嫉妬

 一ヶ月だけ瀬戸と同居することになった。一緒に暮らしていくうえで不満があれば話し合うため、また新居の間取りはどうするかを考えやすいだろうからという、双方の親からの提案である。始めてみて一週間が経ったが、とりあえず不満らしい不満は出てこない。まだ浮かれているせいかもしれなかった。

 次の休みには式場を決めに瀬戸といくつか回る予定で、式場が決まれば日を決めて、ドレスを決めて、招待客を決めて、新居を選ぶ。考えるだけで恥ずかしい。これまで縁がなく、これからも縁があるとは思っていなかったことで、そのうえ相手があの瀬戸だなんて。

「鷹村」

 いつ来たのか、背後から聞こえた茂木の声に返事がひっくり返ってしまう。気配がないというか、神出鬼没というか。入社した当初から同期の尾野とともに面倒を見てもらっているが、いつまでも慣れない。

「悪いんやけど、午後一の打ち合わせ、一人で行ってきてもらってええかな。別件が入ってもうて……」

 何度か会議を重ねてほとんど話はまとまってきているし、よくお世話になっている取引先なので問題ない。了承すると、茂木は改めて謝りながら小脇に抱えていた上着を羽織った。黒のチェスターコート。去年は見なかった気がするので、新調したのだろう。背が高い茂木によく似合っている。

「なあ、その首に下げとる指輪やねんけど」

 言いながら、飛紗の隣の席に腰を下ろす。隣席の千葉はいま店舗の様子を見に行っていていない。

「指にはつけへんの?」

 瀬戸にもらった婚約指輪は、なくしたり傷つけたりがこわいので、基本的にチェーンに通して首にかけている。落ちこんだときに見る分には勇気づけられるが、目に入るとついにやにやしてしまいそうなのも理由の一つだ。決して口には出さないけれど。

 しかし、茂木にそんなことを言われるとは思わなかった。はっきりと言葉にされたわけではないものの、茂木には恋慕されていた、らしい。実際思い返してみればそうととれる出来事がいくつかあり、千葉と尾野にも「なぜ気づいていなかったのか」と呆れられたので、断言してもよいだろう。

「なんかこだわりあるんならええねんけど、打ち合わせんときつけたほうがええんと違うかな……」

 はあ、と気の抜けた返事になる。こだわりというほどではないので、つける分にはもちろんかまわない。だが、なぜそんなことを言われるのか、よくわからなかった。

 あきませんよそんな言い方じゃ、と口を挟んできたのは向かいに座る尾野である。ひょこりとディスプレイの上から顔を出して、縁の太い眼鏡を持ちあげた。

「こいつほんま色恋には鈍いんやから。茂木さんも知っとるでしょ?」

 重い溜息とともにそうやな、と頷かれ、反論できないので口を閉ざすものの、尾野をじろりと睨みつける。ごもっともだが、何も茂木に言わなくてもいいだろう。

「もっとはっきり言わんと。あのな、鷹村が午後一で会議するほら、なんていうたっけ向こうの、なんや王子気取った奴。東京育ちとかで」

「金子」

 茂木と同時に言うと、ああそうそう、と尾野がやたらと大きな声で反応した。ソリが合わないらしく、飛紗に比べると数回しか会っていないはずであるのに、会えば必ず文句を言っている。尾野にしてはめずらしいことだ。

「あいつが鷹村んこと狙っとるから、心配しとるんよ。茂木さんは。お前がぜんぜん気づかへんから、知らん間に変なことならんようにって」

「金子さんが?」

 正直なところ、ほとんど記憶にない。いや、仕事に関して何度かお世話になっていて、その点に関してはもちろんきちんと憶えているのだが、茂木のときのように思い当たる節がまったくない。交換したラインには「今日はよろしくお願いします」とか、「明日もがんばろう」とか、当たり障りないメッセージは入る。まめだな、くらいにしか思っていなかった。たまにあった「今度ご飯でも」という物語でよく見る口説きの常套句は、世間話の常套句でもあるので、流していた。

 首を傾げていると、茂木が苦笑しているのが視界の端に映った。尾野は尾野で呆れたような目線をこちらに向けている。

 付き合い始めた当初、やたらと瀬戸が「自覚がないので心配です」と言い含んできていたが、あれは過保護でもなんでもなく、実際それくらい言わなければだめだとわかっていたのだな、とこういうときに反省してしまう。瀬戸のやることなのだから、間違っているわけがなかった。

「ほら、ぜんぜんわかっとらんでしょ」

「俺が甘かったわ」

 二人に溜息をつかれる。アットホームな会社です、という文句が頭のなかを流れていった。

「でも指輪しとったら、少なくとも相手おるってわかるやろ。鷹村、悪いんやけど、お前たぶんめっちゃ隙があるって思われとんで」

 言うだけ言うと、茂木は時間を確認して行ってしまった。オメガ・ウォッチのスピードマスターシリーズ。袖をちらりとまくったときにあの時計が顔を出すと、相当恰好よい。数ヶ月分の月給が飛ぶものの、一生使えることを考えれば、人によっては高いとは思わないだろう。茂木はもうローンを払い終わったと言っていたし、間違いなく彼自身の時計だ。

(眞一はアクセサリー系、腕時計すらいやがるからなあ)

 暑がりなため袖をまくりあげて、手首が見えていることのほうが多い瀬戸にこそ腕時計は恰好のアイテムだと思うのだが、強要することではない。

「鷹村、お前茂木さんにあんなこと言わせとるんやからな。ぼんやりしとるけど、わかっとるか?」

 完全に思考が飛んでいたので、尾野の声にはっとする。最近は落ちついたと思っていたが、同居を始めてやはりまだ浮かれているらしい。自分でも無意識に、隙あらば瀬戸のことを考えている。

 いまのうちに指輪をチェーンから外して左手の薬指にはめておく。金が光って眩しい。これ以上浮かれないようにだけしなければ。

 金子が出る会議は、いつも茂木が一緒だった。もしかしなくても、飛紗が知らぬところで茂木が牽制してくれていたのだろう。



 しかしせっかく忠告をもらっても、どうにかできるとはかぎらない。うっかり受け取ってしまったメモ用紙を握りしめて、溜息をつく。会議は滞りなく終わった。だから仕事は問題ないのだが、帰社するやいなやお手洗いの個室にこもっているのはこのメモのせいだ。指輪は目に入っていなかったのか、入っていても関係ないのか。金子とは会議終わりに一言二言言葉を交わし、二人が危惧するほどのことはなかったのではないかと安堵していたら、「待ってますから」とメモを握らされた。そしてさっと姿を消してしまった。メモには場所と時間が書いてあって、ラインで断りのメッセージを入れても既読のマークがつかない。電話番号は会社のものしか知らない。唸ってしまう。

 そもそも瀬戸と付き合うまで恋愛事情とは一切無関係の顔をして生きてきて、それで支障がなかったのに、ここにきてなぜこんなことになるのか。なんだかいっそ瀬戸のせいのような気がしてきた。完全に八つ当たりであると自覚したうえで。

 何だかんだと言っても取引先の相手であるし、無視をするのも具合が悪い。ただうまく一人で解決できるとも思えないので、結局瀬戸に電話をすることにした。お手洗いを出て、誰も使っていない会議室にもぐりこむ。

「無視したらいいんですよそんな男」

 事情を説明し終えると、間髪入れず言われてしまった。いらだちが混ざっているのが電話越しでも伝わってきて、正座でもしたいような気持ちになる。

「指輪はしてるんですね?」

「うん。会議中もずっとしとったから、見てないことはないと思うけど」

 飛紗がつい人のファッションを確認してしまうように、金子もファッション業界にいる身として、アクセサリーまで目を配っている可能性は高い。実際、ネックレスを褒められたこともある。

「じゃあ、そのまましておきなさいね。どの程度の男か知りませんが、きっとうまく丸めこまれて食事することになるでしょうから、ついたらどこの店か連絡してください。あと食事が終わりそうなときも。待ち合わせは?」

 そもそも瀬戸とも再会したときも、飛紗が何かを言う前にさっさと店までつれていかれたのを思い出す。当時は迂闊だったと何度も思ったものだが、あの迂闊さがなければいまの関係はない。何が転じるのかわからないものである。

「えっと、八時に、北新地駅」

「わかりました。店まで迎えに行きますから」

「ええ? ええよ、そこまでせんでも。さすがにいまのご時世、セクハラとかうるさいし」

「飛紗ちゃん」

 言葉をさえぎるように鋭く呼ばれて、黙ってしまう。怒られるときも甘やかされるときも、飛紗は瀬戸の声によわい。

「私は飛紗ちゃんに関しては嫉妬深いんです。迎えに行きます」

 はい、と頷く以外できなかった。

 会議室からこそこそと出て仕事に戻り、残業をして、暗い気持ちでタイムカードを押す。金子との夕飯がどうこうよりも、そのあと瀬戸に怒られるほうが憂鬱だった。一度失敗している以上、お酒は飲まないことにしよう。

 少し遅れますとラインで連絡したが、やはり既読マークがつかない。最初の数文字は通知がきてすぐに画面を見ればアプリを開かずとも読めてしまうから、もっと長ったらしく書いてやればよかった。足取りは当然のように重い。

 北新地はおいしいご飯の激戦区としてこのあたりでは有名だが、一応歓楽街でもあるので飛紗は普段近寄らない。

 地下道を歩いていると、飛紗とは逆方向に進んでいく人のほうが多い。皆仕事が終わって、駅に向かっているのだろう。目印の恐竜のオブジェが見えてくる。金子はこの場所から確認できない。彼も仕事が長引いているのか。行ったけれど来られなかったので、などと理由をつけて踵を返してしまおうか。そんなことを考えながらオブジェのもとまでたどりつくと、後ろから「鷹村さん」と声をかけられた。どこから現れたのか、後ろを見ると金子がいて、にこやかに手まで振ってきた。

「あの、金子さん。ラインしたんですけど」

「え、ああ、すみません。電池ぎりぎりで見ないようにしていたものですから」

 本当なのか白々しい嘘なのか。言いながらスマートフォンを取りだそうともしないあたり、嘘のような気がする。

「すみません、夕飯は家で食べたいので、今日は……」

「鷹村さんひどいなあ、一回くらい付き合ってくださいよ。遅くまでとは言いませんから。ずっと断られてきたから、強硬手段です。奢りますよ」

 にこやかな笑顔のまま、一気にまくしたてられる。さっさと足を翻して、金子は階段を上がっていった。ここで「無理です」と帰るのは、明確にアプローチもされていない状況で自意識過剰というか、大人としての今後の付き合いが面倒なものになりそうで、ついていくしかない。せめて金子が取引先の相手でなければ。「大人の付き合い」なんて考える必要がないくらい大人だったなら。

 しかしこの感じ、なんだか覚えがある。再会したころと瀬戸とのやりとりにそっくりだ。飛紗はもっと断るのが下手で、瀬戸は金子よりももっと誘いこむのが上手だった。あのころ、瀬戸にたまたま会ったときは露骨にいやな顔をしていたな、と思わず笑ってしまう。当の瀬戸はその露骨な拒絶がおもしろくて誘い続けてくれていたらしいが、ほんとうに奇特である。

 くすくすと笑っているのを肯定的にとらえられてしまったのか、地上に出ると金子は馴れ馴れしくぽんと飛紗の肩をたたき、「こっちです」と先を促した。そのまま手でも握られそうになったのをめずらしく察知し、さり気なく鞄を持ちなおすふりをして一歩後ろに引いた。金子の手は一瞬宙を浮き、そのまま何もなかったかのようにコートのポケットに吸いこまれていく。笑うところだろうか。

 ベージュのステンカラーコート。黒のスラックス。ラガシャのラボラトリーシリーズ。ロレックスの腕時計。ぴしっとポマードで固められたオールバック。革靴は見た目でブランドがわかるほど飛紗も詳しくないが、おそらくクロケット&ジョーンズだ。瀬戸が持っているものと同じだと思う。

 一言で表せば、手堅い。まさにおしゃれ。シルエットを大事にして、色も全体的に落ちついていて、身だしなみに気を配っていて、ひけらかしはしないが、聞かれたらすっと答えられるブランド物。飛紗の勘では、おそらく靴下は派手な色だ。

 イケメンというよりは男前で、まあ、もてるのだろうなと思う。見目に自信があって、センスに自信があって。尾野は一方的にきらっているが、飛紗は金子に嫌悪感を抱いたことはない。仕事もできる。ただ靴は、瀬戸のほうが似合っている。贔屓目だとしても。

 しかし特に好意を覚えた記憶もなく、正直二人きりになっていったい何を話せというのか、仕事の話しか思いつかない。

「友人がやっている店なんですが、おいしいんですよ」

 地下にあるようだ。赤い看板に白字で、ワイングラスのイラストが添えられている。食事処として効果的な色遣いだ。金子の後ろに着いて階段を下りていく。店員が金子の顔を見るなり「お待ちしておりました」と言って、もっとも奥の席に案内してくれた。そして机上に置かれていた、「Reserve」と書かれた三角の目印を取る。

 個室ではないからましか。すでに入っているお客さんは、和気あいあいと話している。特別な日にというよりは、仕事帰りの人たちがふらりと立ち寄っている雰囲気に感じられた。

「飲み物は何にしますか?」

「僕はいつもの流れでお願いします。鷹村さんは何がすきですか?」

 さっそくおしぼりで手を拭いている金子を見る。いつか色恋にうるさい同僚が、「行きつけの店を持っている男性ってすてきですよね」と言っていた。そのときはまったくぴんとこず、いまもぴんときていないわけだが。

 メニューを渡されたがろくに見ないで烏龍茶を頼む。

「今日はお酒飲まないんですか?」

 今日は? 食事に来るのは初めてのはずだが、と怪訝に思う。だがすぐに思い至った。新規店舗のオープン記念だとか、展示の打ち上げで何度か一緒になっている。その場ではほとんど話したことがなかったので忘れていた。

「ええ、明日もはやいので……すみません、一件だけいいですか」

 言いながら、了承を待たずにスマートフォンを鞄から取り出す。店名はきちんと確認した。しかし肝心のラインにつながらない。なぜ。

「ここ、電波が入らないんですよ」

 確かに、インターネットの接続が切れている。顔を上げると、金子が腕をテーブルに載せて微笑んでいた。

「たまには仕事のことを忘れてたのしむのもいいでしょう? 僕らは便利なものに囲まれすぎてる」

 かっこつけているつもりだろうか。少女漫画なら、「誰も気づいてくれなかったわたしの苦しみを、この人だけはわかってくれている」とときめくところだろうか。ただし意中の相手に限る。

 残念ながら金子は飛紗にとって意中の相手ではない。しかし「は?」と返すほど大人げなくもない。負けじとにこやかに、

「そうは言っても、約束と付き合いがありますから。今日は急やったんで、ちゃんと連絡せんと。すぐ戻ります」

 と言い放って、席を立つ。尾野が言っていた「王子気取ってる」がなんとなくわかった気がした。金子は金子の世界をつくってそのなかでやっていて、つまり、視野が狭いのだ。この短時間での分析なので、話すと印象は変わっていくかもしれないが、少なくとも飛紗はいまそう感じている。

 端的に言うと面倒くさい。

 一度店を出て階段を上がり、店名と、店内は電波が入らないことを瀬戸にラインで伝える。ついでに「眞一のほうが万倍いい男」と送った。瀬戸がどうというより、金子への腹いせだ。

 すぐに既読がついて、「当り前です」と返ってきた。「飛紗ちゃんが選んだんですよ」。

 ふ、と笑みがこぼれた。色恋に疎いので、意識していない相手に好意を向けられるのは怪物に立ち向かうような気持ちだったが、相手は相手だ。倒す必要はない。瀬戸の心配する、迂闊さや鈍感さにはもう少し気をつけたほうがよいにしても。

 そう思うとなんだか気が楽になった。伸びをしてから店内に戻ると、すでに飲み物とお通しが置いてある。金子はビールのようだ。とりあえず(何にかはわからないが)乾杯をして、フードメニューを広げる。しかしすぐに金子が手で制した。

「ここは任せてください」

 そして結局、「いつもの感じで。今日もおすすめたのしみにしているよ」と店員に告げ、メニューを渡してしまった。せめて何があるかくらい見たかった。苦手なものも聞かないのか。いや、聞かれてもどうせ特にありませんと答えるのでよいのだが、なんだか不安になる。

 当の金子は会話をしようとはせず、優雅にビールを飲んでいた。お通しの皿を覗けばポテトサラダだ。さっぱりしていておいしい。量もちょうどよく、もっと食べたい、と思わせる絶妙なバランス。なるほど、こうやって酒を進ませるわけか。飲めるのに烏龍茶で申し訳ないが、今日は飲まないと決めたので、勘弁してもらおう。

「それ、ほんとうはメニューにないんですよ。でもお通しで出てこなかったときに僕が我儘を言うものだから、気を遣ってくれるようになって」

 金子は袖を無造作にまくりあげながら言った。グレーのハイネックセーター。今日は飛紗も緩いハイネックのニットワンピースなので、近い服装になっている。

「お店の方がご友人って言うてはりましたね。でも金子さんって東京出身やって聞いた気がしたんですけど」

「生まれも育ちも東京です。ここのシェフは関西人なんですが、東京の大学で出会って。料理人で大学出てるのってめずらしいらしいですね」

「東京の大学」

「いや、大したことないんですけどね。K大学です」

 明らかに自慢が表情に宿っている。全国的に名高い私立大学であるから、誇りたい気持ちはわかる。しかし生まれも育ちも生粋の関西人である飛紗としては、腹の立つ物言いだ。東京の大学と言っただけで、別に東京だからすごいとは微塵も思っていない。大学名も聞いたつもりはない。

 自然とそうなんや、と当たり障りない相槌になってしまう。学部は知らないが、実のところ飛紗が卒業した大学と偏差値は大差ないし、そのうえ瀬戸のほうが高学歴である。これまで学歴を深く気にしたことはなかったが、今回は心のなかで溜飲を下げた。

「鷹村さんはなんとなく女子校のイメージあるなあ」

「ああ、女子校は女子校ですけど……」

 有機野菜のバーニャカウダとアサリのワイン蒸しが運ばれてきて、一度会話が途切れる。おいしそうだ。飛紗のすきな漫画のなかで「貝類は女同士に限るわね」という科白があったが、金子のことは意識していないし、指で掴んで直接口に運びたい。

「でも今日はうれしいな。ずっとかわされていたけど、僕は鷹村さんと食事がしたいとずっと思っていたんですよ」

 店員が皿を置いて去るなりそう言われて、飛紗はテーブルの上に出しかけた手を再び膝の上に戻した。金子は料理に手を伸ばそうとはしない。

 社交辞令かと思って流していただけなのだが、かわしたということになっているのか。尾野や千葉に笑われそうな話だ、と思った。

「金子さんなら引く手数多なんやないですか」

「いやいや、それほどでも。鷹村さんみたいな美人に言われるとなんだか恥ずかしいです」

 アサリの酒蒸しに目を落とす。せっかく湯気が立って熱そうだったのに、冷めてしまう。

「とりあえず食べませんか? すみません、お腹がすいてもうて」

 身につけた愛想をフルに使って明るく言うと、ちょっと待って、と突然真顔になった金子にとめられる。何かと思えば店員を呼び、店員は心得ているらしく用件を聞く前にワインボトルとグラスを持ってやってきた。銘柄と簡単な説明(「ちょうどアサリにぴったりかと」など)を受けて、金子は全部聞いてから、

「じゃあそれで。君のことは信頼しているからね」

 と気取って答えた。

「茶番か」

「え?」

 いえなんでも。わざとらしく笑う。うっかり本音が出てしまった。瀬戸が隣にいれば大笑いしてくれるところなのに。

 どちらにせよ、飛紗は飲んでいないのだから、一緒に待たされる意味ははたしてあったのか。すでにだいぶ疲れていた。ポテトサラダを食べていたときがピークだったかもしれない。

 やっと金子がアサリに手を出したので、ほっとして同じくアサリをいくつか取り皿に載せる。ワイングラスをそれっぽく回している金子は放っておいて、いただきます、と手づかみで口に運んだ。やはり少し冷めつつあったが、味が染みていておいしい。貝殻に入っている汁を身とともに吸って味わう。取り分けた分はすぐに食べてしまった。

 次は野菜を食べようとしたところで、金子の視線に気づいた。小さく首を傾げるようにすると、ぱちぱちと瞬かれる。

「ああいえ、けっこう食べるんだなと思って。今日は遅いですしね」

 たかだかアサリを三つ食べただけだろうが。

 咽喉まで出かかった言葉をくっと飲みこむ。取引先、取引先、取引先。呪文のように三回頭のなかで唱えた。責任者ではないが、中堅ではある。

「そうだ、ずっと気になってたんですよ。鷹村さんの今日の口紅、すごくきれいな色ですね」

 明らかに気を取り直して、とばかりに微笑まれて、もし疲労が目に見えたら、いま溜まっていっている最中だろうな、と思う。しかし褒められたのは素直にうれしい。今日の口紅は少し赤が強めで、美容液成分が入っているのも気に入っている。気に入っている理由はもう一つあり、つい口角が上がってしまった。

「きちっと化粧をしている女性ってすきです。なんというか、女としての自分を忘れてないって感じ」

 全世界の女性を敵に回すようなことを、そんな風ににこやかに言われると困る。はあ、と気の抜けた相槌しか打てない。先ほどからずっと、金子の言葉は何かずれている。

 まだ野菜を食べていないのに、フィットチーネのカルボナーラとテールのどて煮込みが運ばれてきた。今度はさっさと皿に入れてしまう。金子はまだワイングラスを持て余しているから問題ないだろう。いや、本人はテイスティングのつもりなのかもしれないが、いつまでもやればいいというものではない。

「わたしもお洒落な男性はすきです」

 瀬戸は暑がりで、街中にイルミネーションが増えてきたいまも薄着で出かけているくらいだが、年末に向けてさすがにそろそろコートは必要だろう。茂木がチェスターコート、金子がステンカラーコート。どちらも男性の上着としては定番だ。しかし飛紗としては、瀬戸にはぜひトレンチコートを着てほしい。細身なのでベルトは後ろで絞って、前は開けたまま羽織れば、絶対に似合うはず。足下はいつもかっちりめの革靴であるから、身長は高くないけれど、丈が合っていればバランスがとれる。

 自分に似合うものをよく知っている男だ。魔窟に一つくらい落ちていないか、今度探してみよう。そんなことを考えていると、トングを持ったままになっていて、金子に「いいですか?」と手を重ねられた。一瞬ぞっとしたが、他意はないはずと自分に言い聞かし、どうぞ、と渡す。

「僕は子どもがいても、やっぱり奥さんにはちゃんと化粧をしてほしいんですよ。忙しいって僕もつい言い訳しちゃうけど、結局甘えなんだし」

 ぞぞっ。世界中の女性を敵に回す発言その二に加えて、なぜ突然子どもの話なんか。いや、いやいや他意はないはず。

 料理がおいしいのはこの場において、ほんとうに救いだった。特にどて煮込みには顔が綻んだ。濃厚なのにしつこくない。やはり全体的に、お酒のアテを想定されている。看板に描かれていたとおり、ワインが飲みたい。

「その点鷹村さんって、しっかりしてそう。セクハラって訴えないでほしいんですけど、ずっと美人だなあって思ってて」

 やっとのことで食べた有機野菜は表面が乾燥してしまっていて、絶対にもっとおいしかったはずだとがっかりした。友人というシェフに怒られなければよいのだが。

「ほんとですよ。そりゃうちの女子社員もかわいい子いっぱいるけど、鷹村さんは飛びぬけてます。だけど話すとかわいかったりして」

 フィットチーネのカルボナーラは卵の味が感じられて、クリームがパスタに絡んでいるほどまろやかですいすい食べられる。ぜんぜん重くないのが驚きだ。

「前は正直近寄りがたいところもあったんですが、最近特に、女性としてすてきだなと」

 ぐいと烏龍茶を飲む。周りの席が程よく離れているから、たのしそうな空気や、会話の様子は伝わってくるが、内容までははっきり聞きとれない。カウンターに一人で座っている人たちは店員と親しげに話している。あの奥に見える料理人が、金子の友人だろうか。

「だから、彼氏がいても、伝えておかないとって決意したんです。鷹村さん、勝手なことを言う男と思うでしょうが、僕にしませんか」

 なんだ、しっかり指輪は目に入っていたのか。

 たん、とテーブルに福沢諭吉を金子に向けて置く。

「金子さん、今日はすてきなお店を教えてくれてありがとうございました。すごくおいしかったから、今度はうちのひとと来ますね」

 笑顔はサービスだ。椅子にかけていたマフラーとコートを手に取り、さっさと店を出てスマホを取りだす。瀬戸に電話をかけ動作は手慣れたものである。

 迎えに来ると言っていたから、きっと近くにいるだろう。コールを待っていると、後ろから肘をとられた。瀬戸ではなく、金子だった。

「あの」

 金子はコートを着ておらず、鞄も持っていなかった。しかし飛紗には、もはや必死な自分を演出しているようにしか見えない。

「俺、本気だから」

 笑わせにきているのだろうか。一人称の変化と抜けた敬語。コントを彷彿とさせる。

 長身、高学歴、都会出身、顔もまあまあ、服のセンスあり。ゆえに自信あり。

「この指輪、外させてみせるから」

 だからといって、ここまでの自信は持たないほうが身のためだ。ぞぞぞっ。背中に走った寒気は決して気温のせいではない。

 少女漫画ではなくて、不倫ドラマの流行りからきた勘違いだろうか。尾野が言っていた「王子気取り」という言葉を借りれば、こんな王子はいやだ。しかし力の差があって掴まれた腕を振りほどけず、そうこうしている間に顔が近づいてきて、悲鳴をあげかけた瞬間だった。

「飛紗ちゃん」

 反射的に声の方向を振り返る。飛紗が聞き間違えるわけがなかった。いつもの困ったような笑みを顔に浮かべながら、瀬戸が立っていた。

 眞一、と呼ぶ前に、きゃあとほんとうに悲鳴をあげて、無意識のうちに拘束から抜け出し瀬戸に駆け寄る。

「まさにさっき妄想しとったトレンチコート!」

「ん? うん、さすがに寒いからね」

 丈もばっちりだ。ベルトを後ろで絞り、前を開いてさらりと着こなしている。寒いと言いながら軽く腕をまくっているのが矛盾だが、手首が見えてすっきりとした印象だ。靴はやはり、金子と同じものだった。飛紗には瀬戸が履いているほうが輝いて見える。

「ええー、いやや、眞一のくせにめっちゃかっこええ、想像よりかっこええ」

「お気に召したようでなによりです」

 きゃっきゃと一人で盛りあがっていると、いつの間に取られたのか、腕にかけていたマフラーを首にかけられる。コートも袖を通すように促されて、先ほどの寒気が嘘のように体がぽかぽかしてきた。

「それで、あちらは?」

 瀬戸に問われて、初めて思い出す。最近瀬戸のことを考えていると他が疎かになってよくない。

「金子さん、このひとがわたしの、お、夫です」

「いつも妻がお世話になっています」

 こんな紹介の仕方は初めてだ。今度は暑くなってきた。厳密にはまだ結婚していないが、支障はないだろう。ここぞとばかりに言葉を重ねられ、おもしろそうに瀬戸がにやにやしているのは遺憾だけれど。

「眞一、こちら……」

「ああ、いいです」

 手を振って続きを制されて、口を結ぶ。軽く頭を下げかけていた金子が中途半端にかたまってしまった。瀬戸は金子に近寄り、金子は反射的に何歩か下がる。ちょうど同い年か、金子が少し年下だと思うのだが、並ぶと瀬戸のほうが若く見えた。身長差のある金子を、瀬戸は上から下までじろじろと眺める。

「な、なんですか」

 面喰らっている金子が言うが瀬戸は答えず、少しの沈黙のあと、ふっと笑った。そして踵を返し、「飛紗ちゃん、帰りましょうか」と飛紗の頬をさらりとなでた。

「失礼します」

 取ってつけたように金子に言い、飛紗の手を握って歩きだしてしまう。飛紗も一応、追いかけるように「失礼します」と金子に向かって叫んだが、あとは振り返らなかった。さすがに金子ももう追いかけてはこない。

 明るいネオンのなかを瀬戸が速足で突き進んでいくので、飛紗はついていくのに精一杯だった。ヒールでこけないように足下を注意する。もう冬であるのに、肩を出したドレスの女性がたくさんそれぞれ店の前に立っていた。高級クラブの人たちだろう。

 突然速度が落ち、ぎゅっとつよく手に力を込められる。危うく瀬戸にぶつかりそうになったのを堪えた。

「飛紗ちゃんは」

 立ちどまり、くるりとこちらに体を向けた瀬戸が、握っているのとは反対の手を飛紗の頬に伸ばす。

「ほんとうにもう」

 いつものように触られるのかと思いきや、戯れのようにつねられる。まったく痛くはない。しかし怒っているのはわかる。ごめんなさい、と思わず口から飛び出した。

「謝らなくてもいいです。でも次は絶対に無視してください。言い訳なんてどうとでもなるんだから。さっきみたいに何されるかなんてわからないんですから」

 あっ、と思う。すでに記憶から抹消しつつあったが、先ほどキスされそうになったのを見られていたのだ。瀬戸が来てくれてよかった。来てくれなかったら、たぶん、鞄で金子(取引先)をぶん殴っているところだった。

「本気じゃなくてもその場のノリで迫ってくる男は腐るほどいるんですからね、わかってますか。何が指輪を外させてみせるだか」

 やっとつねるのをやめてくれた瀬戸を、改めて見つめる。当り前だが、間違いなく怒っている。電話が通話状態になっていたから聞こえたのだろう。その携帯電話はどこにやったかと慌てて鞄を覗くと、きちんと入っていた。手癖で入れていたようで安堵する。あの場に落として金子に拾われでもしていたらまた背筋がぞっとするところだった。

「外さへんよ」

「わかってますよ」

「わたしが眞一からもらった指輪、外すわけないもん」

 勝手に顔が緩んでしまう。瀬戸は首をかいて、ああもう、とめずらしく感情的な物言いをした。またぐいと引っ張られて、光から外れた暗がりのビル群に向かっていく。ふと頭だけ振り返ると、そこだけが別世界のように、きらきらと輝いて見えた。昔は色里として栄えた町だが、いま風俗店は一切ない。

 道に植えられた木に隠れるようにした瀬戸に何をされるか察する。金子とは違って、飛紗と瀬戸はほとんど身長が変わらないので、目線は基本的にまっすぐだ。

「ええの?」

 大学の専任講師という職業柄、見つかると飛紗以上によろしくないのではないか。そう思って聞いたのだが、瀬戸はにやりと悪戯っぽく口角を持ちあげた。この笑い方はすきだ。きっと金子にはもっといやらしく笑ったのだろう。正面から見たかった。

「見つからないことは、当事者以外にはないことと同じです」

 暗がりで人の目に隠れて唇を重ねて、悪いことをしているみたいだ。ん、と声が漏れたのも恥ずかしい。無意識のうちに腕が瀬戸の背中に回り、瀬戸の手は飛紗の耳をなぜた。見つからないようにこっそりしているとは思えないくらい長く重ねたあと、終わりを告げるように離れた唇が額に押しつけられた。頬が紅潮しているのが自分でもわかる。はあ、と一度息を吐いて、呼吸を整える。

「びっくりした。見透かされたんかと思った」

「嫉妬といらだちでそんな余裕はないです」

 きっぱりと言われて、今度は飛紗が笑う番だ。むすりとしている瀬戸は貴重である。かわいいと思うのは失礼だろうか。

「じゃあ、両思いやったんや」

「どうかな。私は帰ったら続きがしたいんですが」

「ほら、やっぱり両思いや」

 瀬戸はもう一度口づけて、際限なくなる、と言った。どちらからともなくネオンの方向へ戻る。いつも以上に密着していても照れくささがないのは馴染みがない場所だからだろうか。瀬戸の手も飛紗の腰に回されて、すごい、大人だ、と思う。

 ついさっきまで誰もこの道を通らなかったのに、歩き始めると人とすれ違い始め、タイミングのよさに感動する。瀬戸はしれっとしていた。こういうところが知り合ったころは胡散臭く感じていたのだとしみじみ頷く。どこか人間離れしているというか、うまくは伝えられないのだけれど。

「なんか、眞一と再会したころのこと思い出した」

「ふうん?」

「でもやっぱり、眞一のほうが何枚も上手やな」

 誘い方も、店での対応も、会話術も、ついでに出身大学も。一方的に話すようなことはなかったし、食べ方にいちいち口は挟んでこなかったし、何かを頼むときは食べられるかどうか聞いてくれて、かつ絶対に何が食べたいか選ばせてくれた。

「あっそうや、口紅褒められてん」

 ぱっと瀬戸を見たら、唇に赤がかすかに移っていて、今さら恥ずかしさが襲ってくる。ハンカチを渡すと瀬戸はああ、と口をぬぐった。

「私があげたやつ」

 ある日突然、似合いそうだったから、とプレゼントされた口紅だ。ハンカチを受け取って、飛紗は頷く。イベントごとではなく、まして化粧品をプレゼントされるとは思ってもみなかったので、非常に驚いた。気に入らなかったら使わなくてもいいと言い、肌に合わないといけないからとブランドのカタログまでもらってきていた。揃いの色のマニキュアも一緒にもらったが、今日は残念ながら別の色だ。もったいなくてなかなか使えない。

「あとあんまり食べれんかったけど、料理はめっちゃおいしかった。いやな記憶上書きしたいから、今度付き合って」

「近寄らないという選択にはならないのが、飛紗ちゃんのおもしろいところですよね」

 そうだろうか。おいしい料理に罪はない。瀬戸は何を食べたのか聞けば、ファストフード店で軽くつまんだだけだと言う。三食きっちり、然るべき時間に食べたいタイプの瀬戸が。相当心配をかけていたのだと実感し、再び申し訳なさが襲ってきたが、代わりに来てくれてありがとう、とお礼を伝える。

「せっかく普段あまり来ないところに来たので、どこか入ってから帰りますか?」

 飛紗も満腹にはなれていない。ええねと笑い、さらに体をくっつけるようにした。

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