引越
荷物はほぼ運び終わった。昨日のうちにバルサンはかけたし、細かいところの掃除もしたので、あとは片づけつつたりない家具や食器を買い足していくだけだ。瀬戸の荷物の量が飛紗とほぼ変わらないことに、何度見ても首を傾げてしまう。押しこめるようにして収納されていた魔窟は何だったのか。実はあの空間は歪みがあったのか、それとも段ボールのなかがブラックホールになっているのか。瀬戸いわく整理したとのことだが、どう整理したのか、手伝うと言っても固辞されてしまったのでもはやわかる術はない。
いろいろ回ったが、結局突然キャンセルが出たので内見だけでも、と不動産屋に誘われて見に行った部屋にその場で決めてしまった。駅から徒歩一〇分弱、2LDKで築二〇年未満、そのうえ家賃が安くて裏があるのではないかと疑ってしまうほどの良物件だ。結婚式の日取りとよい、瀬戸といるとここぞという肝心なところがいつも好転する。当の瀬戸は幸運であることが当り前らしく飄々としていて、そして飛紗もそんな瀬戸がすでに当り前で、慣れにおそろしさを感じなくもない。
何はともあれと真っ先に購入したベッドだけがきちんと居場所を持って鎮座している。やはり瀬戸は本来一人で寝たいのだろうとはわかっているのだが、かまわないと言うので我儘を通すことにした。その代わり、それまで瀬戸の家にあったシングルベッドではなく、きちんとダブルベッドだ。お試しで同居したときにはどう考えても毎日二人で寝るには狭いベッドに無理やりくっついていたので、今度はもう少し、瀬戸も楽なはずだ。おそらく。そもそも広さとは関係なく、人と寝るのが苦手だと言われてしまうと降参なのだけれど。
洗濯機や冷蔵庫は瀬戸が使っていたものをそのまま使用するし、今日から暮らしても不便はないだろう。急なキャンセルと契約だったので、一応書類上は三月からの入居なのだが、大家の厚意でもういつでも住み始めてよいことになっている。
「ちょっと休憩しましょうか」
瀬戸の一言で、飛紗は結んでいた髪をほどく。日当たりがよくて、窓際はぽかぽかと暖かい。隣に座った瀬戸の肩に頭を載せる。
これから、瀬戸とふたりで、ここで暮らす。
実感はあまりわいていない。結婚指輪が出来上がるのは先であるし、婚姻届はまだ出していないし、結婚式もぎりぎりまで準備に追われそうだ。このタイミングで引越しを入れたのは正直なところばかだなと自分でも思うのだが、瀬戸と足並み揃えて生活を始めたかった。
「片づけ、ぜんぜん終わる気がせんな」
「ほとんど運んだだけですからね」
どちらにせよ、落ち着くまではもう少しかかるだろう。最寄駅は普通電車しか停まらないが、飛紗は乗換えがなくなったうえ、時間も短縮になった。対して瀬戸は職場まで電車の乗換えが一つ増えて、その分時間がかかるので、生活リズムを変えなければならない。
この調子だと、明日の休みも整頓に追われそうだ。ある程度は整えて、たりないものを買い足すためにも段ボールを開いては片づけ、開いては片づけという作業を少しでも減らしておきたいが、運ぶだけでだいぶ疲れてしまった。ぽんぽんと頭をなでてくる瀬戸の手が気持ちよい。
「ほんとうに今日からで大丈夫ですか? 全部荷物が片づいてから来てもいいんですよ」
すでにシングルベッドは処分して、大型の家具をこちらに運んでしまった瀬戸が言う。一人で住んでいた部屋には何も残っていないため、彼は今日からここで暮らさざるをえない。
「服とかもう持ってきてもうたもん。なに? いやなん?」
「まさか」
わかりきった返答に、くすくすと笑う。戯れに短く唇を重ねられた。
やらなければ終わらない。大きく伸びをして、再び髪を一つにくくる。瀬戸はほとんどのことに対して嫌味なくらい優秀だが、こと掃除や片づけになると要領が悪い。まったく手がつけられないか、整えすぎて生活感がなくなるか、どちらかだ。
寝室(にすることにした部屋)に備えられているクローゼットはすきに使ってよいと言われているので、そこから手をつけることにする。服をハンガーにかけては仕舞っていき、瀬戸の家に飛紗の私物入れとして置いていたラックに下着や靴下など小物を詰めていく。
これまで魔窟にぞんざいに放り投げられていた瀬戸の服の収納も任せられたので、段ボールを開ける。一応ウォークインクローゼットなので広く、二人分の服でも余裕を持って納まりそうだった。瀬戸の服を広げながら、こんな服があったのか、この服は絶対に似合う、と一人で盛り上がってしまう。人の箪笥の中身を見るのはたのしい。瀬戸の服はこれまで全貌を把握することなど無謀に近かったから、こうして引越しを機に目にできてなんだか得した気分だ。
やはり基本的には手堅い。白黒灰色のモノトーンの服をベースに、差し色の入った服や、体のラインがすっきりして見える組み合わせをつくりやすい上下がそろっていて、自分の見せ方をよくわかっている。腹が立つな、と真顔で頷いた。半袖がほとんどないが、どんな服を想像してもどこか似合わない。本人がいちばんわかっているのだろう。暑がりであるのに半袖が似合わないとは致命的だ。
スーツは二着しかなかった。ネクタイだけ四種類あったが、学会くらいしか着る機会がないらしいのでこんなものなのかもしれない。靴は大概かっちりとしたブランドものの革靴を履いているし、悔しいけれど洒落ている。あとは腕時計の一つでもすれば完璧であるのに、と整理の手はとめずにもやもやと思案する。
仕事でもさんざん服の整理をしているので、飛紗としては手慣れた作業だ。想定どおりきれいに片づいて一人誇らしげに息を吐く。
段ボールを潰してから、別室で本棚を整理している瀬戸のもとへ顔を出した。
「うわ、ぜんぜんあかんな」
「そうですね。まあ、始める前からわかっていたことなので」
組み立て式の本棚を三つ買っておいたのだが、とても入りきりそうになかった。飛紗の本を先に詰めてくれたようで、見覚えのあるものはすでに棚のなかで整列していた。しかし瀬戸の周りにはまだ本があふれている。文庫、新書、単行本、漫画、そして古書類。
「収納ボックスを買って、押し入れに入れましょうか」
確かにこれ以上棚を買うと、この部屋の圧迫感がすごくなる。そもそも壁際はこれ以上棚など置けない。
そうと決まれば瀬戸は仕事道具らしき書物を次々と棚に並べていった。歴史に深く興味のない飛紗はどういう並び順なのかよくわからなかったが、法則はどこかにあるのだろう。
飛紗はリビングの整理をすることにして、邪魔にならないよう部屋を出る。テレビはもうつないでくれたし、テーブルは梱包を解いたし、瀬戸が持ってきた食器は真っ先に収納したし、パソコンやプリンターももう出してある。あとはこまごましたものだけだ。片端から段ボールを開けてみることにする。
するとぬいぐるみたちが顔を出して、気持ちが華やぐ。ひとまず食卓に並べてみた。最終的にはベッドの枕元にでも座ることになるだろうけれど、今日しばらくはここにいてもらおう。それぞれなでると、ここはどこだという不安げな顔から、どこか安堵した表情に変わる。
瀬戸も連れてきているはず、と段ボールを探してみる。二つ目を開けたところで、手乗りサイズのうさぎのぬいぐるみが顔を出した。生まれたときから一緒なので、唯一手放すことができないと瀬戸が大切にしている「弟」だ。飛紗が連れてきた子たちの中心に入れて、わしゃわしゃとなでる。飛紗を含めても、このなかではこの子がもっとも年上だ。
できれば明日はなるべくゆったり過ごすためにも、今日中に段ボールは片してしまいたい。ぬいぐるみたちに見守られながら、もう一度気合を入れなおした。
*
まさか仕事鞄を忘れるだなんて。
ほとんど荷物が片づいたとよろこんでいたのに、なんとも間抜けだ。実家がすぐに戻れる距離でよかった。溜息をつきながら、今度こそ忘れ物はないか入念にチェックをする。
ついでに夕飯を買って帰ることにしたが、何がよいだろうか。そもそもこれで財布まで忘れていたら大変だと鞄を覗いて、きちんと入っていることを確認する。よかった。瀬戸に腹を抱えて笑われるところだった。家族はみんな出ていたのが幸いだ。このままいけば、少なくとも瀬戸以外には間抜けさがばれずに済む。
窓の外はすでにどっぷりと日が暮れている。立春も春一番も迎えたが、まだ冬だなあ、とマフラーを直した。
二度目なので、感慨深さはない。はやいところ帰ろう、と思って、もう「帰る」といえばあの家なのだと気づき、ほんのひとさじさびしくなる。
こんこん、と音がして、振り返る。綺香がドアのところに立っていた。
「びっくりした。綺香か」
ちょうど帰ってきたところらしい。コートを着たままだ。誰もいなかったはず、とどきどきしてしまった。
綺香は自分を指さしたあと、左手の手の平にチョキの形をした右手を載せて、すぐに上げた。『俺もびっくりした』
『何しとんの? 今日から瀬戸さんと住むんやろ?』
「ちょっと忘れ物を」
ばれてしまった。しかしうつむくと口の動きがわからず綺香には伝わらないので、羞恥を堪えながら伝える。
綺香くんと飛紗ちゃんって恋人みたいだね、と言ったのは誰だったか、なぜかふいに思い出した。恋人はわからないが、綺香とは歳が近いため、双子のような感覚がどこかにある。家族で相談するというと両親ではなくお互いだったし、あまりに二人で一緒にいるので、幼いころ桂凪が仲間はずれにされる、ずるいと泣きわめいていた記憶がある。
出かけるときは手をつないで、秘密があれば共有して、何かあれば真っ先に報告をしていた。いまも大きくは変わらない。手はつながなくなったし、秘密は自分の胸のうちに秘めるようになったし、真っ先に報告する相手は別になってしまったけれど、それでも。
弟の顔を改めて見て、うっすらと微笑む。もっと柔らかく表情をつくるつもりが、頬のあたりがかたく歪んだのが自分でわかった。
飛紗ちゃん、と笑いながら追いかけてくる弟の姿は、いつまでも中学生のまま、とまってしまっている。
「情けないから、お母さんたちには内緒にしとって」
事故のあと、どうしたらいい、と綺香は弱々しく、ノートの罫線を無視して斜めに文字を書いた。だいすきだった音楽は二度と聞けなくなって、ギターを弾いても弾けているのかわからなくて、自分の声すら確認できない弟に、飛紗は自分が答えた言葉を、はっきりと憶えている。
ペンを奪い取って、姿勢をよくすること、と書き殴った。笑顔を絶やさないこと、似合う服をきちんと着ること。
それだけで他人の評価はあっさり変わることをよく知っていた。たったそれだけのことで事態が好転しやすくなるのなら、いくらでも利用したほうがよいと思った。綺香はわかった、と返事を書いて、がんばる、と自信なさげに小さな声を出して微笑んだ。
「じゃあ、今度こそ行くから。三人暮らしって、綺香も大変かもしれんね」
しかし、智枝子がよく来るから大丈夫だろう。もう彼女はすっかり鷹村家の一員で、ここ一、二年はいるほうが当り前だった。退院して以来一言も発さないどころか、口すら動かそうとしない綺香をしゃべらせたのだから、感謝しないわけがなかった。たとえそれが智枝子と二人のときだけで、やはりいまだに頑なに口を開こうとはしないにしても。
そういえば、とふっと笑ってしまう。瀬戸と付き合うことになったと綺香に言ったとき、あまりの驚きに「えっ」と声をあげていた。流してしまったが、内心感動した。たぶん家族のなかではいちばんだと思えば、自慢したいような気持になる。
「飛紗ちゃん」
耳慣れない、しかし懐かしい声がして、反射で足がぴたりととまる。突然目の前が海になって、考えを言葉に昇華することができない。体がかたまってしまって、後ろを向くのは途方もなく難しいことのような気がした。
「ちゃんと、言ってなかったから」
そこで言葉はとまり、おそるおそる首を回す。姿勢をよくして、似合う服をきちんと着た綺香が、照れくさそうに笑っていた。
「結婚、おめでとう。飛紗ちゃん」
ありがとう、とあっさり答えるつもりで口を開いたら、ぶわりと波が押し寄せてきて、半開きのままでうつむく。そんな感じやなかったやん、今朝だって普通にしてたのに、いまたまたま忘れ物したから戻ってきただけで、と頭のなかでは流暢に話せるのに、飛紗のほうが声をうまく発せなかった。
それとも、悩んでくれたのだろうか。
言えばよかったと後悔してくれていたのだろうか。
ゆっくりと口の端から息を吐いて、できるかぎりの笑顔になる。
「ありがとう」
なるべく口を大きく開いて、はっきりと動かしながら答えた。途端、ぼろっ、と涙がこぼれて、慌ててふき取る。不意に抱きしめられて、言われた恋人というのはこういうところだろうか、と笑ってしまう。抱きしめ返して、じゃあね、と手を振った。今度はうまく笑えていたと思う。玄関まで見送ってくれた綺香は、幼いころから何も変わらない、やさしい目をしていた。
*
とまらない。足が自然と動いて思わず走り出し、勢いよく改札を通って、ちょうどホームに入ってきた電車に飛び乗る。ドアに体をもたれさせてぜえはあと息を整えている間も、ぼろぼろと涙が落ちてとまらなかった。
終点で乗り換えて、列に並んで電車を待ち、席が空いていたので座り、そうしている間も堰を切ったようにとめどなく溢れ続け、周囲からの視線に気づきはしたが何も感じなかった。失恋でもなんでも、勝手に想像してくれればよかった。どう見えているかなんて関係なかったし、止め方もわからない。
はやく、とにかくはやく眞一に会いたい。
駅に着いて電車を降りると、改札のフラップドアがまるでスタートの合図のように、気づけばまた走り出していた。走っている途中で一瞬夕飯を買わなければ、と当初の目的が頭をよぎったが、すぐに霧散して忘れてしまう。それどころではなかった。
自動ドアがもどかしい。体を滑りこませるように通り抜け、階段を駆け上がり、ばんと玄関に入る。普段ならありえないことだが靴は脱ぎ捨てて、リビングと廊下を隔てているドアを開けると瀬戸の姿が目に入り、気づけば飛びついていた。
さすがに驚いたのか勢いに押し負けた瀬戸が体のバランスを崩したが、すぐに持ち直して飛紗の頭に手をやる。
「……何かかなしいことが?」
肩を震わせて、顔をうずめながらしゃくりだした飛紗に、瀬戸の声がやさしく問う。答えたくても嗚咽をあげないように奥歯を噛みしめるので精一杯だった。必死で首を横に振る。咽喉に空気が詰まったみたいだ。
ぎゅ、と腰に回した腕に自然と力がこもる。説明しないと瀬戸が困ってしまうとわかっていながら、それ以上のことができない。
「飛紗ちゃん」
相変わらずどんな魔法なのか、力いっぱい握っていた手をやすやすと解いて、瀬戸は飛紗の体をひょいと持ちあげた。膝の上に座らされる恰好になり、頬や顎を伝う涙をぬぐいながら、姿勢を楽にしてくれる。
瀬戸の肩に頭を載せると、ゆったりと何度も、髪を指ですくようにされた。体は小刻みに震えて、涙はまだとまらないけれど、逸るような気持ちは治まってきた。意識して呼吸をすることができる。
「わたし」
声が裏返り、咳払いをする。そのまま小さくせき込んだ。瀬戸の手を握り、体温に安堵する。
「眞一と一緒になれて、よかった」
唇をなぞって口づける。さすがの瀬戸も飛紗が一度実家に戻っただけでどうして泣いているのか想像もつかないだろうに、ただ静かに、うん、と微笑んだ。何も聞いてはこない。私もです、とお返しのように瞼に唇を落としたあとは、飛紗が落ち着くまでずっと抱きしめてくれていた。
弟がね、とやっと理由を話すと、それは泣いちゃいますね、と頬をなでられた。
「飛紗ちゃん、がんばったんですね。おねえちゃんですもんね」
その言葉に、飛紗は瀬戸の胸に顔をうずめて、また少し泣いてしまった。
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