上司

 悩んだ末に指輪をしたまま帰り、指輪をしたまま出勤したら、案の定家も職場も大騒ぎだった。母は嬉々として詳細を聞いてきて、答えた端からすべて父に横流ししていた。瀬戸の人となりをすでに知っている弟はどんな顔をすればよいのかまだ図りかねているようだったが、それでも五指の先を両手ともそれぞれくっつけて、上に動かしながらぱっと開いてくれた。花火のようだと思い、実際「花火」なら左右交互に同じような動きをするから、発想としてはおかしくないなと、記憶を反復する。

 職場に関しては、大騒ぎしたのは具体的に尾野と千葉だったが、それでも周り、特に大多数を占める女性陣が二人に引きずられるように口々に「おめでとう」をさえずり、そのままブライダルの際に売り出す服について話題が移っていった。小物は絶対にセットにしておくべきとか、それなら合わせた値段がいくらに収まったほうがよいとか。上司がぬるっとやってきて、ぼそりと「おめでとう」の一言を耳元でこぼしたときにはびくりとしたが、飛紗がありがとうございます、を言いきる前にコーヒーを片手に立ち去ってしまった。いつも神出鬼没な上司ではあるが、さすがに驚いて耳に触れる。最近気づいたことだが、いい声がすきなようだ。上司の声は低く、こもりがちである。その点、瀬戸の声は耳に浸透するようで、ささやかれなどするとよわい。あるいは瀬戸の声を軸に好みが形成されてしまったのかもしれない。

「やっぱり落ちこんどるね」

「いやあ、やけどあとから一対一で報告受けるよりましやろ」

 尾野と千葉が手元は仕事を進めながら、口では雑談を交わす。何の話だろうか。なぜか瀬戸がもっと自覚を持て、と耳にタコなくらい言ってくるのをここで思い出す。

「……えっ」

 導き出された答えに二人を見れば、顔を見合わせてため息をつかれた。自意識過剰ではないらしい反応に、飛紗の手がとまってしまう。距離のある席に座っている上司には会話は聞こえないだろうけれど、動きは丸見えだ。適度にさぼるのが得意な二人を見習って、まるで相談をしているようにカタログを広げる。

「露骨やったやろ」

「あたしもここ入ってすぐ気づいた」

「そんなん言われても」

 上司、もとい茂木は入社してからずっと直属の上司で、飛紗と尾野の教育係でもあった。癖っ毛にねむそうな目で、ぱっと見あまりアパレル系の印象はないが、どんなに忙しくともいつもきちんとアイロンのかかった服を着ている。たまに気配なく席に現れては飴などをくれていた。

「鷹村さんの恋愛シャットアウト具合ってすごいやんね。てっきり彼氏おるから職場の男性には興味なし、って意味でああいうさばさばした態度なんやと思っとった」

「媚びへんからなあ」

 どういう意味だろうか。カタログに書かれた「さり気なさで女性らしさをアピール」という文言が迫ってくるようだ。爪は磨いているし、髪は手入れをしているし、ムダ毛も季節を問わず処理をしていて、化粧や服装にも気を遣っている。しかし中高一貫の女子校時代、そういう女の子は他にもたくさんいた。そのなかで、もてる子というのは限られていて、飛紗は特にうらやましくもなかったので横目で感心しているばかりだったが、思えばどの子も、色気があった。

 怪訝な顔をしている飛紗に気づいた尾野が、目線はディスプレイに向けたまま答える。

「男っぽくはないけど、女アピールがないいうかな。たとえば重い荷物持っとって、同じ方向向かう男がおっても頼らんやろ? 頼っても私女やから、男のあなた持ってお願い、って感じやなくて、ほんまに重くてキャパオーバーやから落とす前に手伝って、って感じ」

「そうそう。まったく意識しとらんのが傍目で伝わってくるいうかね。たぶんいま、鷹村さんが女を全面に出してたすけてー、って言うたら、これまでとのギャップに俺が俺がになると思うわ」

「よく言えば分け隔てなくて気持ちええけど、悪く言えばかわいげがない」

 かわいげ。意識したことはなかったが、そうやって言われるとなんだかショックだ。色気と通じるところがある。確かにそれは、飛紗にとってたりないものであるように感じた。

「まあそういう女って、よっぽどうまくやらんと女にはきらわれるけどね」

「男はあほやから、ある程度わかっとっても進んで騙されにいくけどな」

 どうしろというのか。学生時代は力仕事だろうと何だろうと自分たちでやらなければ仕方がなかったし、むしろ男性教師などは立場がなかった。何事もバランスなのかもしれないが、そのバランスを感覚的に掴めないのだ。結局人それぞれで、深く考えても意味がない問題のような気がする。

「やからこそ、そんな鷹村がどんな奴をすきになったんか、めっちゃ気になる」

「どうやって鷹村さんを落としたんかも気になる」

 広げていたカタログを閉じて、元の位置へと戻す。期待の目を向けてきた二人とは逆に、ディスプレイに向きなおって仕事を進めた。あからさまに不服そうな表情をされたが気にしない。

 左手の薬指に光る金の指輪に、親指で触れる。先に意識したのも、すきになったのも、飛紗が先だ。間違いないと思う。そもそももしかすると、瀬戸の好みは本来年上だったりするかもしれない。

 視線を感じて顔を上げると、茂木と目が合った。企画書、と口の動きだけで言われて、慌てて今日提出の書類を持っていく。



 退社時間が茂木と重なり、駅まで横になって歩く。職務中、茂木の態度がいつもと変わらなかったので若干忘れていたが、こうして仕事から離れると思い出してしまい、気まずさがある。いや本人に言われたわけではなし、と深く考えないことにして、人混みのなかを進む。二人で帰るのはたまにあることだ。路線は違うが電車は同じなので、飲み会のあとなどは必ず一緒だった。特別、と言ってコーヒーを奢ってもらったこともある。あ、だから、尾野が言っていた露骨とはそれか。初めて意識して、飛紗は自分の鈍さに嘆息しそうになった。単にコーヒーずきな茂木が寄りたかっただけかと思っていた。瀬戸が心配するのも当然だ。

 飛紗は女としては身長があるほうだが、茂木はさらに背が高い。並んでも肩がそろわないことが、少しだけ落ちつかなかった。弟はもっと背が高いのでめずらしさはないはずであるのに、すでに隣にいるのは瀬戸であることが当たり前になっているのだと実感する。

「いつごろを予定しとるん?」

 自分でもあきれるくらい、なんでもかんでも瀬戸につなげて考えているな、と思考の整理をしようとしたら、まさにど真ん中を問われて動揺する。

「いや、具体的な日程までは、まだ。でもなるべく仕事の落ちついとるときにします」

 答えつつ、いつやそれ、と自問する。よく考えずともこちらで式を挙げる気になっていたが、瀬戸の親類は関東に固まっているのだから、もしかして東京で挙げたほうがよいのだろうか。

「俺、呼ばれるんかなあ、それ」

 いつもとまったく同じ調子で、前を向いたまま言われる。そんな茂木を見ていたら前方からの人にぶつかり、よろけたところを茂木に助けられた。タイトスカートにハイヒールなので、腰の支えがなければこけるところだった。すみません、と飛紗が謝っているうちにぱっと腕をどけられ、セクハラで訴えんといてね、と淡々と言われる。以前、千葉に恋人はキスがうまいか、と聞かれた道であることに気づいた。

「結婚式、苦手ですか」

「ううん。ウエディングドレスは見るんすきやし、着飾った女性を見るんもたのしいから、わりとすきやな。男はスーツでええからって気ぃ抜いとってあかんな」

 尾野も似たようなことを言っていた。疲れているときは男性のほうが楽そうだな、と思う。とりあえずネクタイしてジャケット着ておけば、の「とりあえず」が、女のほうがハードルが高い気がする。一度着たパーティドレスは連続して着ると前もそれだったね、などと言われる。

「まだ何も決まってませんから、わかり次第お伝えします。えーと、業務上ご迷惑はおかけしないように気をつけるので」

「うん……」

 ぼんやりとした返事にどうしたものかわからなくなるが、普段と大差ないといえばないので、なおさら困ってしまう。無意識に指輪をいじっていることに気がついて、肩にかけている鞄を持ちなおした。

 一日つけっぱなしにしていた指輪は、何度見ても飽きず、思い出しては照れてしまう。これまでしてこなかった分、違和を感じるかと思っていたが、そんなことはまったくなかった。浮かれているのも一因だろう。ただ、ぶつけたら、傷つけたらと思うとはらはらしたので、明日からはチェーンにでも通して首にかけることにする。

 まさか誰かに思いを寄せられているなどこれまで考えてこなかっただけに、なんだか疲れてしまった。気分転換に、道なりにある書店ではなく、大きな書店でぶらぶらしようと思いつき、改札を通ろうとした茂木に別れを告げると、

「ほんなら、俺も行く」

 と言われて、二人で改札前の長い階段を下りる。気分転換は呆気なく失敗した。待ち合わせの定番スポットなので、平日の今日も人でごった返している。かき分けるようにして目的の店に入った。入り口が二つあるが、いつもの癖で雑誌が並んでいる側からだ。八時半を過ぎているので、そんなに混んでいなかった。七時台などは、大勢の女性客がファッション雑誌の前から離れず、近くにレジに並んでいる人もいて奥に入るだけで一苦労だ。

 入ってすぐのところに結婚情報誌が置いてあったが、目もくれず通りすぎる。ファッション雑誌を吟味するには茂木が邪魔だ。これなら反対側の入り口から入って、新刊台を見ておけばよかった、と思いながらも、店の奥に進む。

 メイク本も見たかったが、やはり茂木が邪魔で、残念ながら通りすぎる。ついてきた目的は何なのか、はっきりしてほしい。そう思いながら振り返ると、手にちゃっかり漫画雑誌を持っていた。今日発売の週刊誌だ。弟が買うので、飛紗も読んでいる。おそらく、帰ったらあるだろう。

「読んでるんですね、それ」

「やめどきがわからんくて」

 それは弟も言っていた。買ってきた弟が読み、飛紗が読み、父母が読み、そのまま母が勤める整体院に置かれるので、もういいかなと思いつつも、つい買ってしまうらしい。尾野や弟など、茂木は飛紗の知っている男性を少しずつ混ぜたような感じだなあ、と思う。マイペースさでは間違いなく、男女関係なく知人のなかで断トツだが。

 目的がないので上司を連れ回す形になっていて、どうしたものか、文庫本のあたりをうろうろとしながら、立ち去るタイミングを逃し続ける。

「小説読むんや」

「はい、通勤中とか。茂木さん、何かおすすめあります?」

「いや、俺は小説はほとんど読まんから。ねむくなってもうて」

 まあ、そんなものだろう。飛紗が表紙を眺める横で、本など見ずに立っているところからも察せる。

 そういえば、瀬戸と再会したのはこの書店だった。会社帰り、やはり気分転換に立ち寄って、本を一冊選んでいるところだった。いまと違って、鷹村さん、と声をかけられた。少しの間誰なのかわからなかったが、困ったような笑い方で瀬戸だと思い当たった途端、失礼がないようにととりあえず貼りつけた愛想笑いをさっさと崩してしまったのだ。そして、買おうとした本にケチをつけられた。何かを言われたわけではないのだが、それにするんですか、と含みのある言い方をされたので、むしろ腹が立ってそのまま勢いで買った。そして失敗した。思えば相手が目上であるがゆえの壁を早々に、それも自ら壊していた気がする。

 それからなぜか図ったように何度もばったり会うようになり、最寄り駅が同じとわかり、たまに夕飯を食べるようになって、いまに至る。まったく何が起こるかわからない。

 そうだ、あの日は入社して以来の大きなミスをして、きつく叱られたのだ。茂木は注意のみでなぐさめてくれたが、情けなかった気持ちを思い出す。

 右手で指輪を覆うようにする。いくら浮かれていても、すべてのことを解決してくれるわけでは当然ないのだ。だいいち、指輪をしていたからこの事態を招いたのかもしれない。けれどこうしてきちんと自分のもとにあることを確認すると、少しだけ気持ちが楽になった。

 今日はもういいか、と顔を上げてふと横を見ると、瀬戸らしき人物がもう一本向こうの道を通りすぎていった。仕事帰りにわざわざ大阪まで出てくるだろうかと思いながら、確かめずにはいられない。なぜって、かつてこの場所で再会したのだから。

「あの、ちょっとすみません」

 茂木に一言断りを入れて、あとを追う。髪型が似ているだけかもしれないが、見間違いでも別によかった。瀬戸かも、と思っただけで視界が開いた感覚がして、その気持ちだけで満足できる。ちらりと目線を本に向ければ、歴史学の棚だった。ますます胸が高鳴って、一昨日泊まったから昨日も一緒だったのに、と自分自身の浮かれ具合に苦笑する。

「せ、違う、眞一」

 棚を曲がって確認するまで我慢できず、思わず声をあげた。タイトスカートもハイヒールも、急げるようにはできていない。

 顔を出せばはたして、瀬戸がいた。相好が崩れる。今日はヒールが高めなので、瀬戸よりも目線が高い。

「眞一」

「飛紗ちゃん」

 手でもとりたかったが、瀬戸は別の書店の袋を提げているうえ、かごを手にしていたのでやめておく。乱雑に本がつっこまれていた。こういうのを知っていると、むしろリビングとダイニングはよくきれいに保てているなと感心する。

「どうしたん? 今日こっちに用事あったん?」

 声が弾んでいるのが、自分でもわかる。さっきまでの疲労感や倦怠感がすっかり飛んで、本屋に寄ってよかった、と思った。

「出張と、久々に大型書店のはしごをしようかと思い立って。今日は最近にしてははやいんですね。すれ違うところだった」

 時計をしていない瀬戸はポケットに仕舞っていたスマートフォンで時間を確認し、言った。口ぶりから連絡をしようとしてくれていたのがわかって、さらに頬が緩む。

 あ、と瀬戸の口から声が漏れ出た。

「今日してくれたんですね、指輪。うれしい」

 かごを持っているのとは反対の手で、左手をとられる。かあ、と思わず照れた。ごまかすように話題を変える。

「そういう買い方できるんええなあ。棚に収まる分て決めとるから、一気にたくさんは買えんのよね」

 増やせばその分、何かを減らさなければいけない。瀬戸のあの部屋ではもはや棚など関係ないのかもしれないが(商売道具もたくさんあるだろうし)、まずその収納の仕方でも気にならないのがうらやましい。

 かごのなかには歴史学の本や、新書や文庫が入っていたが、そのなかに大版の本があり、覗いてみれば手話の本だった。

「これ、買うん? 貸すで?」

「ん? ああ。いいんです、自分のお金で手に入れたほうが身につくので。でも独学じゃ限界があるだろうから、そのときは教えてください」

「ふふ、そしたら前と立場が逆やね」

 きちんと飛紗の家族と長く付き合おうとしてくれているのが、これだけでも伝わってくる。瀬戸ならすぐに問題なく使えるようになれそうだけれど、使い続けていなければやはり抜けていくから、難しい。特に弟は先天的に耳が聞こえない人と同じ、手話独自の文法で覚えることにこだわったので、まずそこからだ。

 一緒に帰ろう、と言いかけて、茂木の存在を忘れていたことに気づく。来た道を見れば、すでに会計を終えたらしい茂木が袋を提げて漫画の棚に立っていた。

「ごめん、上司と一緒やったん忘れとった。挨拶だけしてくるから、待っとって。待っとってよ」

「はいはい。レジに並んでますから。飛紗ちゃん置いて先に帰りませんよ」

 ぽん、と頭をなでられる。会う約束をしていなかった、連絡もしていなかったところで偶然出会えるとこんなにうれしいのか。付き合う前は連絡先も知らなかったから、会うというと偶然しかなかったはずなのに、もう忘れている。

 今日は高めのヒールはやめておけばよかった、と思いながら、茂木のもとへ向かう。やはりさすがの瀬戸も、自分のほうが目線が低いとプライドが刺激されるのではないかと、飛紗の勝手な邪推ではあるのだが。それに、どうせならかわいいと思われたい。幼いころから常に背の順でいちばん後ろだったので、小さい女の子、に憧れがある。女子校だったので中高ではなかったが、小学生のときには男子にからかわれたものだ。それに、かわいげ、というものにもつながっている気がする。

「茂木さん。すみませんお待たせして」

「いや。あのひとが婚約者?」

 やはり見られていたのか。これだけ場を外していれば当然だ。彼氏、恋人、瀬戸のところの学生が質問で使った奥さんと、今度は婚約者。順序はともかく、目まぐるしく変わる呼び方に頬を染める以外のことができない。

「鷹村のあんな顔、初めて見た」

 レジに並んでいる瀬戸のほうを覗き見ようと、体を傾ける茂木に、慌てて前方をふさぐ。身長差を考えると意味はそんなになかったが、気持ちの問題だ。

「だからズームで写真撮って、尾野に送っておいた」

 はい、とライン画面を見せられて、ちょっと、と反射的に叫んでしまう。確かにそこには表情を緩ませた様子の飛紗が映っていて、消そうとするが、消したところですでに既読の文字が刻まれている。尾野に渡ったということは、千葉にも渡る。絶対に渡る。

「なんで撮って、ちょっ……消してください」

「それは聞けへんお願いや」

 さっとスマートフォンを鞄のなかに仕舞われて、手も足も出なくなる。千葉からまた社内に広がると思うと、頭を抱えたい。いまのうちに他の誰にも回さないよう千葉に根回ししておくか、いや万が一尾野が千葉に何も言わなければ、根回しが裏目に出る。

 飛紗が唸っていると、うっすらと口角を持ちあげながら、茂木が言った。

「……ごめんな、今日は。また明日、会社でな」

 えっ、と目で追いかけたときには茂木は背中姿で、失礼します、と大きな声を出すことしかできなかった。

 あの写真は、見事に瀬戸の顔が映らないように撮られてあった。

 好意に無頓着だと、こういうことになる。しかし申し訳ないと思うのも違う気がして、前髪をかきあげた。どうするのが正解だったのか、人の感情に正解も不正解もないのだろうけれど、もうひとさじ、うまくやれたのではないか。

「あのひと、飛紗ちゃんのことすきでしょう」

 後ろからの声に、素直に驚く。会計を終えたらしい瀬戸が立っていた。袋が増えていないので首を傾げると、五千円以上は無料配送してくれるのだと教えてくれた。使ったことがないので忘れていたが、確かにそういうサービスがあった。

「なんで?」

 どきりとした気持ちで問えば、目が違います、と言われた。

「あと声が明らかに落ちこんでいたし、態度でわかります。その質問をするということは、飛紗ちゃんも思い当たるところがあるんでしょう?」

「思い当たるというか」

「もっと当てましょうか。今日指輪をしていったことで会社で騒がれ、上司のことを同僚に指摘されてこれまでのことを考え、初めて気づいたでしょう」

 あまりにもそのとおりすぎて、ぐうの音も出ない。瀬戸は笑ってはいるが、心なしか責めるような光を双眸に宿している。短く溜息をつかれた。びくりとしたが、何も言われなかった。帰りましょう、と手を握られたくらいだ。

「飛紗ちゃんがあの人ではなく、私を選んでくれてよかった」

 来たときとは別の、店の奥にある出入り口から書店を出て、駅の改札へと向かう。この道はいつも人が少ない。

「ほんとうですよ」

 それは、知らぬ間にこれほど、すきになってしまったから。

 好意を向けられるよりはやく、好意がわき出てしまったから。

「眞一こそ、わたしを選んでくれて、……ありがとう」

 公共の場なので、手を握ったまま体を寄せるくらいのことしかできない。今日は家で夕飯を食べると母に言ってしまっているからまっすぐ帰らないといけないし、全身で感情を表現できなくてもどかしい。

 まだ月曜日だというのに気がはやいが、週末が待ち遠しかった。

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