可愛

 そろそろ寝ようとしていたところでチャイムが鳴った。もう零時を回っている。住所を知っている数少ない人間を思い浮かべてみるが、誰もこんな夜更けに訪ねそうにはない。間違いではと無視を決めたところで、もう一度鳴った。たたみかけるように、さらに一回。面倒くさい。首をかいて嘆息し、玄関に向かう。ドアスコープを覗くと、飛紗が立っていた。

 なぜ。真っ先に疑問が出てくる。夜中に訪ねてくるほど何かあったのかという心配がわきあがってはくるが、飛紗のことだからそれならば先に連絡をしてきそうだし、そもそも合鍵を持っている。忘れてきたのだろうか。どちらにせよ、こんな夜更けにやってきて何度もチャイムを鳴らすようなタイプではない。

 ドアを開けると、間髪入れずに飛紗が抱きついてきた。どうしたと聞く前に原因に気づく。酒くさい。

「飛紗ちゃん」

 呼びかけると、顔は見えないが、んふふ、と笑い声がしたので、機嫌はいいらしい。抱きついたまま足をもつれさせたので、体を支えるようにする。こんなに酔っぱらった姿を見るのは初めてだ。多少ふわふわとしているところは何度も目にしているが。

 とりあえず中に入るように促すと、背中に回した腕を離そうとしないので、引きずるような形になる。ひとまずドアを閉めて鍵をかけなおし、もう一度呼びかけた。むしろ腕に力を入れてきて、靴を脱ぐ様子すら見せない。どさりと鞄が落ちた。重そうな音だ。恰好から察するに、休日出勤だったのだろう。

「やや、離れたくない」

 呂律が回っていないのでわかりづらいが、「嫌や」と言われたらしい。頬をすり寄せられる。外の空気で耳は冷たいのに、頬は熱かった。

「離れなくていいから、靴を脱いで中に行きましょう。ね? 風邪を引きますから」

 小さい子どもに言い聞かすような口調になる。一応納得したらしい飛紗が玄関口に腰を下ろそうとしたので、転ばないように気をつけながら座らせる。靴を脱いだ飛紗はこれだけ酔っていてもきちんと両足を揃えて置いた。正しくは置いたつもりで、ヒールが引っかかって片方倒れてしまったので、瀬戸が直してやる。

 ばっと両手を上に広げられ、疑問符を浮かべていると、しびれを切らした飛紗がむっとした表情になった。「ん!」と主張されるものの、さっぱりわからない。ますます首をかしげる。

「……だっこ」

「大丈夫?」

 思わず口をついて出た。これは間違いなく、明日頭を抱えて顔どころか全身から火をふかせる言動だ。しかしこの発言がまずかったらしく、突然飛紗がぐしゃりと表情をゆがませたので、慌てて頭をなでる。

「わかりましたから」

 泣かないでほしい、という自分の気持ちに驚きつつ、観念して背中とひかがみに腕を回す。飛紗はすぐ首に抱きついてきて、満足そうにまたふふ、と笑い声をあげた。酔っぱらいの感情など刹那的だと知っているはずなのに、飛紗が相手だとどうも忘れてしまう。

 ねだったわりに申し訳なく感じているのか、「重い?」と聞かれて、「重くないよ」と答えれば、体から力を抜いた。こういうとき、「大丈夫」などと答えてはっきり否定しないでいるとあとあと面倒になる。

 飛紗をベッドに下ろして、落としたままの鞄を取りに行こうとすれば、裾を掴まれた。諦めて隣に座り、両手をそれぞれ手にとって、飛紗と向きあう。

「今日、仕事だったんですか?」

 尋問の開始だ。飛紗はにこにことして、うん、と頷いた。

「明日は休みですか?」

「うん」

「ここに来ること、家に連絡しましたか?」

「ううん」

「誰と飲んだんですか?」

「仕事帰り、部長に連れていかれて、みんなと」

「どれくらい飲んだか、憶えていますか?」

「いっぱい」

 これはだめだ。いや、だめなことくらいはなからわかっているのだが、改めて確信的にだめだ、と思った。

 送りますから今日は帰りましょうか、と一応提案してみれば、すっと笑顔が消えて、ぽろぽろと泣き出した。まったくだめだ。大声をあげるのではなく、黙って小さくしゃくりながら涙が流れるままにしているのを見て、溜息をつきながら抱きしめる。

 とりあえず飛紗の家に連絡だ。いつもと同じく、きっとスマートフォンは鞄のなかだろう。置いていくわけにもいかず、今度は子どもを抱きあげるようにして、玄関に落ちた鞄を取りに行く。何をしているのだか、過保護であることを自覚する。

 面倒になって、抱きかかえたままベッドに座る。持ってきた鞄からスマートフォンを探り当て、アドレス帳から飛紗の母の小春を選ぶ。パスワードが設定されていなかったので簡単なものだった。電話をかけて状況を説明すると謝られた。ついでに瀬戸自身の電話番号を伝えて、お互い登録しておくようにする。こういうことを、今度両親が顔合わせした際に済ませておかなければならない。結婚はしてからが生活と聞いたが、するまではイベントかアトラクションだな、と感じた。

 電話を切ると、ごめん、と飛紗が呟いた。ぎゅうとさらに抱きつかれる。

「甘えすぎて、愛想尽かされたくない」

 震えた声とともに、ずっ、と洟をすする音が耳元で響く。笑い上戸なのか泣き上戸なのか、どちらにせよいまの状況では笑い話にしかならない主張だが、何か別のところで不安に思っていることがあるのかもしれない。

「でも、どれくらい甘えても大丈夫なんか、わからなくて」

 肩が濡れて冷たくなってきた。必死になって言うので、黙って背中をさする。

「どれくらい甘えても、眞一が重荷に思わんか、わからんくて」

 同じことを繰り返している。呼吸が浅く荒くなって咳きこみはじめた。普段枕元に置いている水のペットボトルをなんとか手に取り渡そうと試みるが、小さく首を横に振るだけで飲もうとしない。

「か、かわいいって、思われたい。可愛げがないって、思われたくない」

 背中をさするのをやめて密着している体を離すと、水を口に含んで移す。驚いた飛紗が苦しそうに瀬戸の胸元を握りしめたが、やがてごくりと咽喉が上下した。何度か繰り返して、荒いままではあるものの呼吸が深く戻ってきたのを確認すると、飲める? とペットボトルを握らせる。ぼろぼろと泣き続けながらも、飛紗は水を飲み始めた。かすかに口元からこぼれた分はぬぐってやる。服が一部濡れてしまったが、水なので大丈夫だろう。

 空になったペットボトルが、飛紗の手からするりと落ちた。拾わずそのままにして、再び背中をさすってやる。頭を瀬戸の首元にうずめた飛紗が、安心したようにほうと息を吐いた。

(コンプレックスはそこか)

 これだけ直接かわいいと繰り返していても、根が深いからあまり響いていないのか、それとも誰かに何か言われたのか。まさか今さら、瀬戸の言葉を疑ってはいないだろう。

 誰とも付き合ったことがない、あまり興味がなかったとかつて言っていたが、何も起こらなかった原因は自分にあるとどこかで無意識のうちにでも考えていたとしたら、そもそも恋愛に対して引け目を感じていてもおかしくない。まさしく塵も積もれば山となるで、飛紗自身が気づかないうちに重ねていた不安が、飲酒によって爆発してしまった可能性はある。なぜこのタイミングかはよくわからないが、結婚が一つの引き金になったのだろうか。相手を信じているとか信じていないとかとはまったく別のところで、個として悩むのはよくある話だ。

「飛紗ちゃんはかわいいですよ」

 頬をなでる。結局肯定することくらいしか、対処が思いつかない。

「誰に何を言われても、私にとって飛紗ちゃんは何よりもかわいい存在です」

「うそ。だって眞一、前にわたしのこと色気ないって、言った」

 言った。確かに言った。ぐい、と拒否するように頬のあたりを押されて、嘆息しそうになるのを堪える。確かに言ったが、一年以上も前の――それも付き合う前の――発言をここで持ってこられても困る。

「いまの飛紗ちゃんは、ありますよ。少なくとも私に対しては」

 言ったことは事実であるし、あるいは言っていないとしても飛紗のなかでは言ったことになっているのだから、現状どうなのかを伝える。過去はどうせ変えられない。記憶は変化していくのに不思議なことだ。

「やって、でも」

 ぐずぐずとまた泣き始めて、腕を背中に回してくる。もはや自分でも何をどうしたいのか、判然としないのだろう。

「飛紗ちゃんが常に溢れんばかりの色気を持って、他の大勢に言い寄られるのはおもしろくないですから、いいんです、私が知っていれば」

「でも」

「私より有象無象の評価を気にするんですか?」

 口にして、これは飛紗が素面であれば怒られる発言だなと自嘲する。そもそも他人との付き合いは生きているかぎり逃れようのないものであるから、この聞き方は卑怯であるし、何の解決にもならない。反省して、飛紗がまた物事をややこしく考え始める前に言葉を重ねる。

「飛紗ちゃんに色気がなかったら欲情なんかしませんよ」

 太ももに指を這わせると、油断していたのかびくりと体がはねた。

「私の前でだけ表情が変わって、美人な飛紗ちゃんがこの上なくかわいくなるの、自覚がないんですか」

 髪を耳にかけて、耳たぶを軽く引っ張るようにする。体を小さくするように背中を丸めて、つむじを肩に押しつけられた。

 起きてはいるが、意識はあるのかないのか、明日になればすっかり忘れているかもしれない。飛紗を思えば、忘れていたほうがいい。「しっかりしていて」「責任感があり」「頼れる」と思われるほうが断然多い飛紗は、情けない自分を受け入れるのが下手だ。だからこそここまで溜めこんでしまったとも言える。

「気づけないでいてごめんね」

 露わにした耳元に唇を寄せて呟く。ひとりごとみたいなものだ。

「飛紗ちゃんはかわいいよ。素直に甘えきれないところも、一度ふっきれたらくっついて離れないところも、そうやって悩んでいるところも」

 反応がないので寝たのかと思ったが、飛紗はまた瀬戸の肩口に頭を載せた。顔は見えないものの、もう泣いてはいないらしい。

「眞一の声、すき」

 とろんとした響きに、今度は瀬戸がどきりとする番だった。

「すきって言って」

 落ちつかないのか、もぞもぞと動きながら飛紗が乞う。すきだよ、と伝えると、もう一回、と言われ、求められるままに何度も伝える。やがて機嫌をよくした飛紗がふふふと笑った。ひとまず山は越えたようだ。ちらりと時計に目をやると、もう一時である。

「今日はもう寝ましょうか」

 明日が日曜日でよかった。飛紗も休みだろう。

 トイレ、と腕を背中から首に回される。連れていけということか。逆らわずに抱き運ぶと、さすがにドアの前で降りた。残念。特にそういう趣味はないが。

 その間に冷蔵庫から新しく水を出し、キャップを開けて準備をしておく。実際どれくらい飲んだのか。今後の参考のためにぜひ聞きたいところである。

 出てきた飛紗が両腕を伸ばしたので、もう何も聞かず抱きあげる。ベッドに下ろして、風呂は無理でもせめて着替えさせようと、飛紗の生活用品を詰めているラックからTシャツとズボンを取りだす。着替えてください、と渡しても倒れんばかりに体を傾けるだけだったので、ボタンを外してジャケットを、万歳をさせてその下の服を脱がして、すぐにTシャツをかぶせた。そういえば、化粧は取ったほうがよいのではないだろうか。いつも風呂あがりにしているスキンケアは順序がわからないので手が出せないが、化粧落としは拭くタイプのものがあったはずだ。再びラックを開けて見つけだし、ぬぐいとる。目を瞑って、だの、じっとしていて、だの指示をすると素直に言うことを聞いて、終われば褒めて褒めてと見えない尻尾を振り回す飛紗は、新鮮でかわいい。飛紗以外なら放置してしまうところだ。そもそも酔っぱらいの面倒など見る気にもなれない。自分の変わりように一瞬ぞっとしたが、程度はともかく変化に対して自覚は持っていたので気にしないことにした。

(こういう自分がいつか当たり前になるのか)

 飛紗に対する底のない愛情を、飛紗に夢中、と言うには把握しすぎている。

 スカートを下ろしてタイツを取ると、ズボンを履かせる前に毛布に入ってしまった。下着は履いているからいいだろう。明日の飛紗の反応をたのしみにするということで。

「飛紗ちゃん、もう少し水を飲んでください」

 すでに寝る態勢に入っている飛紗が、んん、と眉根を寄せて首を横に振った。いやか。しかし明日がつらくなるのは飛紗だ。もう一度呼びかけながら肩をたたく。瀬戸が諦めないことを悟ったのか、飛紗が唇を尖らせて、駄々をこねるように言った。

「さっきの、してくれるんやったら、飲む」

 このぐらぐらな精神状態で、よく憶えていたなとむしろ感心する。飛紗の頭を膝に載せ、水を一度口に含んでそのまま移した。繰り返している間、おとなしく受け入れていた飛紗だが、水が半分くらいになったところでもういい、と顔をうつぶせた。いや、もういいではなく。

 ちょうど先日、コンビニで牛乳を買ったときにもらったストローがあることを思い出し、取りに行く。そのときは一リットルの牛乳をストローで飲むわけあるかと呆れたものだが、いまは感謝だ。ペットボトルに突き刺して、同じ体勢に戻すと差し出す。嫌がる素振りを見せながらも、口に入れれば飲み始めた。ほんとうに子どもに戻ったみたいである。

 もうちょっと、と言いながら額に手を置くと、双眸を潤ませながらこくりと頷いた。飲みきると瀬戸の膝に顔を押しつけて、ちらりと覗き見るようにしてくる。ねだられているのがわかって、口づけると、飛紗は照れたようにはにかんでゆっくりと瞼を落とした。

 寝息を確認し、溜息をつく。頭を枕に動かしても起きず、完全にねむりについたようだ。

 ひとまずは安心したが、床には飛紗の服が散乱している。このまま洗濯しても大丈夫なのか、一応タグを確認したものの、洗濯籠に放りこんだ。明日聞いてからにしよう。服がすきな人間の服をだめにしてしまっては申し訳ない。

 空になったペットボトルを二つ拾ってゴミ箱に入れ、枕元の充電器に飛紗のスマートフォンをつなげる。涙を吸収していた肩がひんやりとしているが、触ると湿っている程度で濡れてはいない。

 他に寝る場所がないのでベッドに入ると当然狭く体を寄せ合う形になり、飛紗が寝ぼけながら胸元に頭をうずめた。

 可愛げがないと思われたくない。

 泣きながら吐露された言葉に、しかし微塵も思っていないので疑問が先にきてしまった。上司に何か言われて、内心傷つきながら笑うしかなかったのか、予測だけならいくらでも立てられるが意味をなさない。マリッジブルーという言葉もあるくらいだ。

 大丈夫。つむじに唇を落とせば、飛紗の腕が瀬戸の背中に回った。



 *



 翌朝起きた飛紗は記憶をなくしていて、見事なくらいだった。帰り道、店を出る前からすでに憶えがないらしい。細かいことは告げず要点だけ伝えれば、案の定羞恥に頭を抱えていた。二日酔いはないというので、空腹を訴えているにも関わらず何はともあれ寝起きを襲い、一方的に欲をぶつけた。他人、つまり思わず出てしまった本心であるところの有象無象に言葉が押し負けたのが、昨夜は瀬戸自身気づかなかったものの非常に悔しかったらしい。とはいえ、飛紗もまんざらではなく、むしろおそらくは迷惑をかけたかもしれない――なにせ一切を憶えていないので――、という罪悪感から、普段以上に応えようと必死で、瀬戸が抱いた独占欲は概ね満たされた。これまでも時間など気にせず体を重ねてきたから、そもそも寝起きだろうが何だろうが、抵抗がよわい。

 ひたすらに「かわいい」と連呼すると、そのたび飛紗は恥ずかしそうにうつむいた。考えているより根が深いとわかった以上、地道に埋めていくしかない。相当言っているほうだとは思うが、量よりは時間の問題だ。

 なぜかストローをつけられた一リットルの牛乳でフレンチトーストをつくり、焼いたベーコンを添えて出せば、飛紗は非常によろこんだ。鷹村家ではめったに出ないらしい。瀬戸はすでに朝食を終えていたので、一緒につくったゆで卵を一個だけ食べた。

「昨日着てた服、普通に洗ってもいいんですか?」

 シャワーを浴びて上下瀬戸の服を着ている飛紗が、昨日、と言いながら濡れた髪をタオルで挟んだ。それも憶えていないのか。

「いや、ええよ、持って帰る。ごめん」

 本人がそう言うので、洗濯籠に入れていた服を回収し、ついでにドライヤーを持っていく。ベッドに腰掛けて、飛紗を前に座らせた。飛紗が自身の服をたたんでいる間、ドライヤーをかけてやる。ぶおお、と音が大きいので、会話はできない。

 飛紗の髪を触るのはすきだ。長くてさらさらとしていて、指を通すと気持ちがいい。ある程度乾いたところでブラシを通す。前は自分でやると固辞していたこの行為も、最近では黙って任せてくれるようになった。諦めたのか受け入れたのか、後者だとうれしいのだが。

「……今日はゆっくりしていきなよ」

 引きずる罪悪感からはやめに帰ると言い出しかねない飛紗に、後ろから抱きしめて言う。

 愛しいとはこういうことか。

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