写真
瀬戸のスマートフォンが、テーブルの上に置かれている。黒いカバーだけがつけられていて、ストラップはついていない。右上のところがちかちかと緑色に点灯している。ラインでもきているのだろうか。持ち主はいまトイレに行ったばかりで、まだ戻ってこない。
この薄い機械でもめる出来事は友人から聞いたことがあるし、ワイドショーでもよく流れている。中を見たとか見ていないとか、一緒にいるのにスマホを触りすぎだとか、覗いたら浮気が発覚しただとか。そういえば、弟の綺香は名前で女だと勘違いされやすく、実際友人の彼女がラインの表示で綺香を女だと思いこんで喧嘩したらしい、という話を聞いた。わざわざパスポートを持って友人の釈明に行くはめになった、と迷惑そうに嘆息していて、申し訳ないけれど声をあげて笑った。
便利になった反面、余計な悩みの種を産む。どこにいても仕事で呼び出されるとか。個人で持っている分とは別に、会社に持たされているスマートフォンが、休日の今日でも飛紗の鞄のなかに入っている。
画面は表示させず、つつく真似だけしていると、上から声が降ってきた。
「見てもいいですよ」
別に悪いことはしていないのに、飛紗の心臓が飛び跳ねる。戻ってきた瀬戸が隣に座って、スマートフォンの画面をタップした。手慣れた様子でパスワードを入力し、お知らせを確認したあと、はい、と渡される。
「特におもしろいものは入っていませんが」
「エロ画像とかないの?」
「ないですね……あ、いや、あるな」
飛紗にスマートフォンを持たせたまま、瀬戸が画面を操作する。どこだったかな、と言いながら、見当はついているようでたまに手をとめつつも進んでいく。
これです、とぱっと表示されたのは、エロ画像というか、エロ画像には違いないのだが、いわゆる春画だった。蛸と女性が絡んでいる。
「葛飾北斎の研究をしている知人がいて、送ってきたんですよね」
「これ、葛飾北斎なの」
数年前に春画展が話題になっていたことを思い出す。ポスターのなかに名前があって驚いたような気が、するようなしないような。
これくらいですかね、と言われて、画像を閉じられてしまった。こんなところで歴史学者っぽさ(なのだろうか)を出されても反応に困る。
ホーム画面に戻ってみるが、壁紙も初期設定のままらしく、特に面白みがない。SNSには興味がないと言っていたとおり、ツイッターもフェイスブックもインスタグラムも入っておらず、辞書と電車の乗換アプリ、電子書籍アプリ、飛紗にはわからないが論文の何かアプリかページがあって、あとはラインが入っているくらいだ。
ぱっ、と突然画面にかわいい犬のイラストが表示される。ラインが入ったのだ。さすがに瀬戸に返そうとすると、気にもせず受け取らないまま画面を触る。
「姪です。何でもいいので、キャラクターのスタンプを返してあげてください」
「姪おんの?」
家族の話を聞くと、いちいち驚いてしまう。瀬戸に生活感がないためか、親戚付き合いをしているところなど想像できない。兄がいるとは聞いていたのだから、年齢的に姪がいてもおかしくないのは、頭では理解できるのだが。
姪のためか、存外動物イラストのスタンプがいくつも入っているのを見て、かわええ、と呟く。そのなかから、本来ならいつ使うのか、うさぎが花畑にいるスタンプを送る。
普段飛紗とのラインでは、スタンプなど瀬戸は使ってこない。そのまま頭のなかで声が再生できそうなくらい、いつもの瀬戸の口調で、絵文字も顔文字も見たことがなかった。もっともそれは、飛紗も同じなのだけれど。
「来年小学生です。甥も生まれる予定で」
「ええなあ、一姫二太郎やん」
またすぐ向こうから、「げんき?」という言葉の書かれた猫のスタンプが送られてきた。聞かれているので会話にしたほうがよいかと、「げんき!」と添えてあるスタンプを送り返す。よく見れば、どのスタンプも言葉がひらがなか、あるいは振り仮名がふってある。間違いなく、姪が読めるようにだ。
「姪っこにはやさしいんや」
子どもだからといって態度を変えるような性格ではないので、親戚だからこその贔屓だろうか。瀬戸にもそういうところがあるのだな、と思っていると、
「私とラインがしたいと言うので、ひらがなとカタカナを全部覚えたらいいですよ、って約束をしたんですよ。そうしたら次に会ったとき、きちんと覚えてきたので」
あっさり言われる。前言撤回だ。姪にも容赦がなかった。これで覚えていなかったら、甘やかすことなくほんとうにやらなかっただろう。
「なぜか気に入られているんですよね。大きくなったらお父さんと結婚する、ってやつ、あれを私が受けてしまって」
またスタンプが送られてきて、瀬戸は飛紗からスマートフォンを受け取った。「人といるからまた今度」と打って(何のためらいもなく漢字変換していた)送る。しょんぼりとしたうさぎと、手を振るうさぎのスタンプがリズムよく返ってきた。
「お兄さん、落ちこんでへんかった?」
「そいつだけはやめてくれと真顔で言っていました」
もう満足していたが、飛紗の手元にまたスマートフォンが戻ってくる。
そいつだけは、と言われた「そいつ」と、飛紗は結婚しようとしているわけだが。いやしかし、もし妹が「結婚する」と言って瀬戸を連れてきたら、正直反対したと思う。お兄さんの気持ちはすごくよくわかる。
「たぶん鷹村さんも似たようなことを思っているでしょうね」
ここで言う「鷹村」は、弟のことだ。弟とその彼女、それぞれ別に瀬戸と付き合うことになった、と言ったときの反応がまったく同じだったことを思い出す。瀬戸には浮世離れした空気があるというか、恋愛とか結婚とか家庭とか、そういう部分からは無関係そうな、ある意味人間らしくないところがある。
瀬戸の足の間に座る。手を掴んで、一方的に後ろから抱きしめられるような形にすると、腕の上に頭をのせた。
「慰めてくれるんですか?」
「落ちこんでも気にしてもおらんひとにそれは無理」
そうではなくて、人からそう思われている瀬戸が、自分を選んでくれたのが途方もなくうれしい。おそらく誰も、瀬戸が結婚するなんて思っていなかっただろう。もしかすると本人さえ。
写真なら一枚くらいおもしろいものも見つかるのではないかと開いてみると、最初に黄色がかった用紙が何枚か目に入った。おそらく研究で必要な史料だろう。飛紗には縦線がうねっているようにしか見えないが、瀬戸にはこれが読めるのだから、きちんと文字なのだ。崩れ字は外国語の一つだなと思う。
スクロールしていくと、飛紗の写真があった。いつの間に撮ったのか、寝顔や、横顔が写っている。
「見つかった」
まったく焦りもせず、悪びれてもいない。しかし飛紗も瀬戸の寝顔をこっそり撮って保存している手前、文句が言えない。
「消してとは言わへんから、寝顔、他のひとに見せたりせんでよ」
「なぜそんなもったいないことを?」
意味がわからない、という口ぶりで言われて、腕を軽くつねる。いてて、と瀬戸は大して抵抗などはせず呟いた。
さらにスクロールすると、煙草を吸っている白髪の女性の写真があって、ぴたりと指がとまった。写真の様子から、物陰からこっそり撮っているのがわかる。このひとは、おそらく。突然動きがとまった飛紗に、瀬戸は何も言わなかった。
「……なんや、かっこええひとやね」
そうか、このひとが。
素直な感想を述べると、うん、と瀬戸が頷く。やさしくはあったが、少しも甘い響きが入っていない。どこかほっとする。瀬戸の体に密着するようにもたれると、すり、と頬を頭にすり寄せられて、前髪に指を通された。
「……それ」
「消さんでええよ」
瀬戸が言いきる前に声をかぶせる。それを言わせてはいけない。言ってはいけない。
「消さんといて」
つよく断言したつもりだった。迷ったりもしていない。しかし瀬戸は飛紗の手からするりとスマートフォンを奪い取ると、さっさと消してしまった。あっ、と反射的に声が出る。振り返れば、いつもの余裕を持った笑みをたたえて、いいんです、言いながら飛紗の手にスマートフォンを戻した。
「正直半分忘れてたし。またほしくなれば今度は正面から撮りますよ」
それはそれはいやな顔してくれそう、とむしろ嬉々とした表情で瀬戸は遠くを見つめる。
「いや、けど」
「たとえば私たちが喧嘩をしたとして」
瀬戸の手の甲が、すべるように飛紗の頬をなでる。
「飛紗ちゃんがふと、あの写真があることを思い出したりして、頭のなかで勝手に私が大切に持っているという解釈をしてしまってむやみに傷つく、そういう瑣末な原因は全部取り除いておいたほうがいい」
反論の余地がなく、飛紗はぐっと押し黙る。いかにも自分がやりそうな考え方だ。なんなら自分がそのままでいいと言ったことさえ刃になりかねない。
座りなおして、また瀬戸の体にもたれる。敵わない。年齢も経験も理解も、やはり瀬戸のほうが何枚も上手だ。そう思うのは何度目か、これからもずっと感じることなのだろう。
「だいたいラインの会話やメールから浮気だの何だのが発覚って、なぜわざわざ携帯電話に証拠を残したままにするのかという話ですよ。秘密を持つのが甘美というのなら徹底的にやれよと思うけどね」
ばっさりと言うのを聞いて、ごもっとも、と納得する。飛紗も別に、見られて困るようなものはスマートフォンに入っていないから、見せてと言われればためらいなく渡せる。いや、瀬戸をこっそり撮った写真が入っているから、一瞬慌てるかもしれないが。
とはいえそれは相手が瀬戸だからであって、たとえば同僚の尾野に見せてと言われても、やはり気持ちはよくない。瀬戸も同じだろうか。
「それで思い出した。波間さんにお土産もらったんですよ」
食べましょう、と頭をなでられて、飛紗は立ちあがる。波間。波間るり子。瀬戸がすきだったひと。
(いつか会うんやろうな)
歴史学ではなく国文学らしいが瀬戸と同じ大学に勤める教授で、弟の彼女の伯母だ。それこそ弟が彼女と結婚でもすれば、遠い親戚になる。遠い親戚、という言葉を便利に使えば。
リビングのテーブルに腰かけると、驚いたことに緑茶が出てきた。いつも水か少量の酒しか置いていない家なのにめずらしい。あんこに包まれた小ぶりの餅が目の前に置かれる。
「うばがもち、っていうらしいですよ。滋賀に出張行ってきたんですって」
箱についている説明書を読めば、徳川家康や松尾芭蕉も食べたらしい、というようなことが書かれていた。乳母の乳房に似せた姿とある。そう言われると非常に食べづらい。味は怒られることを承知で想像するに、赤福みたいなものだろう。
「お茶は?」
「どうせお茶なんてない家だろうから食べるときに飲め、って一緒に押しつけられました。緑茶がすきな方なんですよね」
先にお茶を飲めば、程よい渋みが口に広がった。おいしい。緑茶の良し悪しはわからないが、きっとよい茶葉をくれたのだろう。
「恋人と食べろって」
ぱっと顔を上げれば、瀬戸が頬杖をついてこちらを見ていた。何度目かの告白をされているようなやさしい表情で、少しだけ、目の前の景色が海のなかみたいに揺らめいた。
さっき、すぐに写真を消してくれてありがとう。
咽喉まで出かかって、思いなおして飲みこんだ。口にして伝えるのは違う気がした。
お土産をすっかり食べてしまって、お茶をおかわりする。甘味に合うものを選んでくれたのだろうことが、なんとなくわかる。
「家族の話をしてもいいですか」
瀬戸が自身のことを進んで話すなんてなかなかないことだ。飛紗は頷いた。少しややこしいので、うまく伝えられるかわからないんですが、と前置きされる。この話をするために、わざわざこちらのテーブルに移ったのかもしれない。
すでに聞いているのは、両親が幼いころに離婚したことと、兄が母親に、瀬戸が父親に引きとられて育ったことくらいだ。姪がいて連絡をとっているところから、兄とは交流が続いていることもわかる。
「兄を連れて出ていった母は再婚して子どもを産んだので、私には半分血のつながった妹がいます。一緒に住んだことはないので、兄妹というより、なんだろうね、いとこくらいの感覚だけど」
「それやと、けっこう歳離れとるんやない?」
確か両親の離婚は、瀬戸が小学校三年生のころ、と言っていた。最低でも一〇以上は離れている。
「一回りですね。母の再婚相手には兄より年上の連れ子もいたので、四人兄弟ということになるんですかね、一応。実際に聞いたことはないですけど、まあ、母がその相手と不倫したので別れたみたいだし」
それで親権をもらえるものなのか、と思ったが、言うのは憚られてお茶を飲む。
「父は母と別れたあと、何人かの女性と付き合って、どれもうまくいかなくて」
「それを子どもの瀬戸が把握しとるんもなんかいややけど……」
しかし、瀬戸である。付き合うたびに紹介されたのかもしれないし、人の家庭のことはわからない。どこもいろいろ事情があるものだ。
こういう話を聞くたび、自分は平穏な家庭に恵まれて育ったのだな、と自覚する。両親が喧嘩をするところなんて見たことがないし、一軒家で中高一貫の私立に通わせてもらってお金に不自由したこともないし、兄弟仲もよいほうだと思う。大学では国立とはいえ東京に住まわせてもらって、受けた愛情に対してあまり親孝行ができていないような。反省してしまう。
「結局法律上再婚はせず、男性と事実婚で仲良く暮らしています」
聞き間違いかと首を傾げてみるが、反応を予想していたらしい瀬戸は悠然とお茶を口に運んだ。
男性。父親と。
驚いた声を出すタイミングを逸して、飛紗は何度か瞬く。ややこしいとは、このことか。
「いつから?」
「え? えーと、もう一八年」
頭のなかで計算する。いま瀬戸が三四だから、一八年前というと、高校生だ。いつ家を出たのか知らないが、高校はおそらく実家暮らしだろう。
「大学卒業まで一緒に暮らしてました」
動揺が伝わっている。心のなかを読まれたような回答に、飛紗はふうん、と頷く。七年ともに生活をすれば、間違いなく「家族」だ。
同性愛者の知り合いは何人かいる。職場にもいるし、わざわざ言っていないだけで飛紗が知るより多いのかもしれない。テレビでは「カミングアウトできずに……」などと言うけれど、学校や職場で「私は異性がすきです」と宣言する人などいないのだから、「私は同性がすきです」と宣言する必要があるような言い方は釈然としない。親に対しての話なら孫を期待されているとか、将来のことがあるので、わからなくもないけれど。
「お父さん、バイやったん?」
「さあ。学くん……菊地学っていうんですけど、たまたま相性がよかったんじゃない? 学くん以外の男性をすきになった話は聞いたことないし」
同じ性別の人を二人以上すきにならないと、たまたま「そのひと」がすきになっただけで、同性愛者や両性愛者とはいわないらしい。
「思っていたより驚きませんね」
口角を持ちあげてはいるが、瀬戸の目線が、少しだけ泳ぐ。何がしかの覚悟をしていたのだろう。それがわかってしまって、飛紗は場面に似合わず頬が緩んだ。
「驚いたけど」
ぜんぜん気にしない、とは言えない。嫌悪感はないにしても、想像していなかったことなので戸惑いはある。けれど瀬戸の家族であることに変わりはないし、会ってみたい、とも思う。そう、会ってみたい。
「ねえ、写真ないん?」
ありますよ、と瀬戸はスマートフォンで画像を見せてくれた。
「右が父で、左が学くんです」
家で飲んでいるところを撮った一枚らしい。ビール缶を片手にピースしている父親と、酒のためか少し赤らんだ頬でたどたどしく笑った学くんの姿が写っている。父親のほうは目元が瀬戸にそっくりだった。学くんは細くて、男性にしては髪が長い。ふたりの左手の薬指に、同じ色をした指輪が光っている。
「しあわせそう」
思わず口からこぼれた。瀬戸が目を細める。
「大丈夫だろうとは思っていても、実際に受け入れてもらうとうれしいものですね。他人に話すのとはわけが違うから……」
瀬戸の言葉で、このひとたちも、いずれわたしにとっての家族になるのか、と気づいた。いや、わかっていたのだが、いまになって実感がわいてきた。突然不安が襲ってくる。挨拶できるくらい、きちんとできているかどうか、自信がない。「恋人の親に認めてもらう」というハードルの高さ。
「わたし、気に入ってもらえるやろか。東京ってこっちとノリ違うし」
「それは大丈夫に決まってる」
すぐに断言されて、いまだけでも安堵する。瀬戸が言うのだから、大丈夫だろう。
「それより母と折り合いが悪いので、場が凍ったらごめんね」
そうか、そっちか。そう言われると今度は写真があるかどうか聞くに聞けず、飛紗は瀬戸にスマートフォンを返す。
「年が明ける前に、飛紗ちゃんのご両親に挨拶したいと思ってるんですが」
つまり、あと二ヶ月くらいの間に、ということだ。言うばかりだった出来事に、現実味が帯びてくる。
「都合聞いておいてくれませんか」
近所ですしね、と瀬戸が首をかく。気持ちを整理しているときの癖だと最近気づいた。いつも余裕綽々の瀬戸でもこんな一面があるのかと、飛紗は体の内側が熱くなるのを感じる。それを引きだしているのは自分とのことだと思うと、うれしくて仕方がない。瀬戸といると、うれしい、があふれて、それだけで満たされてしまう。
はい、と返事をして、無意識に左手の薬指の付け根をなでた。
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