情欲

 気づけば瀬戸の家にいた。まったく覚えがない。家主はリビングのテーブルで何か論文らしきものを読んでいて、寝起きでぼんやりしている飛紗を認めると顔を上げ、「起きた?」と聞いてくる。前にもこんなことがあったような。

 状況が呑みこめてくると、反対に頭が混乱しだした。慌てて時計を見れば、針がちょうど九時を指している。始業時間。遅刻だ、とベッドを飛び出ようとしたところで、

「今日は日曜日ですよ」

 と瀬戸が言った。え、ああ、日曜日。はあ、と力が抜けた。休みだ。とはいえさらに年末が近づけば日曜日といえど出勤のこともあるから、気をつけなければ。

 ベッドの上で安堵していると、瀬戸がじっとこちらを見ている。ほんとうに、どうしてここにいるのかまったく覚えがないので、なんだか目線がこわい。読み書きをするときだけかけている眼鏡を外さずに見られるのもめずらしく、心なしか体がこわばった。何か知らぬうちにやらかしてしまったのだろうか。

「なに?」

 おそるおそる聞けば、いや、と返事を濁らされた。それもめずらしい。いよいよ不安になってくる。しかし、そんな飛紗の思いとは裏腹に、瀬戸は頬杖をついてのんびりと言った。

「月並みな感想ですけど、眼福だなと思って」

 がんぷく。頭のなかですぐには変換できず、間抜けに疑問符を浮かべてしまう。

 困っている飛紗に助け舟を出すように、瀬戸が指をさす。飛紗の下あたりだ。目線を落とせば、下半身は下着だけ、上はTシャツがめくれあがっている。声が音にならず飛紗の脳内だけで響き渡り、ばっと毛布にもぐりこんだ。その様子を見て、ついに瀬戸が声をあげて笑いだした。眼福。もっとはやく言ってほしい。

「いじわるや」

「ぜんぜん気づかないから」

 恨みがましく言ってみても、あっさりと返される。今度こそ眼鏡を外して、瀬戸がベッド脇まで来て傍に座った。乱れた飛紗の髪を整えるように指を入れる。

「何度も見てるのに、まだ恥ずかしい?」

 そう言う瀬戸の表情は明らかに余裕綽々で、飛紗は赤面しながら悔しくなる。経験はおそらく天と地ほどの差があって、歳は七つ上で、いつまで経っても敵いそうにない。恥ずかしい、とはっきり答えるのが癪で、小さく頷く。瀬戸がくすりと笑い、額に唇を落として、おはよう、と改めて言ったので、おはよ、と呟くように返した。

「ねえ、ごめん、わたし昨夜変なことせんかった?」

「覚えてないんですか?」

「さっぱり覚えてへん」

 飛紗の返答に瀬戸はさしたる驚きも見せず、むしろ納得したように説明をしてくれた。いわく、夜遅くに酔っぱらってやってきて、しばらく抱きついて離れず、送ると言っても帰りたくないと泣くので、化粧を落として、服だけ着替えさせて寝かせたという。下は脱がせたところでベッドに入ってしまったので、諦めた、とのことである。

「小春さんにも連絡したので大丈夫ですよ」

 小春とは、飛紗の母親だ。いつの間に連絡先を交換したのか。

 頭を抱える。そこまでのことがありながら、一切を思い出せない。目が腫れぼったい感覚はあるので、いったいどれほど泣いたのか。

 昨日は長引いた残業が終わって、上司が「明日は休みだから一杯やろう」と言って職場近くのワイン専門店に連れていってくれて、勧められるままに飲んだ。そこまでは憶えている。思えば、眠気、疲労、夕飯は食べずにチーズとサラミをつまみにして、「奢るから」と傾けられるボトルに逆らうことができず、酔っ払うのは当り前だ。上司は上司でもせめて茂木なら断ることもできたのだが、事業部長だったので、遠慮するのは難しかった。

 枕元にコードにつながれたスマートフォンが置いてあるのに気づき、慌てて手にとる。瀬戸が充電してくれていたらしい。画面をつければ、母親から「ごゆっくり~」とラインが入っている。帰るのが恥ずかしい。しかしそれより、瀬戸の前以外で粗相をしていないかが気になる。尾野が一緒だったはずなので、尾野に「わたし昨日、仕事のあとおかしくなかった?」とメッセージを送る。休日だがもう起きているらしくすぐに既読のマークがつき、「いつもどおりやったけど?」と返事がきた。ひとまず安堵する。

 記憶をなくすなんて初めてだ。はあ、と嘆息しながらスマートフォンから目を離すと、何度か頭をなでられた。

「気分が悪かったりはしてない?」

 すでに用意してくれていたらしく、水のペットボトルにストローを差して、瀬戸が渡してくれた。これなら寝転がったままで飲める。ありがたく受け取って口に含んだ。一度潤い始めると咽喉が渇いていたことに気づき、そのまま勢いよく飲み続ける。

 二日酔いは不思議なほどなかった。頭は痛くないし、吐き気もないし、気分が悪いこともない。やっとストローから口を離して、大丈夫、と答える。水は半分に減っていた。

「あの、ごめんな? 迷惑かけて……」

 何せ記憶にないので謝り方がわからない。それでも謝らずにはいられなかった。まだじゃっかん、混乱が続いている気がする。

「迷惑はかかってないけど、気をつけてくださいね。知らないところで倒れたりしたら洒落になりませんから」

 ごもっともだ。よく瀬戸の家まで来られたものだと思う。電車に乗った記憶もないのに、帰巣本能でも働いたのだろうか。働いたとして、目的地が実家ではなく瀬戸の家なのだから、羞恥が襲ってくる。

「言ってくれたら前みたいに迎えにも行くし」

「うう、ないようにします。ごめんなさい」

 瀬戸がまったく怒っていないのが、むしろ申し訳なさを助長した。自分にここまで情けない面があるとは知らなかった。しっかりした子ね、と言われて育ってきたので、自分自身そうだと思っていたが、瀬戸といるとぽろぽろとだめなところが露呈してしまう。

「甘えてばっかりや」

 もっと同じように返せていけたらよいのだが。特に最近、もらってばかりな気がする。

 ごろん、と仰向けになると、瀬戸がベッド脇に腕を置いて、上から顔を覗きこむようにしてきた。

「どこが?」

「どこがって」

 べろ、と唇を舐めるように舌でなぞられて、続きは言えなかった。わずかに開いた隙間から侵入され、突然の快感に瀬戸の襟元を掴む。真正面からではないためか普段とは異なる絡め方に、なす術がない。慣れてきたと感じていたのはとんだ思いこみだったらしい。

「じゃあ、もっと甘えて」

 飛紗は言葉を発する余裕がないのに、瀬戸は合間にそう言った。瀬戸の目に映る自分自身がゆらゆらと揺れていた。

「ぜんぜんたりない」

 溺れる。とっさに思い、目じりから生理的な涙がぽろりと一つ落ちた。手をやんわりと襟元からかすめとられ、握られる。込めていた力が行き場をなくし、爪を立ててしまうが、どうすることもできなかった。

 やがてやっと解放してくれた瀬戸が、額やら瞼やらに唇を落として、最後に落ちた涙を舐めとった。もはや何をされたのかわからない。呼吸を整えるだけで精一杯だ。いまは手を握っているだけなのに、しびれのように残った快感を拾い集めて、腰がびくりとはねた。

 瀬戸は満足したように握っているのとは逆の手で飛紗をなで、はあ、と溜息をつきながら笑った。恍惚の二文字が飛紗の頭によぎる。

「もっと甘やかしたいのを、加減しているだけです。私は」

 また唇を重ねられて体が緊張したが、今度はすぐ離された。ぶわぶわと背中から炭酸の泡が上っては弾けていく。息苦しいのに、心地よい。

 握られたままの手から力を抜き、さするようにする。離してはくれなかった。

「ごめん、爪立てて。痛いやろ」

「利き手じゃないし、問題ないですよ」

 言いながらベッドに上ってきて、ひょいと体を持ちあげられた。細身のどこにそんな力があるのか、単純に男女の差なのか、ぎょっとする。膝の上に座らされる形になって、恥ずかしい恰好が露わになるのをとめる間もなく、抱きしめられた。

 今日の瀬戸はなんだかおかしい。やはり昨日、何かしてしまったのだ。背中に手を回して頭を肩にうずめながら、必死になって思い出そうとする。断片的に映像が浮かびはするものの、はたして現実にあったのか夢なのかわからない。

「教えてあげましょうか」

 心を読まれて、ぎくりとする。体がこわばってしまったのでごまかすこともできず、うん、と頷くしかなかった。

「わからない、って泣いたんですよ、昨日。飛紗ちゃんが」

「わからない?」

「どこまで甘えていいのかわからない、って」

 なんてまぬけな主張だ。耳元でくすぐるように言われて、思わず赤面してしまう。自分でも知らないうちに潜在的に悩んでいたということだろうか。それにしたって、泣くほどのことか。酔っぱらいとはおそろしい。

「そんなことはね、考える必要なんかないんですよ。微々たるものなんだから」

 いつか言われた、「でろでろに甘やかしたい」という言葉が脳裏に浮かぶ。瀬戸の懐が改めて深いことを感じて、途方のなさに少しだけぞっとした。どこまでも受け入れてもらえるという安心感と、どこまでも受け入れられてしまう恐怖感。表裏一体だ。知り合ってすぐのころ感知して胡散くさく思っていた得体の知れなさに、久々に触れた。

「それともそういう風に泣かせたのは、私の伝え方が甘かったのかなと思って」

 上半身を離されて、頬をなでられる。あまりにやさしい目で見つめられたので、視線が泳いだ。酔っていた自分が何を口走ったのかは知らないが、瀬戸の気持ちを不安に思う要素などない。明らかな特別を、全身から受け取らざるをえない。

「あの、わかった、ごめん。大丈夫やから……」

 何が大丈夫なのか自分でもわからないまま、赤くなった顔を隠すようにして言う。しかしすぐに腕を掴まれて、表情を露わにされた。

「それに、最近あまりふたりきりになれなかったから」

 言われてみると確かに、互いの両親に挨拶をしたり、仕事が忙しかったりで、これまでに比べるとふたりでいた時間は短い。今日も(知らぬ間に)押しかけていなければ、まだ家で寝ていたかもしれない。

 腰を寄せられて、ついばむように口づけられる。もしかしてこれは、甘やかされているのではなく、甘えられているのだろうか。それとも素直に甘えるのが下手な飛紗のために、瀬戸が甘える風を装ってくれているのだろうか。わけがわからなくなってきた。

「さびしかったん?」

 先ほどより自由に動く唇で問うと、ちゅ、と音を立てて離れた瀬戸が、めずらしく眉根を寄せて考え始めた。

「さびしい、というか、独占欲ですかね。これが」

 自分で確認するように言って、ひとりで納得している。

 腰にあった手がそのままするりと下がる。驚いて反射的に瀬戸の手に手を重ねると、愉快そうに笑われた。いまの恰好を自覚しなおして慌てるが、力で敵うわけもなく、睨みつけるくらいしかできない。

「すけべ」

「そうね」

 しれっと返される。

「飛紗ちゃんのそういう表情を知っているのが私だけだと思うと、優越感に駆られてひどく欲情します」

 冷静に分析して告げられても困る。いったいどんな表情をしているのか、どういう風に見えているのか、こわくて聞けなかった。瀬戸がとにかくたのしそうな顔をしている。彼にとって感情とは、おもちゃみたいなものなのかもしれない、と思った。

「お腹すいたんやけど」

 前髪を寄せて、耳にかけられる。ひとつの合図である。言っても無駄だとわかっていながら、形だけでも抵抗せずにはいられない。実際空腹は感じていたので、これでご飯が食べられるなら、非常にうれしい。

 しかし予想どおり、あっさりと言い放たれた。

「あとで何かつくってあげるよ」

 それはありたがい、のだが。

 昨夜の自分がわからない分、従う気持ちのほうが大きくなっていく。瀬戸が言ったことは事実にしても、それ以外にも何かあったのではないかと勘繰ってしまう。

「だからもう少し、私に飛紗ちゃんを独占させてください」

 愛撫を中断した瀬戸が、飛紗の目をとらえて言った。独占欲、というのが腑に落ちたらしい。そんな言い方は卑怯だ。頷くしかないではないか。

 すき、と考えるより先に口からこぼれた。瀬戸は一つ二つ瞬いたあと、私もです、と飛紗の言葉を閉じこめるように、唇をふさいだ。

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