結納

 無事に結納を終え、飛紗は普段着に着替える。このあとは両家で食事だ。いまは出ているが、弟の綺香も合流する予定になっている。

 結納に関してほとんど知識がなく、大半を瀬戸に任せてしまった。仲人は立てない、行うのは飛紗の家で、略式のもの。結納金の相場を聞いて驚いた。なくてもいいのではないかと飛紗は言ったが、そういうわけには、といつもの困ったような笑い方で瀬戸に言われてしまった。父の和紀に言うと「当り前や」と叱られ、結局結納返しに必要経費を差し引いた分を渡し、両家の負担を同じにすることで決着した。家を借りるのにと言われたが、それを言ったら東京からわざわざ来てもらうのに、である。

 結納にも関東式と関西式があることを教えてもらい、今回は関西式の九品目、金包、長熨斗、寿留女、家内喜多留、松魚料、末広、子生婦、高砂、結美輪で行うことになった。関東だと松魚料、高砂、結美輪がなく、代わりに目録、友白髪、勝男武士が数えられるそうだ。飾り方も異なるらしい。一応説明は受けたが飛紗の頭は混乱するばかりだったので、申し訳ないながら両親と瀬戸に任せた。

 しかし一度形式ばったことを行うと、一つの区切りがついて、結婚の二文字が現実として襲ってくる。これまでもふとした瞬間に実感を抱いたりもしたが、もっと真に迫った、ある意味では逃れようのない責任感だ。企画が通って準備段階に入ったというか、これからはもう、イベントができるかどうかではなく、イベントを成功させるしかない。

 結局瀬戸の母親にはまだ挨拶をしていないのだが、日取りなど諸々全部決まったあとでいいです、と瀬戸に固辞されてしまったので、それ以上は何も言えなかった。あの瀬戸が特定の誰かにあそこまで負の感情を露わにしているのは見たことがない。晟一や、晟一のパートナーの学に聞いてもいいものかわからず、飛紗がひとり悶々としているところである。

「髪も下ろしちゃったんですね」

 リビングに行くと、男たちが将棋を指していた。和紀の相手をしている学が唸っている。飛紗と同じように着替えた小春が、テーブルにお茶を置いていた。

 瀬戸が隣に座るように示したので、腰を下ろす。

「ごはん食べに行くにはちょっと派手やから」

「学さん、ほとんど将棋したことないにしては強いのよ」

 小春の言で将棋盤に目を落とすと、確かに大差はついていない。和紀と小春が将棋ずきで、将棋を通して知り合い、子どもの名前を将棋の駒から一字とってつけたくらいなので、飛紗もルールは一通り叩きこまれた。弟の綺香は飛紗より強く、母校の大学教授に将棋を教えに行っているくらいだ。

「ゲイが一人で生きていくには頭いいほうが便利だなと思っただけですよ」

「そう思って努力できるんがすごいんやないの」

「せやけど、勉学ができれば強いというような単純なものやないで、将棋は」

 ぱちん、と小気味いい音を鳴らして、和紀が駒を進めた。いい手だ。一気に形勢が和紀に傾いたのに気づき、対戦している学があっ、と声をあげた。それを見て、晟一がわははと声を出して笑う。

 下手に会話をするより、ずっと親しくなっているようだ。顔を合わせた時点ではやはり多少しどろもどろで、小春と晟一はあっけらかんと挨拶していたが、和紀と学が居心地悪そうにしていたのに、将棋は偉大だ。結局大人になっても、小学生と同じように何かゲームだの共同作業だのをしたほうが、距離が近くなりやすいのだろう。

「いちばんつよいのは小春さんですか?」

「わかる?」

 瀬戸の向かいに座っている小春が、にこりとして答えた。和紀がぎくりと一瞬、体をこわばらせる。また始まるぞ、と飛紗は小さくため息をついた。指しているところを知らないのに、瀬戸はよくわかったものだ。

「私と和紀さん、将棋教室で会ったんやけど」

「ええやないか、その話は」

「ええやん、話しても」

 毎度のことながら、和紀の制止など聞くはずもない。小春にとっては自慢話であり、基本的には言いふらしたいのだ。学も晟一も、将棋を一旦中断して小春のほうに顔を向けている。

「和紀さん、自分の腕に自信があったみたいやねんけど、一回も私に勝てへんでね。ある日、いつもみたいに指しとったら突然、これで勝ったら結婚してくれ、って」

 何度も話しているので、小春の口からは淀みなく言葉が流れてくる。何度も話されているのに、和紀はまた照れている。親の姿を改めて見て、つくづく自分は父親似だなと感じた。弟と妹は、どちらかというと母親似な気がするのだが。

「動揺してもうて……」

「負けたんですか?」

「ううん、勝ったけど」

 勝ったんだ、と瀬戸が笑う。こういう、話としてこうくるだろうな、という筋を外れると、瀬戸はよわい。

「私が勝ったから結婚してください、って言うて。和紀さんが勝つの待ってたらいつになるかどきどきせなあかんし、やっぱり私も負けるんはいややし。言った本人はもっと動揺しとったし」

 いや、うん、まあ、と和紀がしどろもどろになりながら俯いた。我が親ながら、仲がよい。普段からお互いを尊敬しあっているのがわかる。晟一と学も相当仲がよく見えるし、比べればいい勝負かもしれない。

「どっちが勝ったら、って話はしとらんかったから、これもありやろ? って」

「小春さん、かっこいい」

 晟一が笑顔で拍手をした。ますます照れて小さくなる和紀とは反対に、小春は胸を張るようにしている。

「いまに至るまで無敗です」

「ますますかっこいい」

 学も同じように拍手をする。

 将棋で勝てないからか、プロポーズがなんだかんだと小春からになってしまったからか、和紀は小春に頭が上がらない。普段は小春が和紀を立て、寡黙な一家の大黒柱ではあるものの、最終的に手綱を握っているのは小春だ。

「きっと一生勝てませんね」

 ひそりと飛紗にだけ瀬戸が呟く。そうかも、と笑ってしまう。和紀はまだ照れていた。惚れた弱みというやつかもしれない。

「今日はどこに泊まるんですか?」

 話題を変えようとしたらしい、和紀が晟一を見て言った。学がこれを機にこっそりと長考し始める。

「Tホテルに。数駅横ですが、ここらは宿泊施設がなかったので」

「ベッドタウンですからね」

 一〇月末に日程を決めたので最初は満室と断られたらしいが、運よくキャンセルが出たらしい。今日は一一月の半ばで何かイベントがあるような時期ではないが、大安の土曜日、おそらく同じように結納だの結婚式だのを行っているカップルは少なくないだろう。

「眞一さんの家には泊まらへんのね」

 ぱちん、と駒を進める音がした。学が長考を終えたようだ。

「男三人で転がるには狭い部屋なんですよ」

「そうなの。まあ、この時期風邪も引きやすいしね」

 しれっといつもの愛想とともに瀬戸が答えて、飛紗は内心胸をなでおろした。月に最低二回程度は泊まっている手前、「ベッド以外に寝具がない」とは言いづらい。もしなんとなく察せられているとしても、実際言葉にされると親の手前恥ずかしい。もっとも、先日記憶をなくすほど酔って瀬戸から小春に連絡させたことを思えば、些末な出来事な気もするのだが。

「それなら飛紗が今日、眞一さんのところに泊まるの?」

「えっ、なんで?」

 突然思わぬ話を振られて、大きな声が出てしまう。

「あなた疲れるとすぐ眞一さんを頼るやないの」

 ばれている。そのとおりだ。ちらと瀬戸に目線をやると、どちらでもいいですよ、と微笑まれてしまった。今日はさすがの瀬戸も疲れているのではないだろうか。これだけ大勢でいると、一人の時間があったほうがよいのではないか。しかし結納を終えたいま、ふたりきりになりたいのも事実だ。

 ぐるぐるとしていると、王手、という声が聞こえた。

「ま、待った……」

「待ったなし」

 和紀のうれしそうな声と、晟一の笑い声が重なる。盤を覗くと、和紀の圧勝だ。待ったとしてもどうしようもない。

「泊まりに来たら? 飛紗ちゃん」

 ね、とテーブルの下で小指だけ絡ませられ、思わず頷いてしまう。それじゃあよろしくお願いします、と小春が頭を下げるのを見てはっとしたが、すでに時遅しだ。小指はあっさりと解かれ、瀬戸が一瞬、飛紗のほうを見てにやりとした。やられた。

 絡んでいた小指をこっそりとなでながら、この熱のようなものが落ちつく日はくるのだろうか、と思う。どんなにのめりこむようにはまっていっても、いつかは冷めていくのを知っている。それとも熱と思うから冷めるのか。瀬戸のことはマイナスイメージから入っているから、盲目的にすき、と感じているつもりはないが、どこかずっと浮ついた気持ちでいるのは確かだ。

 いや、その前に、瀬戸に愛想を尽かされる可能性だってある。現状、疑う余地がないくらい気持ちを向けてもらっているからといって、今後も続くとは当然限らない。特に飛紗と違って、他の女性を(具体的に何人かは知らないが)瀬戸は知っているし、異性の知人も多いはずだ。中高大と女子校で、ほとんど同性とばかり過ごしてきた飛紗とは比べものにならない。

 考えたところで仕方がないことはわかっていても、ふっとよぎってしまう。そういえば、先日も取引先に「もう少し可愛げがあったほうが、何かと得だよ」と言われてしまったし。同行した茂木が庇ってはくれたけれど、あのとき、うまく笑えていただろうか。

「飛紗ちゃん」

 瀬戸の声で現実に引き戻されて、びくりと体がこわばる。

「買い物。ついてきてくれませんか?」

 え、ああ、うん。完全に意識が飛んでいたので何の話かわからなかったが、反射で頷いた。小春が「助かるわ」と何か瀬戸にメモを渡し、学が「ついでに煙草買ってきて。和紀さんの分も一緒に」と叫んだ。その和紀は、今度は晟一と対戦している。

 それじゃあと瀬戸が玄関に向かったので、上着を掴み、慌ててついていく。瀬戸は肌寒くなってきたのにジャケットを羽織らず、袖もまくったままだ。

「苦しい。世の中の大半が毎日これで仕事をしているかと思うと、素直に感心します」

 言いながら、ネクタイを緩めて第一ボタンを外す。その手にそのまま手を握られた。長く室内にいたためか、温かい。

「無事に終わりましたね、結納」

 どこに向かっているのか、おそらくスーパーだとは思うが、瀬戸の歩みについていく。いつも以上にゆったりとした歩調だ。

 外を歩くとき、瀬戸とは腕を組むより手をつなぐほうが多い。常に本棚の前に並べているすきな漫画のなかに、「腕を組むより、手をつなぐほうが私のため、という感覚があるのよ」というような科白があった。読んでは「そうなのか」と思うばかりだったが、いまならわかる。手をつなぐのは、腕を組むより双方の意思があって、のような気がする。

 人との距離を測るのがうまい瀬戸であるから、きっとこれまでもこうやって手をつないできたのだろう。どうすれば相手がよろこぶのか、いやがるのかを、瞬時に判断できる男だから。

(余計なこと考えた)

 静かにむかむかとした気持ちが底からわいてきて、振りきるように手を握りなおす。過去のことで嫉妬しても不毛なだけだ。

「飛紗ちゃん?」

「あ、ごめん。なんて?」

「結納、無事に終わりましたね、って」

 これで形式的にも婚約したことになる。いつもはチェーンに通して首から提げている婚約指輪も、今日は左手の薬指だ。

「ああ、うん。眞一が詳しくてびっくりした。さすが歴史学者やね」

「うん? こんな最近の文化、専門外ですよ」

 最近、の文化なのか。首を傾げていると明治時代からだと教えてくれた。一〇〇年以上前の文化で最近とはおかしくないか。聞けば、

「六〇〇年前くらいは最近って言うかな」

 とあっさり答えられて、間抜けな相槌を打ってしまう。ファッションの世界など、季節がめぐれば流行遅れになるほうが当たり前であるのに。京都人かと心のなかでつっこんでしまう。応仁の乱はそれくらいだったような。

 考古学者や古代史の研究者は紀元後を最近と言ったりする、と言われて、ますます間抜けな返事になる。まったくぴんとこない。

 とにかく瀬戸が結納について詳しかったのは、単に知識を持っていたということだ。任せるばかりではなく、もう少し勉強したほうがよかったかもしれない。

「着飾った飛紗ちゃん、かわいかったです」

 思い出しているのか、ふ、とやさしい笑みを浮かべながら言われて、目線を足元に落とす。瀬戸はすぐこういうことを言う。至極あっさりと。思えば付き合う前から、今日の服かわいいですねだの、爪きれいですねだの、美人なんだからだの、恥ずかし気もなくぽんぽんと口にしていた。日常的な言葉なのだろう。

「誰にでも言うくせに」

 ぽろっと口から漏れて、瞬時に後悔する。先ほど一人で勝手に抱いた嫉妬がまだ渦巻いていたらしい。こんなことを言うつもりはなかったのに。

「誰にでも?」

 繰り返されて、ごめん、と謝る。顔が見られない。手をほどかれないだけましだ。

「まあ、かわいいと思えば、言いますね。確かに、誰にでも」

 言葉を独占したいわけじゃない。瀬戸がかわいいと思う、その気持ちを独占したいわけじゃない。

 そう思っているはずなのに、独占したい、と叫ぶ自分が胸の内に存在していて、貪欲さに嫌気が差す。穴があったら入りたい。

「でも抱きしめたくなるのは飛紗ちゃんだけですから」

 歩きながらも顔を覗きこまれるようにされて、目が合ってしまう。揶揄するような視線ではなかった。

「結婚したいのも、するのも、後にも先にも飛紗ちゃんだけです」

 指を絡める握り方に変えられて、瀬戸が立ちどまったのに合わせて飛紗も足をとめる。寒いのに熱い。相変わらず、飛紗の考えなどすべて見透かされているようで、照れながらも眉根を寄せてしまう。ずるい男なのだ、瀬戸は。

「奇特やねん、眞一が」

「そうかな」

 なぜ突然買い物になど行くことにしたのかここにきてやっと察した。悔しい。うれしい。

「私はこれから羨ましがられる立場になるんですよ」

 羨ましがられる? 意味がわからず首を傾げていると、瀬戸が握っているのとは反対の手で飛紗の頬をなでた。木枯らしにも負けず、まだ温かい。冷え性の飛紗には考えられないことだ。

 あまり外でこういうことは、と思ったが、すぐに離れて、瀬戸が相好を崩す。

「こんなにかわいくて美人な飛紗ちゃんが奥さんになるんですから」

 言われた言葉を呑みこむと、自分の顔が真っ赤になっていったのがわかる。にこにこと柔らかな双眸で見つめられて、声が出ない。前に瀬戸のところの学生にからかわれたときも同じように恥ずかしかったが、なぜなのか、段違いの羞恥が襲ってくる。

「わたし、可愛げがないって、評判やけど」

「うん?」

 つい叩いてしまった憎まれ口に対して、瀬戸は表情をそのままに言った。

「そんなの、私と一緒にいるときの飛紗ちゃんを知らないから言えることでしょ」

 どっ、と心臓が撃ち抜かれて、赤い顔をさらに赤く染めながら、飛紗は思わずしゃがみこんでしまう。力が抜けた。つないでいる手にもう一方を重ねるようにして、両手で握りしめる。心配するような声が頭上から聞こえたが、顔を上げることができない。

(ああ)

 心のなかに、言葉が染みこんでいく。瀬戸が特別になってから、感情があふれてばかりだ。もしかすると、瀬戸は魔法使いだったのかもしれない。なんて、ロマンチストな考えも、いまは許されたい。

 通行人からの視線を感じ、すっくと立ちあがる。すると当然目の前に瀬戸の顔がきて、なんだか無性に照れてしまった。俯きがちに行こう、と先を促し、再び並んで歩く。心臓の高鳴りと、世界のきらめきが納まらない。にやけるのが隠しきれなかった。

「今日、泊まることにしとってよかった」

 実際のところ、きっと飛紗に可愛げがないのは変わりがないし、取引先の人が瀬戸と一緒にいるところを見ることはないだろうし、何かが変わったわけではない。それでも、自分のことをいちばん知っているのは瀬戸なのだ、瀬戸は自分を認めてくれているのだと思うと、なんだか、この気持ちは、そう、無敵。

(いまならなんでもできる気がする)

 理不尽なクレームも、取引先の心ない発言も、親戚の無責任な同情も、友人とのすれ違いも、全部なんでもないことのように思える。

「もうちょっと無敵でおりたいし」

「無敵?」

 おかしそうに瀬戸が笑った。

「いいですね、すごくいい響きです」

 そうでしょう、と胸を張る。二人してけらけらと笑っているのですれ違う人が不思議そうに視線をよこしてきたが、それももう気にならなかった。

 どうなるかわからないことを考えるのは、そろそろやめよう。瀬戸には瀬戸の付き合いと感情があり、飛紗には飛紗の付き合いと感情があり、先が見えないのはどちらも同じだ。それでもこれから一緒にいると約束をした以上、誠心誠意、自分と瀬戸、両方と連れ添っていくしかない。

 少なくとも今日のことは、これから先もきっと勇気になる。

 調子がよいと言われようとも、飛紗にとっては最高の一日だった。

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