同居

「あの、それじゃあ、よろしくお願いします」

 荷物を横に置いた状態でしずしずと頭を下げられ、こちらこそ、と同じように頭を下げる。緊張しているのか、照れくさいのか、飛紗は正座で視線を落としたまま動かない。どうしようかと悩んでいる姿がおもしろい、もといかわいかったので、瀬戸は黙って観察を続けた。

「……一ヶ月だけ」

「はい」

 ふ、と吹きだすと、なんよ、と膝を叩かれた。

 結婚前のお試しに、一ヶ月だけ一緒に住むことを提案したのは、瀬戸の父(正確には父のパートナー)の学である。結納のあと両家で夕飯を食べているときに言われ、飛紗の両親にも肯定的な意見をもらったので、いまに至る。

 結婚はしてからが生活。

 最近見たドラマの科白を思い出しながら、瀬戸は飛紗の姿を改めて見つめた。生活リズムが異なり、生活水準も異なるので、一緒に暮らすうえでいやなところがあれば先に言ってしまおう、という計画である。お互い多忙な時期だが、多忙だからこそ見える不満をなるべく解消すべきだ、というのが学の言だ。一度生活が始まってしまうと我慢しがちだから、とも。ついでにどういう新居がいいか判断しやすいだろう、というのは飛紗の父、和紀の言である。

 特に学が心配していたのは、瀬戸の片づけに対する無頓着さだ。瀬戸は人が踏みこむ可能性のあるリビングとダイニングだけはきれいにしているが、もう一室は通称魔窟、大学の研究室も乱雑に資料を積み重ね、一旦整えたとしても翌日には元に戻っているような、基本的に片づけのできない人間である。

 飛紗は整理整頓が得意で、部屋が汚れることはめったにない。服も本も理路整然、きっちり並べるのが当り前で、瀬戸とは正反対だ。

 期限が一ヶ月なのは、独身最後の年末年始なので、飛紗が家族とともに家で過ごすための瀬戸の配慮である。もっとも疲れている時期は、慣れ親しんだ家のほうが気も楽だろう。

 年が明けて落ちつけば、また再開してもよいことであるし、ひとまずの区切りだ。瀬戸自身は特に東京に帰る予定はない。

「じゃあまず、快適に暮らすため一つひとつ問題をつぶしていきましょうか」

 少なくとも飛紗は、曖昧に生活を始めるより、いくつか先に話し合っていたほうが諸々納得できるタイプだ。案の定まじめな顔つきになって頷いた。

「食事、家事、連絡、あとお金ですかね」

 泊まるのではなく暮らすのなら、お互い遠慮とストレスはないほうがいい。飛紗はしんどくても我慢をしてしまうたちであるし、瀬戸のほうに明らかな負担がかかるのもいやがるだろう。

 瀬戸の休みは基本的に土日祝だが、祝日でも大学が登校日と言っていれば当然出勤になるし、土日も学会が入っている日があれば、研究のために出ることもある。家を出る時間、帰宅する時間は曜日によって異なっていて、ある程度予測することはできるものの、その日にならないとわからない場合のほうが多い。

 飛紗の休みも同じく、基本的に土日祝ではあるが、繁忙期は土曜日や日曜日に出勤することもある。ただその際は必ず代休があり、むしろ休まず出てしまって怒られている、らしい。朝は九時半から、定時は一応一八時半まで。ただし基本的に残業があり、二〇時や二一時に終わることもめずらしくはない。特にいまの時期は。

「平日は起きる時間はだいたい一緒ですか? 早出とかありますか?」

「ううん、遅くなることはあっても、早く出ることはないかな。いつも八時二三分発の電車に乗っとるよ」

「じゃあ、八時くらいに出るわけですね」

 テーブルに紙を広げて、簡単に書きこんでいく。瀬戸自身の出る時間も併せて記す。大阪まで出ている飛紗に比べると勤務先は近いが、一限がある木曜日は準備のためさらに早く出る必要がある。

「ごはん、できれば一緒に食べたい……」

 書いている途中で、飛紗がぼそりとこぼした。確かに生活の肝は食事である。同じ釜の飯を食うという言葉があるように、食事内容が同じだと親近感や一体感がわくものだ。

 もちろん、と首肯したら、聞こえていたとは思っていなかったのか、飛紗がはにかむようにして小さくうつむいた。

「朝食は六時半で大丈夫ですか?」

「うん、大丈夫。いつもそれくらい」

 昼は各々これまでどおりすきにすることにして、問題は夜だ。遅くなるのはおそらく飛紗のほうが多いだろう。待ちますよと言えば、うーんと唸った。

「いやけど、ほんまに遅いときあるし……。あ、九時過ぎるようやったら、お互い先に食べるんはどう?」

 際限ないよりはそのほうがお互い、気持ち的にも楽だ。了承して書きこんでいく。

「外で食べてくるときは、なるべくはやめに連絡で」

「一ヶ月の間で、眞一以外と外食べに行くかなあ?」

 くすくすと笑われて、頭をなでるようにした。式も婚姻届けもまだだが、もしかして新婚気分というのはこういうことかと首をかく。照れくさそうにしつつも満足げな飛紗を見ていると、自然と口角を上がってしまって、なんだかおかしかった。いい加減、そういう変化に慣れてきている自分が。ほんの少し前までは、こんな変化にいつか慣れる日はくるのだろうかと、どこか他人事のように考えていたというのに。

「たぶん私のほうが帰りがはやいので、夕飯は私がつくります。もし飛紗ちゃんのほうがはやければ、お願いしてもいいですか?」

「そんなら朝はつくる。なんとか、うん」

「毎日同じメニューでいいですよ。夕飯をつくってもらったら、翌日の朝は私がつくります」

 料理はあまり自信がないらしい。大学四年間、一人暮らしをしていたころ、一応自炊はしていたが身にならなかった、と以前言っていた。しかしそれは本人の言であり、瀬戸は特に心配はしていない。風邪を引いた際につくってくれたうどんはおいしかった。飛紗のなかの「これなら」という基準が高いだけだろう。

「やけど眞一って土日も研究してへん? 残業は少ないん?」

「裁量制なので残業というか……。つまり、文献さえあればどこででもできるということです」

 基本はひたすら史料を読みこむのが仕事である。学生のレポート評価、授業準備、フィールドワークなど、持ち帰られないものも多いが。

 休日は臨機応変に考えることにした。飛紗は休日わりと朝が遅く、昼頃まで寝ていることがあるという。平日が遅い分の疲れが溜まっているのだろう。瀬戸は休日でも同じ時間に起きて同じように三食食べたいたちだ。

「他の家事はどうしましょうか」

「洗濯はご飯つくらんほうがそれぞれやるんがええかなあ。朝食つくらんほうが洗濯物干して、夕飯つくらんほうが洗濯物たたむ感じ。あ、でも、干しすぎるとよくないって聞くから逆がええんかな。いやでも逆やと一人が忙しいか」

「両方私がやりますよ」

 悩み始めた飛紗に告げると、案の定それはあかんやろ、としぶられる。なるべく負担を平等にしたいので、押しつけるような恰好になるのがいやなのであって、自分の下着を含めた洗濯物が触られるということに関する羞恥心や不満はないらしい。

「代わりに掃除をお願いします。苦手なので」

 整理整頓は飛紗の得意分野だ。基本的に普段しないので、一言で掃除と言ってしまうとどのくらい大変なのか、どの程度時間をとられるのかわからないが、おいおい様子を見ていけばよい。

 それよりも、洗濯物の干し方とたたみ方を聞いたときにやっと考えが及ぶであろう飛紗を思うと、すでにいまから反応がたのしみである。今さらなので、もしかするとあっけらかんとされる可能性もあるが、それはそれで興味深い。

「お金に関しては一ヶ月ですし、とりあえず食費と、あと家賃だけでいいです。光熱費や電気代は締め日に合わないので実際の金額がよくわからないし」

 正直家賃も別にかまわないのだが、最初から金額がわかっていることなんやから、とでも言って譲らないのが予想できるので、先手を打つ。水道代に至っては二ヶ月ごとの請求なので、なおさら正確に金額が出せるものではない。

「お互い働いているので、結婚してからは月々決めた金額を家に入れるような形でいいんじゃないですかね」

「眞一のほうが多く入れるとかはあかんで」

「手取りからパーセンテージで金額決めるのは?」

 うーん、と飛紗が唸る。社会人になってからの年数で言うと、年齢差は七つでも大学院を出ている瀬戸と大卒の飛紗では実のところ二年しか差がないのだが、瀬戸の手取りが飛紗より少ないということはさすがにないはずだ。とはいえ、手取りを知らないので断言はできない。とりあえず今回は関係がないので、また後日考えることにした。

「魔窟にあるものはすきに使ってください」

 飛紗が使いそうなアイロンや掃除機は入り口側に移動させてある。あとは面倒になって触るのをやめた。ものが多すぎて家族にも絶句される(むしろリビングとダイニングをきれいにしていることを褒められる)が、どこに何があるか、瀬戸自身はきちんと把握している。

「こんなもん?」

「布団はどうします? 買いましょうか」

「なんで?」

 きょとんとされてしまう。もう一室が足の踏み場がない魔窟である以上、寝るならこの部屋しかなく、ベッドは一つしかない。そのうえシングルだ。一応リビングとダイニングの間にはスライド式の仕切りがあり、閉めればある程度電気や音を防ぐことはできる。寝る時間をずらすことは可能だが、シングルベッドで一人が寝ているところに潜りこめるのかどうか。

 飛紗が泊まりに来たときは当然、他に寝具がないので一緒に寝ている。しかし一泊だから気にならないのであって、連日では余計疲労が溜まるだろう。

「飛紗ちゃんがいいならいいんですけど、狭くないですか」

「んー、二人で寝るのしんどいなって思ったら言って。わたしも言うから」

 いっそこれを機に買い替えるか、と考える。もちろん寝られないことはないが、寝返りを打つのも一苦労であるのは事実だ。それとも一ヶ月程度なら問題ないだろうか。本来人前で寝るのはきらいなので、瀬戸にはよくわからない。これまで付き合ったどの恋人にも寝顔を見せた記憶はないし、見られたくないので意識的に避けていた。飛紗だから平気なだけで、根本的にそこは変わりない。

 なかなか納得しない瀬戸に、あんな、と飛紗が服の肘あたりをつんと引っ張った。部屋にはふたりきりであるのに、内緒話でもするように口元に手を添えてひっそりと言う。

「わたし、寝つきめちゃめちゃ悪くて。体がものすご疲れとってもぜんぜんで、その分休みは遅くまで寝てしまうんやけど、…………」

 瞼がちらちらと、羽ばたくように上下に遊ぶ。うん、と相槌を打てば、瞬きの速度と合わせて、ゆっくりと瀬戸を見つめてきた。

「眞一と一緒に寝たら、すぐにねむれるねん。安心する」

 ペンを投げだしたい気持ちに襲われる。思案した問題は何も解決していないのに、もはやどうでもいいことに思えてきた。わかりました、と口が勝手に動いたが、他に何を言えるというのか。つくづく甘い。

「狙ってます?」

 返答を聞いた飛紗の目が一瞬悪戯気に光ったのを見て言えば、にやりと笑われる。

「ばれた?」

「どこで覚えてくるんですか」

「眞一に決まっとるやん」

 ああ、なるほど。墓穴。

 体を移動させて、ぴたりと瀬戸の右腕にくっつくようにして飛紗が座った。肩に頭をのせてくる。

「うそ。ほんまは眞一が一緒に寝るん苦手なの知ってて言った。いややったらええよ」

 いや、ではないのだが。苦悩の空気が右側から流れてきて、瀬戸はペンを回した。どこまで甘えていいのか、というのは飛紗のなかでいつまでも昇華しきれない問題で、そう簡単に折り合いをつけられるものではないらしい。しっかりしなければ、責任をきちんと持たなければ、そう思いながら生きてきたからで、瀬戸からすれば弊害と言ってもいい。もっともそんな飛紗だからこそ、底なし沼に招きたくもなる。

「私が飛紗ちゃんがしたがることに対して、否定的な気持ちになると思いますか?」

「…………。……思わん」

 自分で答えるのが憚られたのか、たっぷりと沈黙をとりながらも出た答えに、瀬戸は満足して頷いた。ちゃんとわかっているではないか。

「体の疲れがね、しっかり取れないようではよくないなと思って」

 言いながら口づけると、不意打ちに慌てて、飛紗がどんと瀬戸の胸を押した。予測していたので無理矢理そのまま押しつけると、耐えきれなくなった飛紗の体が倒れそうになったので支えてやる。

 目と鼻の先にある双眸がじろりと睨みつけてきたが、頬が赤いので何もこわくない。いつまで経っても慣れないな、と思わず笑ってしまう。

「……どうせ布団買っても、同じところで寝るほうが多いん違う」

 挑発するような口ぶりに、支えていた腕を外して押し倒す恰好にする。また強引に唇を奪って、それに抵抗するように飛紗が瀬戸の胸元を押し返して、しばらく戦っていたが、二人同時にふと力を抜いた。ばちりと目が合い、お互い破顔する。

 何をやっているのだか。瀬戸も隣に寝転がり、はー、と溜息をついた。

「……他の女の子と一緒に暮らしたこと、あるの」

 こちらに体ごと顔を向けて、飛紗が静かに言った。たまにこうして、飛紗は過去のことを気にする。自身が瀬戸の他に男性経験がないので、うまくやれているか、不安になる。瀬戸からすればこれまで付き合った女性と飛紗では天と地ほどの違いがあるが、当然飛紗にはわからず、そしてなんとなく暗黙の了解として普通は聞かないようなことも、不意に聞いてくる。自分のなかでは瀬戸と比較する対象がないので、瀬戸の過去から自分と誰かを比較しようとする。

「あるわけない」

 お前、人間を根本的にきらっているだろう。昔言われた言葉を思い出す。他人と暮らすなど考えたこともなかった。学に関しても、家主の父が言ったので受け入れただけであって、まして恋人となんて。

「思ったこともない」

 付き合ったなかでほんとうにすきだった相手はほとんど覚えがない。一人もいないわけではないが、それでもここまで焦がれるほどすきになったことは一切ない。

 過去なんて関係なく、飛紗だけだと言えたら楽だが、過去は現在と切り離せるものではないとよく知っている。歴史は常に線になって続いているもので、点から始めることはできない。

「一緒に暮らすことに関して、うまくできないのはたぶん飛紗ちゃんより私のほうです。だから、よろしくお願いします。努力はします」

 首を回して飛紗を見ると、よしよしと頭をなでられた。

「お姉ちゃんですね」

 気恥ずかしくなって茶化す。飛紗は姉のような顔をして、

「眞一は末っ子やねえ」

 と笑った。あ、厳密には末っ子やないんやっけ、と瀬戸の他よりはややこしい家庭事情をひとりごとのように言う。瀬戸が一二のときにすでに別の家庭を持っていた母が産んだ妹とは一緒に住んだことがないので、感覚的には末っ子で間違いない。

「不満も出てくるんかもしれんけど、帰ったら眞一がおったり、眞一が帰ってくるんを待ったりするん、たのしみ。よろしくお願いします」

 改めて頭を下げあったあと、寝転がって言うことじゃないねと笑って、二人とも体を起した。

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