指輪
さすがに持て余す。瀬戸は手の平に収まる群青色の箱を握ったりつまんだりしながら、反対の手で首をかく。受け取ってもらえるとわかっているだけ気持ちは楽だ。普段は目もくれないアクセサリー売り場に行くのも、飛紗を思って選ぶのも恥ずかしくはなかったが、らしくないことをしている自覚はあった。高校や大学で、恋人と揃いの指輪を買ってつけている同級生がいたが、あれはどういう心境なのだろう。ほんとうに添い遂げたカップルがどれだけいるのか、いや、そういう問題ではないのはわかっているものの、別れたとき目にして不快感を覚える思い出ナンバーワンではないのか。不思議なのは、新たな恋人ができたときにまた同じようにペアリングをしている男女だ。学習しないのか。いやだから、そういう問題ではないのだろうけれど。
かつての恋人にねだられ、丁重に断ったらふられたことを思い出す。お互い見る目がなかった、としか言いようがない。お金で愛を測る傾向にあった彼女は、見事玉の輿に乗り、あっぱれと感心したものだ。いまでも付き合いがあり、どんなにいらないと言ってもやたらと高そうなケーキや肉がお中元やお歳暮で毎年届く。しあわせそうで何よりである。これまで甘味だった場合は兄夫婦に包装もそのまま開けもせず送っていたが、今年は飛紗にあげてもいいかもしれない。
思考がずれた。つまり、指輪を贈るなんて初めてのことだった。
定番、と書かれた婚約指輪があまりにもありすぎて、何が定番なのだかさっぱりわからなかったが、そういった知識はどうせ飛紗に敵うはずがないのだから、似合いそうなもの、を懐具合と相談して決めた。宝石があまりにも目立っているものや(それとも目立っているのがよいのだろうか)、立て爪の指輪は最初に候補から除外した。普段どこでつけるものなのか知らないが、働いている飛紗に、そしてこれからも働きたいだろう飛紗に合わない気がしたためだ。仕事中はつけないにせよ。だいたい日本人は昔から謙虚な姿勢が美徳だと相場は決まっている。
それで、これはどういうタイミングで渡すものなのか。夜景のきれいなレストランだか展望台だかでほんとうに世の男性は渡しているのか。一周回って、飛紗がよろこぶのかどうかもわからなくなってきた。
悩むのはうまくやりたいと考えているからだ。世間一般に気障と言われそうなことを平気でできるほうだと思う。求められていることも、なんとなくわかる。しかしそれは失敗しようと別にかまわない、もしくは失敗しないと確信しているからであって、力が入れば入るほど視野は狭くなる。
飛紗に理想があるのなら、なるべくそれに沿った渡し方をしたいと思う。夜景のきれいなレストランだろうが展望台だろうが、ケーキのなかに指輪を隠しておいて渡す方法でもかまわない。まあ、理想があるにせよないにせよ、後者は違うことだけはわかる。むしろやると怒られそうだ。
プロポーズはもうしている。求婚と指輪を同時にする文化が存在している以上、順序として遅すぎるくらいだ。飛紗は待っている、ようには見えないが、もうないものだと思いこんでいる可能性はある。自分自身のことは諦めるのが得意であるから。
深く考えてドツボにはまり、これ以上時間が経つのは得策ではない。決意がかたまったところで顔を上げると、ちょうど風呂からあがった飛紗が部屋に入ってきた。飛紗が実家に住んでいる手前、そう頻繁に泊まるわけではないが、それでも月に一、二回は泊まるようになった。あまり連れこんでいると解釈されても心証が悪い。何せ家自体は近いのだし。
「飛紗ちゃん、こっち座って」
もはや勝手知ったる様子で水を飲んでいるところを呼び寄せた。別にいいと言っているのに飛紗は必ず瀬戸のあとに入り、洗面台をきれいにしてから出てくる。
惚れた欲目であるけれど、ちょこん、と瀬戸の前に正座した飛紗は、小動物が「待て」をしているような愛らしさがあって、よく恋愛に無頓着でここまでこれたな、といっそ感心してしまう。だからこそ瀬戸が興味を持ったところもあるのだけれど。
「手、貸して」
右手を出されて、逆、と伝える。右利きなのだから、右手を出すのは当たり前だった。途端、あっ、という顔でおずおずと左手を差し出した飛紗に、悪戯心が湧いて、手の甲に口づけた。反射的に引っこめようとしたところを掴んで離さない。期待と羞恥で目が揺らめいている。舐めたい、と思ったが堪えて、薬指をなでた。
「はめてもいいですか」
「……瀬戸のそういうん、卑怯や」
よくわかっていらっしゃる。
きっとシチュエーションはなんでもよかったのだな、と思った。こんな顔をしてくれるのなら、もっとはやく準備すればよかった。腕も脚も真っ赤なのは、風呂上りのせいだけではないだろう。肌がもともと白いので、赤くなるとすぐにわかる。
片手で箱を開いて、なかに入っていた指輪をそっと飛紗の左手薬指にはめる。三種類のゴールドが重なっている指輪だ。宝石がついていなくて申し訳ないが、瀬戸の想像どおり、細い飛紗の指によく似合っていた。自己満足とわかっていても自慢したいような気持ちになる。満足だ。
「うん。やっぱり銀より、金ですね」
部屋の電気でも、反射すると映えて見えた。指輪の内側にはメッセージではなくブランド名が彫ってある。
「遅くなったうえ、相場よりぐっと安くてすみません。調べてみたら婚約指輪って平均三三万みたいで驚きました。でも似合うものをと思って選んだつもりなので……」
「めずらしく言い訳が多いやん」
言われて、顔を上げる。堪えきれずに笑っている飛紗がいて、バツが悪い。そのとおりだ。もっと何かできただろうかとか、一緒に選びに行ったほうがよかっただろうかとか、柄にもなく考えこんでしまってずっと落ちつかなかった。
そんな瀬戸の心情を見透かしているらしく、飛紗がふふふ、と声を噛みしめながら笑い続ける。遠慮がちにうつむいてはいるもののとまらないようで、しばらく肩を震わせていたが、やがてはあ、と息を吐いて目線を瀬戸に向けた。飛紗の手を掴んでいた瀬戸の手を握り、自身の頬へと持っていく。
「ありがとう、うれしい」
お風呂上りで温かな飛紗の手と頬に包まれて、今度は瀬戸が照れる番だった。そういうことをいったいどこで覚えてくるのか。
「よろこんでもらえたなら、私もうれしい」
口づければ、くすぐったそうに身をよじらせた。家で渡す利点はここだな、と思う。夜景の見えるなんとかでは人目が気になって到底できない。そもそもうっかり人に見られでもしたら職業的にも芳しくない。
「きれい」
指輪をまじまじと眺めながら、飛紗が言う。そういえば指輪をしているところを見たのは初めてだ。誰かに目撃されれば、他の男たちへの牽制になるのだが。
(ああ、ペアリングの利点はそれか)
いまになって合点がいく。恋人がいます、と口にするのは憚られても、左手薬指に指輪がはまっていれば恋人がいるものだと周りが勝手に認識する。愚かな過ちを繰り返すわけだ。他の男たちに牽制したいなんて思ったこともなかったから、気がつかなかった。
しかし飛紗の場合はどうも、指輪などはしていないがおそらく恋人くらいいるだろう、と邪推されてここまできたようなので、あまり関係ない気もするが。
「これやと普段もしてても大丈夫かも。あっでも、左手薬指でこんな立派な指輪やと、見せびらかしとるみたいかな。ていうか指のサイズなんてわたしも知らんのに、どうやってわかったん?」
急に勢いよくしゃべり始める。感動から実感に変わってきて、あれもこれも言いたくて仕方がないらしい。歓喜が声音だけではなく全身から伝わってくるので、頬が緩むのを感じた。
寝ていたところを測りました、と答えれば、ぜんぜん気づかんかった、とはしゃぐ。飛紗の反応に、瀬戸も浮足立っていく。家族や友人が見れば驚愕するか、大笑いするかのどちらかだろう。実に、らしくない。
「瀬戸はせんの?」
「うん? 婚約指輪だからね。指輪じゃなくて、揃いの時計を持ったりはあるみたいだけど」
「そういうもんなんや」
「基本プロポーズの際に贈るものですから……そもそも私はあまりアクセサリーの類はすきではないので、結婚指輪も」
そこまで話して目線を向ければ、飛紗が曖昧な笑みを浮かべていた。そっかあ、と納得したような相槌を打ってはいるが、明らかにどこかしょんぼりとしている。
してほしいのか、指輪。
察してしまうと、飛紗を落ちこませてでも貫徹するほどのこだわりではない。こんな風に意思を覆すなんて、これまでを考えればどうかしている。飛紗といると、自分が変わっていっているのが感じられて、たまに居心地が悪い。しかし、気分は悪くない。そんな自分もまた、意外だった。
「……結婚指輪が、初めて長く身につけるアクセサリーになりそうです」
言い換えた言葉に、飛紗の雰囲気が華やいだものに変わった。唇をむにむにと動かしている。理想があったのはこちらだったか。先日父二人の写真を見せたとき、薬指をなでていたのを思い出す。てっきり自分がはやくつけたいのかと思っていた。
がばり、と突然腰に抱きつかれて、後ろに倒れそうになったところを堪える。頭をなでれば、猫のように頬をすり寄せて甘えてきた。短いズボンからしなやかに伸びている脚が、体を丸めるように折りたたまれた。ほんとうに猫のようだ。
ずいぶん甘えてくれるようになった。気の許し方がわからなくて距離を測りかねていたころに比べれば、飛紗のほうから体をくっつけてきたり、唇を重ねてくるようになったり、やっと「恋人」に慣れてきたらしい。
膝枕の状態になって、飛紗が左手を前方に伸ばす。指輪をなでたり眺めたり、花が飛んでいるのが見えた。
「そんなによろこんでもらえるとは」
「瀬戸が、あっ、えっと、うー……」
想像以上の反応にそう言うと、頬を赤くした飛紗は突然言葉に詰まる。伸ばしていた手を今度は胸に抱えるようにして、照れくさそうにしながら、ぼそりと呟くように言った。
「し、……眞一が選んでくれたもんやもん」
うわっ。
声にはならなかったが、完全に射抜かれた。急所を突いた衝撃に、体のほうがついてこない。照れることも身動きもできずにいると、飛紗のほうが耐えられなくなったらしく徐々に目線を下げ、ああー、と叫びながら耳まで真っ赤に染めた。
「さらっと。さらっと言うつもりやってん、でも一回詰まったら意識しすぎてやけど詰まってもうた以上もう引くんもおかしいし必要以上に照れとるっていうんはわかっとるんやけど」
「うん、わかったから。ここらへんのひとって感情昂ると関西弁つよくなるよね」
顔を隠すように瀬戸の足にうずもり、力を込めて抱きしめられる。なぐさめるように背中をぽんぽんとたたいた。
やがてふっと飛紗の全身から力が抜け、代わりに重みが瀬戸の足に乗ってくる。飛紗が小さいからとコンプレックスに思っているらしい胸も、当たらないわけではないんだよなあ、と思うが、教えてはやらない。他の男にこんなことはしないだろうし。そもそも言うほど小さくもない。
「眞一」
小さな声で落とすように言うので、聞き逃すところだった。体を曲げて耳を傾けるようにする。
「眞一眞一眞一、大丈夫、たった四文字やし」
「呪文みたいに言われてもねえ」
口に馴染ませるように連呼されて、笑みがこぼれる。曲げた体をそのまま飛紗の背中にくっつけるようにすると、薄いシャツの下が熱い。傍から見たらおかしな体勢になっているのは承知で、心地よさに瞼を落とした。
「眞一」
今度は間違いなく、呼びかけられた。
名前がこんなに、自分のなかに溶けたことがあるだろうか。飛紗やその弟の綺香みたいに、自身の名前を不満に思ったことはない。反対に、綺香の彼女のように、自身の名前をすきだと思ったこともない。自意識のないうちから呼ばれて、持ち物に名前を書いて、そうやってなんとなく受け入れていた。その、受け入れられず残った、なんとなく宙に浮いていた部分が、瀬戸にしっくりと沁みこんできている。どんな知識でも体験できない快感、を、全身でのみこむ。手放したくない。
「はい」
細く息を吐くのと同時に返事をすると、飛紗を介して渡されたそれが、完全に瀬戸のものになった。愛しさに眩暈がする。
「重い」
「あ、ごめん」
体を持ちあげる。気を抜いて体重をかけすぎてしまっていた。興奮で鼓動がはやい。ゆっくり大きく息を吐いて、同じように上半身を起した飛紗の頬に触れる。指先に耳が当たってそのまま愛撫すると、ぴくりと体を震わせた。さんざん触ってきた甲斐あって、飛紗のなかで耳といえば連想するものが限られてきている。浸食は成功している。
「ドラマとか創作物のなかで」
飛紗の指に通した指輪に触れると、少しひんやりしていた。落ちつかせるために雑談を探し出す。
「お前は俺のものだ、とか、言うけど」
「うん」
「そもそも相手をもの扱いするのってどうなんですかね」
スマートフォンでネットを見ていると、さんざん流れてくる女性向けゲームの広告でも似たような言葉が書いてある。ということは、女性受けがいいということだ。
「瀬戸……間違えた、眞一もお前とか俺って言うんや」
「聞いてる?」
重要な話をしているわけでもないのでいいのだが。聞いとるよ、と言いながら、にこにこと指を絡めてくる。そんな飛紗を見ていると、あれもひとつの印なのかもしれない、と思いついた。左手薬指の指輪と同じように、他人に手を出させないため、あるいは出されないための防御。つまり深く考えるだけ無駄ということだ。自己満足で、当人たちが疑問を持たないのなら価値観の一致で構うべきではないし、一致しないのであればやはり当人たちが決めるべき事柄。外から一歩引いて言葉を吟味する余裕があるから気になるだけだ。今さらながら、いちいちつっこんでいては馬に蹴られる。
「わたしも同感やけど」
「けど?」
「んー、眞一に言われる分には、そこまで気にならんかも」
そう言いながら、瀬戸の手をにぎにぎとしたり頬に当てたりして遊んでいる。今日はどうしたのか。指輪効果なのか。こんなにかわいい生き物がなぜ野放しにされていたのか、いつか言ったように飛紗の周りはほんとうに見る目がなかったのだろう。
「結局ああいうのって好意を持っているから納得できるんやろ? 高校のとき、友人の彼氏の友人、ややこしくてごめんやけど、その男の子がみんなで遊びに行ったとき、わたしのことをこいつ俺のやから、って言ったんよね。誰がお前のやねん、って腹立って、誰がお前のやねん、って言ってもうた」
「言っちゃったんだ」
思わず笑ってしまう。いまの飛紗でも想像できる話だ。
「いま思えばあれ、告白やったんかなあ。振り返ってみれば照れとった気もするしなあ……」
おそらく正解だ。面と向かってはっきりすきだと伝えられず、周りに示すことで関係を一方的に進めてしまおうと画策したに違いない。男子高校生の精神力を考えれば気の毒に、としか言えないが、自業自得の感は大いにある。
飛紗の手からするりと抜けて、軽く腕を開くようにすれば、素直に膝に乗ってくる。明日になって恥ずかしくなり、飛紗が頭を抱えないことを祈りつつ後ろから抱き締めた。
「……指輪、ほんとにありがとう」
ものではなく、お互い自分の足で立って、そのうえで支え合いたい。そのうえでお互いを選び続けていきたい。もちろん決して安い買い物ではないが、指輪一つでこんなにも飛紗の顔がきらきらと輝くのなら、いくらでも贈りたい、と思った。
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