前進

 別世界。真っ先に抱いた感想だった。結婚式を知らないわけではない。何度か出席したことはある。会場は結婚式場であったりホテルであったりさまざまで、人前でキスをするなんてと教会での挙式を断固拒否した兄のときは、神社だった。めずらしいところだと、玉の輿に乗ったかつての恋人は自慢を含め豪邸兼自宅で披露宴をしていた。金持ちはいるところにはいるものだと感心したものである。

 目の前で行われている模擬挙式では、新郎新婦役のモデルが後光でも差さんばかりの笑顔で仕事を遂行している。こちらはただ座り、見学しているだけのはずなのに疲れてきた。見渡せば他のカップルも概ね同じく圧倒されているようだ。しかし隣の飛紗だけは、真剣な表情で新郎新婦を見つめている。やがて思い至ったように、瀬戸の腕を軽くたたいた。

 音楽と説明のナレーションが流れているので、案外声が届かない。飛紗が体を近づけるのに合わせて、瀬戸も体を傾ける。

「あの新婦役のモデルさん、細いし小柄やから、いまのプリンセスラインも似合うけど、エンパイアラインのほうがかわいいと思う。あと化粧もパフォーマンスやからしょうがないけど、チークもう少し色薄いほうが絶対かわいい」

 そういう話をしに来たのだったか。観点が合っているようなずれているような、いやずれているのだが、小さく頷いて一人納得している飛紗を見ると、つっこむ気にはなれなかった。エンパイアラインを頭のなかで検索する。どれだ。帝国としか翻訳できない。

 飛紗はカジュアルな式からフォーマルな式まで幅広く網羅しているカタログを覗きながら、「やっぱりジャケットやストール一枚羽織ったら結婚式で着ていけるような、フォーマルすぎないドレスってうれしいやんなあ。でもそれが難しいねんなあ」とぶつぶつ言っている。悩みながらもたのしそうなので放っておく。服がすきなのは改めてよくわかった。

 最後にアンケートを書いて式場をあとにするときには、ぐったりしている自分に気づいた。毒気を抜かれた心地だ。

「疲れた?」

 腕を絡めながら飛紗に言われて、ちょっとね、と素直に答える。一応会場はホテルにしようかと話はしているので、今回結婚式場を見に来たのは参考のためにすぎない。瀬戸の姪や、飛紗のいとこの子が幼いので、そのほうが安心だろうと考えたからだ。あとは瀬戸側の東京から来るお世話になった教授などがわかりやすく、楽なように。

「飛紗ちゃんはたのしそうでしたね」

「うん、おもろかった。階段の上から登場とか絶対いややなーって思いながら見てた」

「いいほうじゃないんだ」

 笑うが、確かにあれは瀬戸もいやだ。緩やかな階段を、手を振りながら一歩一歩ゆっくり歩いていた新郎新婦役を思い返す。

 しかし披露宴はともかく、結婚式自体は神前婚にする予定である。瀬戸の兄と同じように「親の前でキスするん恥ずかしくない?」と飛紗が言ったからだ。瀬戸にこだわりはないし、着物の飛紗をいまから非常にたのしみにしている。

「他が何も決まっとらんけど、ウエディングベアはほしい。受付に置くん」

 にこにことして飛紗が言う。結婚なんてこれまで自分には関係ないと思っていたと言いつつ、ドレスが着られるのもあってかなんだかんだと順応しているようだ。瀬戸は違和感こそなくなったが、どう考えても飛紗のドレス姿以外に興味がわかない。そんなものなのかもしれないが。

 このあとは飛紗の両親に薦められたホテルで説明を聞く予定だ。その前に昼食。終わって時間があれば新居を探しに軽く不動産をめぐり、きっと疲れているので何か買って帰る。瀬戸の部屋の契約の関係で、おそらく式より同居が先になるだろう。関西で暮らし始めて二年、ぎりぎり敷金も返ってくるはずだ。越してきたときには敷金礼金の高さにカルチャーショックを受けたが、不動産屋に「ここらへんだと安いほうです」と言われてさらに驚いた記憶がある。そのうえ引き払う際、敷引きといって敷金から幾ばくか引かれるらしい。関東ではない文化だ。

 兄に結婚の報告をしたときには、「お前は関西に嫁さん探しに行ったのか?」と言われてしまった。もちろんそんなわけはないが、考えてみればそう言われても違和感がないことに気づき、一人で笑った。

「姪にね」

「眞一のことがだいすきな」

「そう。私の結婚をいつ告げるか、兄が苦慮しているらしいです」

 父である瀬戸の兄ではなく、瀬戸に「大きくなったら結婚する」と言い放った姪とは、いまも一週間のうち何回か、ラインでやりとりをしている。基本的には意味なくスタンプがぽんぽんと送られてくるばかりだが、今日は何があっただとか、父親や母親はどうだったとか、文章が送られてくることも増えた。

「ああ、そりゃそうやな。わたし仲良くしてもらえるやろか」

 顎に手を当てて眉根を寄せる飛紗に、大丈夫ですよ、と手を取ってコートのポケットに突っこむ。案の定ひんやりとしていて、温めるように親指でさすった。

 とりあえずホテルのほうに歩いていると、飛紗がこのあたりにおいしいパン屋があったはずと言って、目線を動かす。やがて「この階段下りた先やった気がする」と瀬戸を先導するようにして歩き、階段を下りれば、ビルに隠れるようにしてなるほどパン屋があった。このあたりはほとんど来たことがないので、普段はどちらかといえば方向音痴の飛紗が頼もしい。

「ここのはハードパンがおいしいねん」

 言われて陳列しているパンを眺めると、バゲットだけで何種類も並んでいる。店としても推しているようだ。これだけは食べてとお薦めされたくるみパンと、それ以外にそれぞれ二、三個購入し、店内奥のイートインスペースに腰かける。いわゆる神戸マダムが多く、上品な服装でパンを食べつつ話していた。神戸は基本的に道行く人誰もがお洒落をたのしんでいる印象だ。

「お母さんには、もう言うたん?」

 おてふきの袋を開けながら、飛紗が静かに聞いてきた。ここまで母親の話はほとんどしていない。瀬戸の実家に帰った際、若かりしころの写真を見たくらいだ。おそらくいつ聞こうかとずっとタイミングを図っていたのだろう。

「言ってません」

 正直に答えると、飛紗がちらりと目線だけを持ちあげて、そっか、と答えた。明らかに心配させている。

 父親と別れて兄だけ連れて出ていった母親を、怨んではいない。父の新たなパートナーが男だと知ったとき嫌悪感を見せていたのは、まあ無理からぬ反応だろうと思う。むしろ嫌悪感を見せただけまだ関心があるのだなと興味深かったくらいだ。

 離れて暮らすようになってからは月一回、二人きり、ないし兄と三人で会うのが定例行事だった。中学生になってからは半年に一回に減り、高校生になってからは一年に一回だった気がする。話すことはだいたい決まっていて、病気はしなかったかどうか、学校生活はどうか、何か困ったことはないかどうか。困ったことがあったとして、年に数回しか会わない人間に答えてどうなるのだろうといつもぼんやり思っていた。母親のほうもなんとなく毎回聞いてみているだけで、答えなど求めていなかった。

 言ってしまえば、人として相性が悪く、気が合わないのだ。お互い感情を持て余してしまう。母親は瀬戸が苦手であるし、瀬戸は母親が不快だ。

 不快。

 導きだした答えに、瀬戸は頬杖をつく。他の誰かにそうやって考えることはない。だからもしかすると、そうやってはっきりと思うこと自体が、母親に対する甘えなのかもしれない。

「でも、言わなきゃいけませんね」

 実のところ、兄にもはやいうちに言っておけと釘を刺されている。あまりに報告が遅くなり、飛紗への心証まで悪くするのは瀬戸の本意ではない。

「飛紗ちゃん、また一緒に東京に帰ってもらうことになるかもしれませんけど、いいですか」

「うん、もちろん」

 微笑んでくれた飛紗を見て、瀬戸も無意識のうちに薄く笑う。確執というほどではないが、母親との微妙な距離感も、結婚がなければ気にすることなどなかっただろう。

 薦められたくるみパンをちぎる。想像していたのとは異なり、くるみがパンに練りこまれていた。歯ごたえがあって、程よい甘みが口のなかに広がる。バターをつけてもおいしいねん、と飛紗が渡してくれたのでつけてみると、甘じょっぱさが絶妙だった。

「これはおいしいですね」

「やろ。甘いもんとしょっぱいもんが一緒になったら最強やんな」

 大きな口を開けて具材が大量に入ったハンバーガーにかぶりつき、飛紗は目をきらきらさせた。

 焼き鳥は絶対に串から外したりしないし、貝類は手で掴んで食べるし、肉は脂身をよけたりしない。鍋は直箸でつついても平気で、頼んだ料理は絶対に残さず、店員に食べ方を薦められたらそのとおりにして、おいしければ顔に出る。飛紗のこういうところが好意的に思った一つの理由かもしれないと、今さらながら気づいた。食事がたのしめない相手とは長く一緒にいることはできない。

「式もですけど、新居、いいのがあるといいですね」

「そうやね。今日すぐに見つけるんは無理やろうけど、ええのがあればええなあ」

 お試し感覚に一緒に暮らしてみて半月。いくら飛紗が特別だといっても、絶対にどこかで不満が出てくると思っていたのだが、不思議なほどになかった。しいて言うならやはりベッドはもう少し大きいほうがいい。家事はもともと一人暮らしですべて自分でやっていたのが、飛紗もやってくれるようになってむしろ楽になったし、何なら部屋は前よりきれいになっている。

 対して飛紗側の不満は、やはり自分の部屋は一つほしい、というものだった。瀬戸が借りている部屋なので、一人で落ちつきたくなったら、ダイニングとリビングの間にスライド式の仕切りを利用している。「しばらくごめんな」と、まるで鶴の恩返しのワンシーンのようだ。いまは一ヶ月で事足りる分しか持ってきていないが、実家にはまだ服やら私物がたくさん残っているし、この主張は当然だろうと思えた。整理整頓が当り前の飛紗には、魔窟は籠るには落ちつかないらしい。

 あとは帰ってすぐそこらへんに鞄やコートなどを放り投げてしまうので、皺になるからできればハンガーにかけて、と怒られるくらいである。

「なんやまだどきどきしとる。眞一と結婚……」

 両手で口元を隠すようにして、飛紗が言う。

「あとかかる金額にもどきどきしてる」

「お金があるって素晴らしいことですよ」

 それでもお互いの貯金で賄えそうだ。親を頼るようなことにならなかっただけよかったと言える。

 右も左もわからなかった状態からここまでこぎ着けたのだから、時間はかかっているにせよ大したものだと心の内で自賛した。最終的に飛紗が満足できればいいし、満足できるようにしていきたい。

 ぎゃあ、という叫び声が聞こえて、飛紗と二人、思わず声の方向に目線を向ける。寝ていたのが起きたのか、ベビーカーに乗っていた赤ん坊が泣きだしたようだった。母親らしき女性が抱っこをし、父親らしき男性がぬいぐるみを持ってあやしている。

「びっくりした。女の子かな」

「子ども」

 じっと飛紗の指を見つめる。左手の薬指には指輪がはめられていた。これまでなくしたらいやだからとチェーンに通して首にかけていたのだが、先日、取引先の男に無理矢理言い寄られてから、なるべく指につけるようにしているらしい。

「飛紗ちゃんとの子ども、いいですね。授かりたい」

 えっ、とほんのり頬を朱に染めた飛紗を見て、発した言葉を認識した。順序がおかしいが他に言いようがない。告白と同時に求婚してしまったときと同じく、自分自身思いも寄らぬ発言に、瀬戸もえっ、と声が出た。

 考えたこともなかった、はずなのだが。

「……眞一、顔が赤い」

 指摘されて、バツが悪い。隠すように片手で顔を覆うが、すぐ飛紗に腕をとられてしまう。いつもと立場が逆だ。

「眞一かわいい」

「かわいいとかじゃなくて……いや、もう、何とでも言ってください」

 意識する前に口をついたということは、本音ということだ。普段は理知的であると自負しているだけに、自身の発言が不測の事態になっているのは瀬戸にとって非常に恥ずかしい。

「外やなかったらキスしてた」

「強気じゃないですか」

「うん。困っとる眞一なんかめったに見られへんから」

 笑っているのがかわいく、小さく溜息をついた。本当かどうかは知らないが、恋というのは三年が限界で、それ以上はもう一度同じ相手に恋をするしかないらしい。この調子では常に惚れ始めだ。

 赤ん坊の泣き声はいつの間にかやんでいて、見てみればすでにきゃっきゃと笑顔でぬいぐるみとじゃれている。ベビーカーをひいたり、ぬいぐるみであやしたり、あまりにも自分には似合わない。少し前ならきっと、そう思っていた。

「でも、しばらくは飛紗ちゃんをひとりじめしたい」

 今度は飛紗が顔を赤くさせて、なに言っとるの、と照れ隠しに珈琲を飲んだ。

 朝起きたら目の前に飛紗がいて、同じ場所に飛紗が帰ってくる。このたった半月、ずっと感動しているのだ。他人と暮らすことに拒否的だった自分が。実のところ合鍵を渡したのも初めてで、踏みこまれてもよいと思っている領域が、飛紗だけ明らかに広い。彼女が気づいているのかは知らないが。

 これもおいしいで、と一口大にちぎったパンを目の前に差し出されて、瀬戸は素直にそのまま口に入れる。ふわふわとした食感に、菓子とは違う甘みが広がった。

「にんじん?」

 導き出した答えに、正解、と飛紗が手で小さく丸をつくって言った。今日はなんだかずっと上機嫌だ。

 お返しにもちもちとしたじゃが芋のパンを一口差し出すと、飛紗も同じように瀬戸の指から直接口に入れた。おいしい、とさらににこにことする。

「機嫌がいいですね」

「んー?」

 口の端についているパンくずを取ってやる。飛紗はもうほとんど食べつくしていた。

「一緒におるんが当り前になっていくって、なんかすごいなって、思って」

 堪らなくなり、そうですね、と瀬戸は頷いて、飛紗の頭をぽんぽんとなでた。触るたび飛紗がよろこぶのがわかる。どちらかといえばクールで、つんとした美人である飛紗が、自分の前ではこんなにもかわいい女の子になる。

「これからまだいろいろ行くのに大変ですけど、バゲット買って帰りますか? それで、明日はシチューとか、どうですか」

「それいい。食べたい」

 飛紗がぱっと顔を明るくさせた。この表情を見るために、なんでもしてやりたいと思う自分を、もうおかしいとは思えなかった。

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