惚気 その二
「瀬戸、あなた何したんですか」
大学の与えられた部屋に入ろうとドアノブに手をかけたところで、いつの間にいたのか、廣谷に声をかけられた。廣谷の研究室は同じ階で、廊下の延長線上ではあるが、学科が違うので少し距離がある。
いつもどおり「汚れてもいいから」というだけの理由で羽織っている白衣に手をつっこみ、「人と目を合わせたくないから」という理由で伸ばしている前髪(右で分けられていて、右目はきちんと出しているだけ廣谷なりの譲渡である)の奥から、少し責めるような目で瀬戸を見ていた。廣谷は背が高いので、自然と見下ろされる形になる。
「講義をしてきたところですけど、え、なに、廣谷さんが私のところに来るなんて初めてじゃないですか? 水しかないですけど持っていきます?」
そういう話ではないことを承知のうえで、いけしゃあしゃあと言い放つ。廣谷がわざわざ足を運んで話しかけてくるなんてあまりにもめずらしく、天井から雨が降ってきてもおかしくない。
人間嫌い極まれりな廣谷は、人と関わるすべての行為を億劫がる。会話、接触、なんなら他人とすれ違うことすらも煩わしく思っているのだ。
瀬戸はさっさとドアを開けて、廣谷の背中を押して強引に中に入れる。室内は本や資料が棚も床もあふれて乱雑に置いてあったが、似たようなタイプの廣谷は驚いたりなどしない。そもそも廣谷と同じ国文学科の波間教授のように、部屋をきれいに整えているほうがめずらしい。
ソファなどはないので、学校の式典等で使用されるよりは高級なパイプ椅子に廣谷をむりやり座らせる。部屋で落ちつくつもりはなかっただろう廣谷は、案の定不服そうに眉根を寄せたが、わざわざ取り寄せている水のペットボトルを渡すととりあえず椅子に深く腰かけた。コーヒーに使うのだろう。
「瀬戸、あなた何したんですか」
もう一度、同じ問いを繰り返した廣谷に、瀬戸は講義に使用した道具を机のうえに放り投げて、向き合うように椅子に座る。
「的を得ません」
「…………」
心底いやそうな顔で、じろりと睨めつけられる。ほんとうは理解していることくらいわかっている、と言いたげだった。実際、廣谷が何を聞いてきているのか、瀬戸には見当がついていたが、おくびにも出さない。眉を下げて、困ったような笑い方をすると、廣谷はますます機嫌が悪そうに目を逸らした。
廣谷は瀬戸にとって、一応大学の先輩にあたる。国文学と歴史学で、研究内容はまったく異なるし、先輩といっても年齢的に通学時期は一切かぶっていない。院生時代、たまたま見に行ったシンポジウムに廣谷が出ていて、それからの付き合いだ。瀬戸は廣谷を尊敬しているし、好ましく思っている。もちろん研究内容の関係も大いにあるのだが、この大学にも、廣谷を追いかけてきたようなものだ。飛紗を除けば、人間的にもっともすきなのは廣谷だと断言できる。
一方の廣谷は、瀬戸を苦手に思っている。とはいえ、廣谷のことを考えれば、だいぶ近しいと言っても過言ではない。全人類にきらわれていると言って憚らない彼は、つまるところ全人類をきらっているのであり、顔と名前を記憶しているだけでもめずらしい。自分の受け持つ学生の顔すら覚える気がないのだから。
「山宮さんが」
ああ、そういうことか、と瀬戸はすぐに事情を把握する。
山宮さんとは廣谷が唯一(と言ってしまっても大丈夫だろう)気持ちを許している女性で、他大学の学生だ。波間の姪であり、たまに手伝いに来ていたのを廣谷に気に入られて、大学院一年生(こちらでは一回生と言うようだが)の多忙な今ですら、廣谷が駄々をこねるのでわざわざ会いにこの大学まで通っている。当然足を運ぶ回数は減っていっているし、冬になればさすがに来られなくなると思うが、それでもやさしすぎるほどだと瀬戸は思う。なにせそこまでしていても、ふたりには特に関係に名前がない。おそらく廣谷のことだから、それがよいのだろうと察しがつく。そして山宮さんも、それをゆるしてしまう。
「瀬戸さんって、と呟いて、こちらに何か聞きたそうにしては、やっぱりなんでもないです、といつも以上に本を片づけていく日が何度かあったので」
困惑が掃除や仕事に反映されるタイプか、と分析する。廣谷の研究室も基本的に本や資料が散乱しているのだが、山宮が来たあとはきれいに片づけられているのですぐにわかる。本を大切に扱いたい山宮にとって、ソファやテーブルに放り出されている本は傷みそうで気になって仕方がないらしい。おそらく、瀬戸の部屋に入ったらショックで倒れるだろう。
(それはそれでたのしみのような)
基本的に無表情で、表情に大きな変化がないため、崩れたところも見てみたい。
「それならなんとなくわかります。鷹村さんに」
「鷹村さん?」
言いきる前に鸚鵡を返される。学生の顔と名前をまったく覚えようとしない廣谷がここ数年で唯一覚えたのが、三年前に卒業した鷹村綺香だ。卒業した今も、波間に将棋を教えるため週に一回、大学に通っている。そのため、隣室の廣谷の研究室に頻繁に遊びに行く瀬戸とも顔馴染みである。
まったくの予想外だったと見えて、問いかけのときに語尾を持ちあげないのが癖の廣谷が、語尾をあげて目線を寄越した。
「ひとまず最後まで聞いてください。鷹村さんには飛紗という名前のお姉さんがいるんだけど、いま私はその飛紗ちゃんと付き合っているわけです」
廣谷は目を丸くして、まじまじと瀬戸を見た。はあ、と小さく息を吐いたあと、はあ、と今度は声に出した。
「ということは、将来的に山宮さんが瀬戸と親戚になる……」
「可能性はある」
鷹村綺香は山宮と恋人同士だ。飛紗が弟に(つまり綺香に)、瀬戸とも付き合いがあるからとはやいうちから伝えてある話は聞いていたが、山宮にも言ったのだろうな、と瀬戸は首をかく。
ごとん、と音がした。廣谷が持っていたペットボトルを床に落としたらしい。この世の終わりのような表情で顔を覆い、しばらく頭を上げたり下げたりしたあと、咽喉の奥から声を絞りだして言った。
「どうにかなりませんか」
「私じゃなくて鷹村さんに言ってくれる? こっちは無理です」
山宮に言うのは廣谷の矜持的に不可能だろうから。
床に落ちたペットボトルを拾う。廣谷には新しいものをあげることにして、蓋を開けて口に含んだ。
すると青ざめていた廣谷の表情がすっと真顔に戻り、足を組みなおす。姿勢が変わったので、背もたれがぎし、と小さく音を立てた。その後ろに積み重なっている本の山からもいやな音が聞こえた気がしたが、雪崩が起きても特に気にはしないので、放っておく。
「瀬戸がそこまで他人に入れこめるとは思いませんでした」
なんだかんだ廣谷との付き合いは長く、お互いをよく知っている。根本的な部分で同族であることをわかっている。廣谷は露骨に人間関係を閉ざしてしまうが、瀬戸は表面上問題なく付き合いを広げつつ、線引きをすることで距離を保つ。
ごまかしても仕方がない。瀬戸はペットボトルの蓋を閉めなおして、もう一度首をかいた。
「私もです」
しかし廣谷だって恋愛ではないにせよ、山宮が突然現れたのだから、そんなものなのかもしれない。こちらで再会したときに、廣谷が嬉々として話しかけ、何をするでもなくべたべたとくっついているのを見たときの衝撃。それも二〇も下の女の子に。
「何かがこんがらがってしまったんだよねえ。で、こんがらがってると思ったら、からめとられてただけっていうか」
「意味がわかりません」
「私もです」
無意識に口角が上がった。
「とにかく捕食されるのも悪くないってこと」
飛紗からすればこんな物言いは心外だろうけれど、足をとられたのは間違いなく自分のほうだ、と瀬戸は思う。惚れたほうが負けという言葉があるが、負けかはともかく、心地よくはある。
積み重なっている本のうちから一冊を選んで、廣谷がぱらぱらと頁をめくる。何か思案しているのだ。
「僕はごめんです」
呪いを受けているから? 口には出さずに、瀬戸はほほえんだ。いつか聞いた廣谷の過去の話が、頭のなかでダイジェストのように流れていく。人間嫌いになった原因。おそらく廣谷はもう誰とも能動的に関わってはいかないのだろうと思っていたから、山宮の存在には、実のところ廣谷に好意を持つ全員が少なからず感謝している。
その山宮と親戚になるかもしれないとなると、廣谷に対して最高の嫌がらせである。にっこりとして、新しい水のペットボトルを放り投げた。
「まあ山宮さんは将来的に私の義理の妹かもしれないということで」
「世の中には絶望しかない……」
片手に本を持ったまま、投げられたペットボトルを見事受け取って、廣谷は苦虫を噛み潰したような顔をする。
「飛紗ちゃん、美人ですよ。かわいいしね。山宮さんもほんとうの姉みたいな、もしくは友人みたいに懐いているみたいだし」
「よりにもよって瀬戸を相手にするわけですから、よほどの人格者でしょうね」
「そうなんだよね。だからでろんでろんに甘やかしたくて仕方ない」
廣谷を飛紗に会わせたら、どんな化学反応が起こるだろうかと想像する。二人がそろっている空間など、多幸感に殺されてしまうかもしれない。近いうちに騙して鉢合わせよう、と目論んでいると、察しているらしい廣谷がまた眉根を寄せてじとりとこちらを見ていた。
「……まあ、山宮さんが気をもむようなことはないとわかっただけ残念です」
「残念なんだ」
「反対のしようがありません」
もっともである。本を山の上に戻すことなく、ペットボトルとともに持ったまま、廣谷は立ちあがった。借りていくつもりだろう。書名だけ確認して、瀬戸は皺だらけの白衣を見つめた。
「ご祝儀くらいは出しますよ」
それは、廣谷にしては非常に思いやりに長けた言葉だ。こちらを見ようともせずに言うところがなおさら、もともと軽口をたたいたりはしない性格だが、本気でそう言ってくれているのだとわかって感動する。
「いや、式では友人代表の言葉頼むからね?」
ばっと廣谷が振り向いて、へらへらと笑う瀬戸を確認すると、黙って出ていった。衆人環視のなか、何かを代表して、普段関わることのない人間の前で話すなんて、廣谷にとっては拷問どころか死刑宣告に相違ない。
あの表情がすきで、つい揶揄してしまった。廣谷が女であれば、詐欺を働いてでも結婚していたかもしれないな、と思う。自分が女だった場合は、まあ、わからないが。
どざざざっ、と盛大な音を立てて、廣谷が座っていたパイプ椅子後ろの本の山が雪崩た。いま必要な史料や資料はあのなかに入っていなかったはず、と記憶で確認して、瀬戸はそのまま机に向き合った。
鍵を開けたつもりが、閉めてしまったらしい。朝は間違いなく鍵を閉めたので、飛紗が来ているようだ。今度こそ間違いなく鍵を開けると、電気がついている。飛紗ちゃん? と声をかけてみるが、返事がない。
室内のドアを開けてリビングに進めば、飛紗が電気をつけたまま、テレビ前のテーブルに突っ伏してすやすやとねむっている。鞄と上着がラックの前に置いてあり、スマートフォンを握っているあたり、連絡しようと思っていたらうっかり寝てしまった、という状況だろうか。とりあえず寝顔をスマートフォンで撮っておく。
かしゃ、というカメラの音で、飛紗がうっすらと目を開けた。飛紗は長子ゆえの責任感と、本人の性格からかなりしっかりしていて、こんな風に寝ているのを見たのは初めてだ。まず合鍵はほとんど使おうとしないし、使うときでも連絡をくれる場合が多い。そういうとき、飛紗は静かに本を読んだり、音楽を聴いたり、仕事を持って帰ったりしていたりして、タイツも脱がずに疲れてうっかり寝ていたとなると、そのうえそれを見られたとなると、おそろしく焦るに違いない。じっと観察する。
「うわっ」
案の定、色気も何もない叫び声をあげて、飛紗ががばりと起き上がった。あまりにも予想どおりすぎてふきだしそうになるのを、瀬戸は真顔を保ったまま堪える。
「え、わたし寝て……えっ、ていうか、えっ、瀬戸の家? ここ」
そこからか。ふはっ、と堪えきれずに笑って、思わず飛紗の頭をなでる。寝起きで混乱している飛紗は戸惑いながらも受け入れて、徐々に表情を柔らかくした。
「お疲れ、飛紗ちゃん。ただいま」
「え、あ、お、おかえり」
あまりのかわいさに、ついばむように口づける。ちゅ、という音にまだ慣れない飛紗が、かあ、と顔を赤くした。
「ごめん、無人のところ押しかけたのに寝てもうて……化粧とかも直しとらんくて」
「仕事終わったんだから、気にしなくていいよ。それより夕飯は食べましたか?」
飛紗はいつ寝てしまったのかを必死に思い出そうとしているようだった。まだ、とうつむきがちに答えるので、出来合いで何か食べようか、と提案する。寝てしまうくらい疲れているのなら、そのほうがよいだろう。
廣谷の言うとおり、こんなに他人に入れこめるなんて思ってもみなかった。
はやく今日の話がしたい、と思いながら、瀬戸は飛紗にもう一度口づけた。
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