東京 その二

 飛紗の妹の桂凪と別れて、実家へと向かう。服や靴について何やら確認していたが、桂凪にお墨付きをもらったらしく、安堵した様子で改めて身だしなみを整えていた。父もそのパートナーの学も他人の服には無頓着なのでそこまで気にする必要はないと思うのだが、気持ちの問題だろう。

 飛紗が電車のなかでドアにもたれかかりながら、はあ、と溜息をついて手を握り、身を寄せてくる。指先がひんやりと冷えていたので、さするようにした。飛紗はもう一度細く長く息を吐いて、よし、と小さく呟く。

「不安や」

 まっすぐ前を向いて呟きとは逆のことを口にしたので、思わず笑ってしまう。電車内で騒ぐわけにはいかないので口を一文字に結ぶが、堪えれば堪えるほどおもしろくなってきて、腹筋が痛い。口元を押さえていても、ふふふ、と声が漏れた。飛紗が恥ずかしそうにしながら、じろりと睨んでくる。

「いや、いいと思います、素直で」

 飛紗の前髪を耳元に寄せるように触ると、まだ少しむっとしながらも、手を握りなおしてきた。指輪が当たる。

 これから長い付き合いが始まると思えば、飛紗の緊張はもっともだ。まだ瀬戸との距離感をどこまで人に見せても大丈夫なのか考えあぐねているようだし、東と西で方言が違えば文化も違う。飛紗自身の両親と顔を合わせて挨拶した際にも緊張していたのだから、瀬戸の両親となればさらにだろう。飛紗は飛びこめばつよいのだが、飛びこむまでが案外長い。

 休みの日を利用して来てくれているのに、ずっと気を遣わせるのも悪いと思い、宿泊は瀬戸の実家ではなくホテルだ。邪魔になるので一旦チェックインをして、荷物を置いておく。

 ホテルから家までの間、飛紗はぴったりと瀬戸にくっつくようにして離れなかった。たまに首を回して周りを観察していたが、学生時代に来たことがあるらしく物珍しさはなさそうだ。

 角を曲がったところです、と説明している途中で、後ろからそろりと誰かが近づいてくる気配がした。覚えがある空気に振り返ろうとすると、同時にわっ、とすぐ後ろから大声が聞こえて、驚いた飛紗が負けず劣らず大きな声を出した。ただでさえくっついているのを瀬戸の後ろに隠れるように移動する。握りしめられて手が痛い。混乱しているようだから、ほとんど無意識だろう。

「眞一お前、ほんとつまらんな。少しは驚くふりくらいしたらどうだ」

 不服そうに嘆息したこの男性こそ、瀬戸の父の晟一である。手にワインの袋を提げているから、買い物の帰りだろう。彼のパートナーの学はほとんど飲まないので、酒を買うときは一人で買いに行くのが常だ。

「しかし咄嗟に後ろに隠れるとは、頼りにされてるじゃないか」

「いや、無抵抗のときに驚けばだいたいそうするでしょう」

 表情に混乱を残しつつ、飛紗が瀬戸の手を離して大きく頭を下げる。写真は見せていたので、顔とやりとりでわかったのだろう。

「初めまして、鷹村飛紗です」

「初めまして、眞一の父の瀬戸晟一です。いい反応だった、ありがとう」

 うれしそうににこにことして、晟一も飛紗に頭を下げる。学にやれば呆れられるか叱られるかで、瀬戸は無反応なので、かまってもらえてうれしいのだ。

 そういえば心霊番組は苦手だと言っていたし、驚かされるのも苦手なのかもしれない。そうでなければ、飛紗のことだから密着していたところを見られた照れのほうが先にきそうだ。

「やっぱり美人だな」

 やっぱりとは何か。一人うんうんと頷きながら先を歩き始めた晟一に、飛紗とともに続くように足を進める。さすがにもう手はつないでこなかった。

「男しかいなくて悪いけど、楽にしてくれていいから。ゆっくりしていってください」

 振り返った晟一の言葉に、はい、と飛紗が愛想よく返事をする。混乱は収まったらしい。

 瀬戸は母親似なので、父の晟一とはあまり似ていない。背も父のほうが高く、体はどちらかといえばがっしりしている。愛嬌のある顔と、実際に愛嬌のある性格で、人を惹きつけるたちだ。いたずらがすきな、陽気な人である。

 母と別れる前にローンを組んで買った一軒家は、関西に出てからは瀬戸も帰るのが一年ぶりだが、何も変わっていなかった。ただいま、と大きな声を出した晟一に続いて、ただいま、と言っておく。飛紗はお邪魔します、と頭を下げた。

 室内にあるドアを開けて、学が顔を覗かせた。長い前髪をピンでとめている。

「……べっぴんさん」

「勝ったな」

 よくわからない会話だが、いつものことなので瀬戸は気にせず靴を脱いで飛紗にあがるよう促す。

 とりあえず奥に入って、四人で立ったまま改めて向き合う。飛紗がまた初めまして、と挨拶をした。挨拶のためか、学は無造作にまとめていた前髪のピンをとった。

「初めまして、菊地学です。俺のこと聞いてるって聞いたけど」

「あ、はい、晟一さんの恋人というか夫というか、とにかく事実婚やって」

「そう。ごめんね、嫁ぎ先がそんなんで。気持ち悪かったら別に俺とは今後会わなくてもいいですから」

 にこやかに言ってはいるが、愛想笑いである。瀬戸は学を紹介されたときを思い出した。あのときもこうやって、まず線を引かれたのだ。自衛というよりはもはや癖みたいなもので、学はああやって相手の懐を計ってしまう。学、と晟一の鋭い声が短く飛ぶが、学は意に介さずにこにことしている。

「気持ち悪い……? なんでですか?」

 理解できない、という表情で飛紗が言い放った。学のほうが面食らってしまって、笑みを忘れている。ぽかんとした空気に、晟一が大きな声で笑った。がしっと学の肩に腕を回したので、学の細身が勢いで揺れた。

「ごめんな、ひねくれているんだこいつは。実際は俺よりたのしみにしていたくらいだから水に流してやってくれ」

「なに、たのしみにするよそりゃ、眞一が彼女連れてくるなんて初めてじゃん……」

 照れながらも、ぼそぼそと言い訳をするように学が呟く。飛紗は初めて、という部分に反応したらしく、無言ではあったが目をぱちぱちとさせながら瀬戸を見た。小さく頷くと、うれしさをごまかすように唇を合わせている。

 恋愛ごとに疎く、瀬戸以外の男性をまったく知らない飛紗は、瀬戸が飛紗とのことで何か初体験があると、非常によろこぶ。どれほど経験豊富と思われているのか。からかいたくなって、唇を耳元に寄せた。

「彼女、という言い方をするなら、最初で最後ですね」

 かあ、と赤くなった飛紗を見て、晟一と学に何を言ったのかと詰め寄られる。それには答えず、飛紗が持ってきた手土産を渡した。先日鷹村家に挨拶に行った際に出されたアーモンドのキャラメル菓子である。

 椅子はないので、カーペットに直接座って、テーブルを囲う。学がめったに買ってこない高い紅茶を淹れてくれた。時間がもう少しはやければ、ケーキをつくりたかったに違いない。お茶菓子として、代わりにごまのメレンゲクッキーが出された。瀬戸家としては定番のお菓子だ。手軽なので学がよくつくる。「五〇が近くなっても、お菓子づくりだけは飽きない」らしい。

 一口食べておいしい、と飛紗が呟くと、学は気をよくして、皿を寄せるようにした。

「学、わかりやすくてかわいいだろう。いつまで経っても子犬みたいな奴なんだよ」

「うるっさいな。おっさん捕まえて子犬とか言うの、晟一さんくらいだから」

 やいのやいのと目の前でのろける二人を見て、飛紗が困ったように視線を寄越した。とめても馬に蹴られるだけなので、足崩したら? とまったく関係ない言葉を投げかける。御そうとすれば疲れるだけだ。残念ながら、飛紗にも慣れてもらうしかない。

 学に、ねえ、と突然話題を振られて、飛紗がびくりと背筋を伸ばす。

「飛紗さんだと呼びづらいから、飛紗ちゃんでいい?」

「あ、俺も」

 瀬戸が飛紗の呼び方を変えたときとまったく同じ言い方だ。飛紗が思わずふ、と息を吐くように笑い、ふふふ、と口元を押さえたまま笑い続けた。なになに、と不思議そうにしている二人と違い、笑みの意味がわかる瀬戸としては居心地が悪い。手を軽くたたくようにすると、「ごめんなさい、どうぞ」と頷きつつ、まだ笑いをやめられずにいる。

 なぜか学がにやにやとして瀬戸を見た。

「笑い方、眞一にそっくり。だいぶ一緒にいるんだね」

「結婚してもっと一緒にいたいと思うくらいには」

 揶揄したくて仕方がないようだが、しれっと返す。案の定、隣の飛紗のほうが顔を赤くし始めた。

「お前、親の前なんだからもっと恥ずかしがってもいいんだぞ?」

「それを親に言われてもねえ」

「わかってたけど、ぜんぜんおもしろくない。眞一のどこがよかったの?」

 矛先を変えられて、飛紗が恥ずかしそうに前髪を触った。想定していた質問でもいざとなると照れるのか、それとも先ほどの照れを引きずっているのか、二人が興味深そうに耳を傾けているので、なおさら言いにくそうにしている。

 よく考えれば、どこがというのは改めて聞いたことがない。確かめる必要がないので気にしたことはなかったが、こういう機会がなければもう尋ねることもないだろうと思い、瀬戸も黙って答えを待つことにした。

 えー、とかあー、とか言っていた飛紗が、目線を落としたまま、こくりと咽喉を上下させる。

「あの、なんていうか、気づいたらまるごとすきやったんで、どこがよかったっていうか、あの、眞一さん、が、すきです」

 誰もすぐには反応できず、沈黙が降りた。飛紗はいっぱいいっぱいなのか、うつむいたまま気づいていないようだが、さすがの瀬戸も恥ずかしさでかすかに頬を赤くしてしまう。

 強烈な告白だ。瀬戸も似たようなことを思っているから結局のところ相思相愛にしても、思うのと言われるのとではまったく異なる。

「……恋!」

 学が突然叫んだ。びくりと飛紗が肩を震わし、反動で顔を上げる。

「ああー、そんなん言われたらたまらんじゃん。恋じゃん。久しく覚えがないきゅんとする思い出じゃん……」

「うっそ、俺まだお前に常日頃からきゅんきゅんしてるよ?」

「うるさいな俺もだよ」

「人への言葉とるのやめてくれません?」

 隙あらばいちゃつく二人に横から口を挟めば、飛紗がまたおかしそうに笑った。そんな飛紗を見て、二人が同時に紅茶を飲む。晟一がまるで酒をあおったときのように、はあー、と声とともに息を吐いた。

「こんなかわいい子が俺の娘になるなんて、眞一、よくやった」

 そういう風に言われると、悪い気はしない。常日頃から何やかんやと褒めてくれる父親であり、瀬戸が三十路を超えてもそれは変わらなかった。この楽観的な物言いが母とは摩擦が生じたようだが、学とはそこがうまくいっている。

「あの、眞一さんって、どんな子どもやったんですか」

 好奇心を押さえきれない様子で飛紗が聞く。関西弁かわいい、別に俺たちの前でも眞一のこといつもどおりの呼び方していいよ、などやいやい言いながら、学が後ろの棚から冊子を取りだした。

「それはね、ふふふ、ここにアルバムがあります」

 頼んでいないのに用意周到なことだ。来る前から見たがっていた飛紗は当然よろこび、カップとお菓子を晟一がさっさと端に寄せて、アルバムをテーブルに広げる。

 幼いころは、実のところあまり残っていない。次男以降の宿命らしく、そもそもの枚数が少ないのだ。そのうえ、別れるときに一部を母親が持っていったらしい。そんなことをするタイプには思えないが、実際いくつかのページで空白があるから、本当なのだろう。

「このひとがお母さん?」

 飛紗がくるりと振り返って、瀬戸に尋ねる。改めて覗いてみると、確かに若かりしころの母だったので、そうですね、と頷く。長い髪を一つに束ねていて、幼いころの記憶のままだ。

「似とるね、美人さんや。それに髪が染めとらんから真黒」

「顔は母親に似たんだが、そこは俺に似たんだよな」

 普段アルバムなど開かないせいか、懐かしそうに晟一が言った。いまも晟一は髪を染めずとも真黒だ。そして量も六〇近いとは思えず、晟一が若く見られがちな要因である。男としては、家系的にはげる心配がなさそうなのはありがたい。

 高校生あたりから、それまでに比べると突然写真が増える。学が一緒に暮らし始めてからだ。カメラが趣味なのだ。技術的にうまくなるつもりはなく、記録を残すのがすきらしい。

 写真を眺めながら、飛紗が学と盛りあがっている。童顔なので髪の色以外はほとんど大きな変化がないのだが、かまわないようだ。学が話す一つひとつに目をきらきらさせて明るく反応しているのを見て、首をかく。

「眞一が結婚することになるとは思わなかった」

 アルバムをめくりながら、学が言った。晟一は何も言わないものの、小さく頷くようにしている。

「たぶん本人も思ってなかったと思う」

 目の前に瀬戸がいるのに、まるでいないかのように続けた。気持ちはひとりごとに近いのかもしれない。

「眞一はなんでも受け入れるけど、なんでも拒否してる奴だから、大切なひとをたったひとり自分で選んだというのがすごくうれしい、俺は。それで、飛紗ちゃんも眞一を選んだっていうのが、奇跡みたいなことだと思う」

 飛紗が居住まいを正して、黙って耳を傾けている。奇跡などではなく、飛紗が諦めないでいてくれた結果だ。学を見つめる横顔を眺めながら、変化した自身の心情を思い返す。すくわれたとか、欠けていたものがはまるような運命的な感覚はなかった。落ちるというより、穴があることを確認したうえで、自らの意思でなかに降りていったようなものだ。

「俺が晟一さんより先に言うのはおかしいかもしれないけど、眞一のこと、よろしくお願いします」

 二人が頭を下げあっているところで、晟一と目が合った。学を伴侶に選んだことに対する自慢が表情からにじみ出ている。臆面もせずのろけるのは親譲りだな、と小さく息を吐いた。

 そのあとは結納の日取りを決めて、夕飯は別で食べることにした。飛紗が疲れているようなので一息つきたい。東京に着いてすぐ、立て続けに人に会ったのだから、緊張と疲労は当たり前だ。

「父が、お二人そろってぜひ来てください、と」

 飛紗が伝えると、行ってもよいとは考えていなかったらしい学が、そっかあ、とゆっくりもらすように呟いた。これは帰ったあと泣くな。簡単に予想がつく。

 どこか言うだけでふわふわとしていた「結婚」が、いよいよ現実味を帯びてきた。もちろん生活が始まるのはそこからなのだが、挨拶を終えてほっとしている飛紗を見ると、なんだかたのしみになってくる。

 ホテルまでの道のり、飛紗が行きと同じように身を寄せてきたので、握った手をそのまま上着のポケットに入れた。

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