなお返しもらえるんやったら、もっと凝ったんしたらよかった」

 申し訳ない、と言おうとして、寸でのところで飲みこむ。先日喧嘩になったばかりだ。ありがたいと思った気持ちのほうを大事にしなければ。

「最初はネックレスにしようかと思ってたんですけど、金額があまりに大きくなると飛紗ちゃん怒るだろうなあと思って」

「それは怒る」

 ホワイトデーである。誕生日や記念日ではない。先ほどのお菓子でも充分であるし、このブレスレットだってそれなりのものだろう。年齢からみると手作りの菓子などに挑戦した飛紗のほうが稚拙なのかもしれないが、イベントごとすべてに高価なものをもらうのは気が引ける。

「でも左手から侵食ってことは、次は首なんかな」

「それはいい考えです」

 体を瀬戸に預けて柔らかい愛撫を受けながら、自分は何ができるだろう、と考える。クリスマスにプレゼントしたキーケースは使ってくれているのを見るし、結婚指輪はまだ手元にないが贈りあった。誕生日はまだきていない。バレンタインデーに渡したものはすでに消化された。つまり瀬戸に比べて、手元に残るものをほとんど渡せていない。

 相手の持ち物に自分の跡を残したいという意味では、飛紗も瀬戸をもっと侵食したかった。アクセサリー系は腕時計すらいやがるのでだめだ。いまはスマートフォンで時間を確認しているようだが、飛紗が学生時代、瀬戸を大学講師として接していたときは懐中時計を持っていたのをふと思い出す。そうだ、そういえば持っていた。いまも授業中は使っていたりするのだろうか。

「眞一って懐中時計使ってたやんな?」

 唐突な問いにも、瀬戸はなめらかに返事をしてくれる。

「うん。職場に置いてますね。講義しているときに携帯電話で確認すると体裁が悪いので」

 予想どおりの答えに、小さく唸る。やはり授業中だけか。そうなると候補としては下位だ。

 他の小物を思い浮かべてみる。財布、筆箱、文房具、カードケース、折りたたみ傘。だめだ、発想が貧相である。瀬戸はとにかく荷物が少なくて、財布さえあればどこまでも行ってしまうようなところがある。

 ひとに何かをあげるのは難しい。小さく嘆息して、体を丸めるようにする。側頭をなでられて心地よかった。身長はほとんど変わらないが、こんなときは自分が瀬戸よりも随分小さくなった気がして愉快だ。女にしては背が高いのをコンプレックスに思ったことはないし、瀬戸も飛紗と差がないことを気にしていないようなのに、不思議な感覚である。

「探るなら、もう少しばれないようにしたほうがいいですよ」

 あっさり指摘されて、ごまかすように瀬戸の手に手を重ねた。顔に出やすいのは自覚していたが、さすがに決まりが悪い。また今度考えることにする。見透かされたからと素直に聞いたところで具体的に教えてもらえるとは思えないし、聞いたものをあげるのはなんだか納得しかねる。よろこばせたいのと同時に、驚かせたかった。

「そうや。店舗の子に珈琲もらったん忘れとった。淹れようか」

 ちょうどお菓子もあるし、と話題を変えて立ち上がろうとすると、腕をとられてしりもちをつくような形になる。こめかみに柔らかい感触があった。

「いいよ、あとで」

 輪郭を耳元からなぞられて、す、と顎を持ちあげられては抵抗のしようもなかった。瀬戸の指にはまったく力が入っていないのに、そうするのが当り前のように従ってしまう。吐息が肌に触れると腰のあたりがぞくりと震えた。

 以前智枝子に、「二人はあんまりべたべたしなさそう。大人の付き合いというか」と言われたが、これは相当、べたべたしているほうではないか。それとも同居が始まってお互い高揚しているのか、いや前からこんなものだった気もする。ただ、多少飛紗も慣れて、応えられるようになってきた。そろそろ瀬戸に触れられていないところはなくなったのではないだろうか。

「呼んで」

「ん?」

「名前、呼び捨てにしてほしい」

 瀬戸の前髪を耳元に寄せるように額をなでる。飛紗がホワイトデーのお返しに嫉妬したことを感づいているのか、瀬戸が言葉少なに唇を寄せてくるのは大概何かを埋めようとしているとき、の気がする。そう思うのは乾いた器が満たされるような心地よさがあるからかもしれないし、単にそう思いたいのからかもしれない。

「飛紗」

 あまりに甘く響いたので、耳がくすぐったくなってしまう。ん、と返事にもならない声を伝えて、お礼の代わりに口づけた。

 年齢を重ねて「べたべたしなさそう」な「大人の付き合い」になるのなら、いまのうちに一匙でも多く触れあった記憶を増やしておきたい。きっと一〇年後、二〇年後、五〇年後で理想は異なって、やはりこんな風に時間を惜しんで互いを抱きしめあうのは、いわゆる若いうちの特権であると思えた。少なくともまだたりない。

 指輪が飛紗をつよくしたように、ブレスレットが飛紗を安心させる。淡く拘束された手首が瀬戸の「特別」だと主張している。これはきっと五〇年後にも変わらない。

「飛紗ちゃん、腰元にほくろありますよね」

「えっ、知らんかった。ドレス着たとき見える?」

「見えない」

 選んだウエディングドレスは肩から背中が大きく開いたデザインで、ブライダルエステに何度か通っているが当日着こなせるかは不安なところがある。試着したときには脇や二の腕が気になったし、自分で確認できない分背中はもっと不安だ。もちろん瀬戸はどんな状態であれ褒めてくれるだろうけれど、人に見せてかつ写真も撮るわけであるし、何より可能なかぎり最高の自分でありたい。瀬戸の隣に立つのがふさわしいような、誇ってもらえるような。

「見せたくもないですね」

 飛紗が引け目に感じている恋愛経験のなさが、瀬戸にとってはよろこばしいものらしい。自分しか知らないというのが優越感を呼び起こすと前に言っていた。これまではそんなこと気にしたことなかったのに、とも。

 だいたい瀬戸の異性の好みというのは基本的に年上で、確かに相手の経験など気にしていたらきりがなさそうだ。

「わたしも知っとるよ」

 頬に手をやって、視線を合わせる。双眸の奥の揺らめく炎を見つけて、同じだ、と思う。

「眞一はね、内腿にほくろがある」

 秘密を披露するかのごとく伝えると、瀬戸が目を細め、唇でうつくしい曲線を描いた。思わず見とれてしまって、頬に置いていた手をすべらせる。腕に力を込められると、飛紗の体は呆気なく瀬戸に捕らわれた。

「寒くないですか?」

「ううん、ぜんぜん……」

 髪が耳にかけられ、瀬戸が音を立てて愛撫した。脳まで響いてびくりと反射的に目をつよく瞑る。

「ブレスレット、やっぱりよく似合っています」

 満足げな瀬戸の声がしたが、そのあとすぐにふさいでしまったので続きはわからなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る