惚気

「鷹村さん、最近きれいになりましたよね」

 隣の席に座る同僚の千葉に唐突に言われて、眉根を寄せてしまう。何を勘違いしたのか、千葉は「あ、もともと美人ではあるんですけど」と慌てて続けた。中途採用で入ってきたので、会社の在籍年数は飛紗のほうが長いが、年齢は千葉のほうが上だ。まだお互い気を遣いつつ話している。

「それ俺も思っとった。恋人でもできたん?」

 向かいに座る同期の尾野が、会話に乗って軽口をたたいてくる。社内ではもっとも気心知れた仲だ。明るく社交的で、上司にも気に入られていて、かわいい彼女がいる。というより、入社後の歓迎会で酔っぱらった尾野が、俺の彼女かわいいやろ、と写真を見せつけてきて、延々とのろけ話に付き合わされたので、飛紗の警戒心が解けて仲良くなった。

 職場の席でこんな話をするのは、と思ったが、二人が興味津々といった目で見てきているのと、他はほとんど出払っていて何人かが遠くにちらばるばかりだったので、逃れられないことを悟ってしまう。

「まあ……」

 ぼそりと肯定すると、えっ、という声が、左隣と前方から響いた。声が大きい。尾野に至っては立ちあがっている。

「はよ言えよそういうんは! お祝いせな!」

「ていうか、ずっと彼氏いると思ってました」

 喧々囂々と思い思いに騒がれ、飛紗は二人をなだめる。そもそも仕事中だ。周りの人たちの視線が痛い。痛い、というかむしろ、なまぬるい。耐えられない。

 今日飲みに行くぞ、と飛紗の予定も聞かずに話がまとまり、コーヒーを手に上司が席に戻ってきたときには、二人ともちゃっかりまじめに仕事をしている体を装っていた。話さなければいつまでもうるさく問いただされるだろう。思わず嘆息する。

 瀬戸と付き合うようになったことを、弟とその彼女には話したが、それ以外の人に伝えたのは初めてだ。身内ではないのでなおさら、どこまで踏みこんで聞かれるのか、またどこまでなら他人に話してもよいものなのか、まだ三時だというのに気が重い。

 とはいえ別に、言いたくないことは答えなければよいだけの話であるし、振舞い方は友人たちを見て学んでいる。瀬戸のことを人に話すのは、どこか気持ちが浮かれる部分があって、表情が定まらずに唇がむにむにと動く。

 自慢したい。照れくさい。言いたくない、言いたい。

 これがのろけの心理か。

 はあ、ともう一度ため息をつくと、尾野がパソコン越しに飛紗を見てにやにやしていた。



 毎日会っているわけではない。ただ、お互い出張もあるので、予定の連絡だけはするようにしている。たとえば今日なら、はやく帰れそう、だとか。受け取ったラインのメッセージをトイレの手洗い場で見つめながら、スマートフォンを握りしめる。わたしも今日ははやく帰れるのに。すでに夕方ごろ、同僚に飲みに誘われたことは伝えていて、既読の文字が表示されていた。

 会える時間があったかもしれないと思うと、なんだか今日、すごく会いたかった気がしてくる。

 六時半。この時間なら、たぶんもう家だ。すでに尾野と千葉がエントランスで待っているのだが、急に誘ってきたのは向こうであるし、少しくらい待たせても平気だろう。勢いだけで瀬戸に電話をかける。呼び出し音がやたらと耳をつんざいた。

「はい」

 四コールで聞こえてきた瀬戸の声に、ぶわっと全身が熱を持つ。電話なんて何度もしているのに、と自分の反応に混乱するが、こちらからかけるのはそういえば初めてのことだ。

「せ、瀬戸?」

「うん。どうかした?」

 電話口から、瀬戸の声以外の音が聞こえてこない。学校ではなさそうで、やはりもう家に帰っているのだろう。

「あの、ごめん、なんでもないんやけど。ごめんな、今日」

「ん? 付き合いもあるだろうし、気にしてませんよ。約束してたわけでもないし」

 それはそうなのだが。それは、そうなのだが。

 何も言うことがなくなって、沈黙が下りる。電話しないほうがよかっただろうかと思い始めたころ、飛紗ちゃん、と呼びかけられて、つい顔を上げた。鏡に映った自分は、心細そうな表情をしていた。勝手に電話して、勝手に落ちこんで、挙句さびしいなんて、我儘が過ぎる。

「迎えに行きますよ。何時になってもいいから、連絡ください」

 耳にあてたスマートフォンを、両手で支えるように持ちなおす。瀬戸はすぐ、こういうことをする。気持ちをくみあげてしまう。

「……じゃあ、北口まで来てほしい、って言ったら、怒る?」

 電車での乗り換え駅を告げる。瀬戸の定期券を超えた先の駅だ。最寄駅から約一〇分。

 尾野はJR、千葉は同じ線だが乗り換えずに一本で帰れる場所に住んでいたはずなので、鉢合わせることもないだろう。

「いいよ。時計台の下で待ってるから、梅田出るとき教えて」

 電話を切ったときには、先ほどとは打って変わって笑みをかみ殺している自分がいた。瀬戸の声がやさしかったので、うれしい。

 そろそろ行かなくては。だいぶ待たせている、と振り返ると、千葉が口元を押さえてにやついていた。聞かれたのは間違いない。遅いので何かあったのかなと思って、とわざわざ様子を見に来てくれたことを教えてくれる千葉に、飛紗はいろいろと諦めて、行きましょう、と促した。今日は羞恥で死んでしまうかもしれない。

 尾野と合流して、職場近くの家電量販店にある和食居酒屋に入った。居酒屋にしてはじゃっかん高めだが、その分おいしい。職場と同じ席位置に座り、ひとまずお酒と各々すきなつまみを頼んで乾杯をする。

「で、いつから?」

 遠慮もなく、尾野が縁の太い眼鏡を持ちあげながら聞いてきた。

「前置きとかないん」

「そんなもん、時間なくなるやろが。ええから吐け、さっさと吐け」

「ここは尾野くんと二人で払うんで、ぜひ」

 つまり金は出すからその分話せ、ということだ。飛紗がトイレで電話をしている間に決めたらしく、そうそう、と尾野も頷く。この二人、こんなに仲がよかっただろうか。それとも目的がはっきりしているので、団結しやすいのか。

「いつ、って、三ヶ月くらいかな」

 答えながら、いや、二ヶ月半だったかな、と思い返してみるが、訂正するほどでもない。婚約と考えれば短いのか長いのか、瀬戸と結婚したい、とははっきり思う。しかし、ぴんとはきていない。いまがいっぱいいっぱいで、半分夢心地のままなのかもしれない。瀬戸はきっと待ってくれている。

「うわ、ぜんぜん気づかんかった。なに? どこで知り合うたん?」

 どこ。どう説明するとわかりやすいものかと言い淀んでいると、店員がにこやかに料理を持ってきた。だし巻きたまご、自家製の温かい豆腐、かりかりじゃこと水菜のサラダ。皿が置かれた瞬間、尾野がサラダを取り分け始めたので、飛紗は豆腐を三分割する。千葉は天ぷらの盛り合わせとエイヒレの炙り焼き、お造り五種盛りを追加注文した。

「東京で」

「あー、大学が東京なんやったっけ?」

「え、じゃあサークル一緒やったとか?」

 二人とも食べながら器用にしゃべる。合間にこれおいしい、ドレッシングがすき、などと料理の感想も挟んで。

「いやでもお前中学からずっと女子校とか言うてなかったっけ」

「サークルやったら別の大学と交流持ったりしますし」

 飛紗はやっと割り箸を割って、このまま二人のなかで勝手にそういうことにならないだろうか、と黙って見守ってみるが、当然そうは問屋が卸さなかった。千葉も神戸出身だけあって比較的ゆったりしゃべるが、ノリはしっかり関西だ。生まれも育ちも守口という尾野は何をかいわんや、である。

「どうなんですか?」

 こういうときに余裕を持ってはぐらせるくらいの処世術があれば。相手が客なら、また変わってくるのに。

「えーと、いや、講義が最初やから、一応。サークルとか入らんかったし」

「え? 大学は女子校やなかったん?」

「やから、先生は女とはかぎらんから……」

 先生、と二人が同時に叫んでこちらを見るので、所在なくレモンサワーを飲み下す。隣の席に座ったサラリーマンたちが驚いたような反応を見せたが、すぐに自分たちの会話に戻っていった。昼間と同じ展開だが、職場の人間ではないだけましか。

「大学の先生ってことはおっさん違うん。親のほうが年齢近いとかそういうことあったりする?」

「歳の差ですか。えらい年下の女と付き合う男って、自分のことできへんくないですか」

「盛りあがっとるところ悪いけど、七つ差やから。親よりわたしのほうが断然歳近いから」

 七つ、とまた二人が同時に叫ぶ。はあー、と溜息をつきながら、千葉がだし巻きたまごを飛紗の皿に置いた。

「食べてください。祝い事には卵です」

「ようわからんけど、めっちゃおもろいですねそれ」

 思いのほか愉快な人だ。お互い職場ではうまくやっているほうだと思うが、千葉は仕事が終わればさっさと帰ってしまうタイプで、飛紗も同様だ。これまでは必要以上に会話をすることもなく、たまにおやつを分けあう程度で距離を保っていた。

 お造りが運ばれてきて、各々すきなように醤油をつけて食べる。今日の瀬戸は何を食べているだろうか。ちゃんと何か食べているだろうか。

「でも付き合って三ヶ月って、どういうことですか。学生時代から片思いしとったってことですか」

「こっちの大学に移ったらしくて、こっちで再会したんです。それまで考えもせんかったし、いま思い出してもあの授業がいっちゃん腹立つくらい」

 試験は持ちこみ禁止だった、そういえば。そのわりにほとんど長文で答えるしかない問題ばかりで、さぼった学生はすべからく落ちるべし、というのがあの困ったような笑みの奥でしっかり意思表示されていた。卒業を控えている四年でなぜこの講義を取ってしまったのかと何度も後悔した。

「写真ないの、写真」

 ビールをもう一杯頼みながら、尾野が言う。千葉も見たい、と乗っかってきて、飛紗はイカがうまく噛みきれないフリをしながら「ないよ」と答えた。

 嘘だ。ほんとうはある。

 だけどそれは瀬戸自身も知らない(いや、あの男のことなので気づいて黙認してくれている可能性は捨てきれないが)写真で、あまりにぐっすり寝ている姿がかわいかったので、つい盗撮した分だ。見せる義理はない。ほんの少しの罪悪感を含めて、飛紗の宝物である。

「見た目だけでも説明してや」

「顔はイケメンやで。好みと違うけど」

「好みと違うんですか」

 続けて天ぷらの盛り合わせ。塩、抹茶塩、だしの三つに分けられた小皿を渡されて、主賓どうぞ、と海老の天ぷらを薦められる。しっかり大きな海老でおいしい。

「服も悪ないよ。ちょっと年齢考えると若く見える恰好やけど、童顔やし、痛々しい感じではない。似合う服わかっとる感じ」

「ああー、若づくりと若く見えるを履き違えてる人、めっちゃおるよね。あ、ごめんなさい、敬語抜けてもうた」

「ええですよ、千葉さんのほうが年上やし」

 それならあたしにも敬語気にせんとってな、と言われて、頷く。いつの間に頼んだのかカシスサワーがスプリッツァーに変わっている。大ぶりのピアスが、ゆるく巻かれた長い茶髪の奥で光った。

 穴を開けていないのでピアスはもちろんしていないが、イヤリングもほとんどしたことがないな、と飛紗は耳をなでる。冠婚葬祭で髪をあげるときくらいだ。瀬戸は何がたのしくてこんなところを触っているのだろう。

「でもあざといから、服薦めていこうかなと思っとるくらい」

「残念ながら男の服って女の子の趣味でどんどん変わってまうんよなあ」

 頭から足先まで、こだわりを持ってコーディネートしている尾野が感情を込めて嘆息する。アパレル系なんて、それくらいがよいのかもしれない。飛紗が仕事で知り合った人は、男も女も、ぶれない人が多かった。職業柄流行りを取り入れつつ、軸がぶれない。これがいちばん難しい。

「女も一緒やで。ロッカーがすきになってパンクな服着だすとか」

「なんやかんやで、服の趣味が合うとうれしいっていうあれな」

「自分の彼女に似合う服、いろいろ薦めたんでしたっけ?」

「そう! めっちゃうれしいでー、似合うと思っとる服薦めて、ばしい、決まったとき。めちゃくちゃかわええもん。五割増し」

 日本酒を頼もうと話になり、エイヒレが持ってこられたのと同時に八海山を注文する。

 千葉の敬語もほとんど抜けてきて、空気が明るい。店自体がわいわいと賑わっているせいだろうか。思ったより不躾に質問責めになるわけでもなく、拍子抜けする。もっと話したいような、これくらいのほうが明日からの後悔も少ないような。

「どっちが告白したん?」

 そんなことを思っていると、矛先が向かうものだ。エイヒレを炙りながら、二人の視線が再び飛紗に集まる。すでにしなっとしてきた衣の天ぷら(ししとう)をだしに浸した。

「わたし、に、なるんかな……」

 もはや遠い過去のようになってしまった記憶を呼び起こす。夜が似合うひとだと思ったのを憶えている。いまと違って会うというと夕方から夜で、連絡先も知らなかったのではたして昼にも存在しているのか、受けた講義も実は夜だったのではないかと錯覚をした。漫画の読みすぎだろうか。

「なんや、曖昧やな」

 エイヒレの香ばしいにおいが鼻腔をつつく。飛紗はだしに浸しすぎてさらにしなびたししとうを咀嚼した。

「はっきり言うてくれたんは向こうかも」

 かも、ではなく、そうだ。最初は理解ができなくて、後日改めて言われて、泣いてしまったのだ。いま思い返せば恥ずかしい。

「めっちゃ余計なお世話やけど、年下の女から気があるってわかってなびいた、とかない? 大丈夫?」

 千葉が揶揄ではなく、眉を下げて「年下の女の子」を見る目で飛紗を覗きこんだ。取りようによっては失礼な発言だが、ほんとうに心配してくれている。

 そこに店員が八海山を持ってきてくれたので、すでにエイヒレをかじっている尾野がいそいそと人数分の御猪口に入れて渡す。

「わたしが言わんでも、聡いひとやから、気づいとったと思う。もてる奴やし、歳は関係ないん違うかな」

 そもそもそのとき瀬戸がすきだったのは彼より年上の女性だった。瀬戸個人の話なので、それは言わずにおく。

「そんならええんやけど。なんにせよあんな表情で電話する鷹村さん見たら、やめとけとは言えへんけどー」

「なんや電話って、なになに」

 千葉さん、と袖を引くが、彼女は嬉々として尾野に説明を始めた。顔が熱い。お酒のせいにしたくて、八海山を口にする。なめらかでおいしかった。

 案の定、めっちゃ見たかった、と悔しがる尾野に、見んでええ、と叫び返す。瀬戸の前ではあんな顔をしているのかと、自分でも引いてしまったくらいなのに、それを友人に見られるなんて絶対にごめんだ。千葉の記憶はもう消せないにしても。

「あんだけすきやったらかわいさにも磨きがかかるやんなあ。絶対目の前にそのひといるときがいっちゃん美人やで、鷹村さん」

 飛紗は何も言えず、刺身の下に敷かれていたツマを食べる。醤油をつけすぎてしまって濃い味が口に広がるのを想像したが、実際は味がよくわからなかった。ただひたすら顔が熱い。

「それで、どんなひとなん。やさしい?」

「そうや、のろけろ今日は」

 そう言われると難しい。飛紗にはやさしいが人間的には別にやさしくないと思うし、常に人を喰ったような性格で、外面はよいが媚びるようなことはしない。頭がよくて、片づけが下手で、耳を触るのがすきで、身の振舞い方をよく心得ていて、他人と距離を取るのがうまくて、自分に自信があるので常に余裕を持っている。

 どんな説明だ。自分自身でつっこみながら、エイヒレを炙る。

「……腹立つ感じ」

 総括してそう言うと、どんなんやねん、と二人が同時につっこむ。会えばきっとどこかしらわかってくれると思うのだが、口では伝えきれない。

 そろそろ締めようと鯛飯を二人前頼み、三人でつつくことにする。小ぶりの土鍋が運ばれてきて、蓋を開けたら湯気がほわっと持ちあがり、尾野の眼鏡がくもったのを千葉と一緒に笑った。

 ほんならまた明日、と尾野がJRとは反対方向に向かう。彼女が車で迎えに来てくれているらしい。千葉とは途中まで同じ電車なので、並んで歩く。夜はそろそろ冷えて寒い。マフラーを出しておこう、と飛紗は上着のポケットに手をつっこみながら考えた。

「ね、キスはどう? うまい?」

 同じく寒いのか、ポケットに手を入れている千葉が、にやりとして体を当ててくる。まだ同じ方向に進む人もすれ違う人も多い時間帯で、飛紗は思わず面食らったが、「誰も人の話なんか聞いてへんよ」と千葉がさっぱりとした口調で言ったので、それもそうかと前に向きなおる。

「うまいかは知らんけど」

 比較対象もない。幼いころ親や弟、妹とした思い出はあるのだが、事実として記憶に残っているだけでそれ以上のものはなかった。

「きもちええからすき、かな……」

 言いながら、死ぬほど恥ずかしいことを口にしていることに気づいて、声が小さくなる。

 千葉は最高やん、とまた笑う。顔のパーツが中心に寄るように、くしゃっとするのがかわいい。

「彼氏にいまの聞かせたら悶絶しちゃうで」

 彼氏。人に言われると、ああそうなんだ、という実感が広がる。そうか、瀬戸はわたしの彼氏、なのか。

 顔が赤くなってきたのが自分でもわかったので、道沿いにある書店の新刊台を気にしている風を装い、千葉からなるべく表情が見えないようにする。瀬戸の家で魔窟と呼ばれているあの部屋から、瀬戸はいつも目当ての本をさっさと見つけてくるけれど、位置を把握しているのだろうか。どう考えても地震のあとか、鞄の中身をひっくり返したような惨状なのだけれど。

「キスとセックスはうまいほうがええし、食事はたのしいほうがええんよ」

 ぴっ、とICカードを改札に通す飛紗の隣で、千葉が磁気定期券を通す。

「ほんまやで? あたしあんまりにもキスが下手で別れたことあるもん」

「高校生のときとか?」

 当時そういう子がいたなあ、と忘れていた思い出を引っ張り出しながら言うと、ううん、と千葉はエスカレーターに乗る。ダークピンクのエナメルのヒールが、かつん、と音を立てた。

「先週」

 えっ、と思わず声が出た。あっけらかんと言うので、こちらのほうが戸惑ってしまう。

「その反応、最高。それ見るのがたのしみでこの話してまうねんな」

 駅のホームにはこれから帰る人であふれていた。前のほうが空いているからと、並んでいる人を避けながら歩く。

「耐えられへんかったからしょうがない。それこそ一〇代やったらともかく、お互い三〇超えてたら、結婚とかいろいろあるし。向こうはしたいみたいやったし、あたしは考えてなかったし」

 結婚。出産が関わってくるので女の結婚適齢期の話をよく聞く気がするが、男にもそういう意識があるのかと気づく。瀬戸は三四だ。彼の場合は年齢とは関係なさそうだが、どうなのだろう。

「やけど一緒にいるにあたって、毎回キスが下手やなっていらっとするんかなと思ったら、すーっと気持ちが引いてもうたんよね。三〇過ぎた男のキスがうまくなるん待つ三〇過ぎた女って、もう想像どころか説明するだけでまぬけやない?」

 力説する千葉に、ほほえましいと言われる年齢は過ぎたのだな、と飛紗自身、実感する。

 最近若い女の子たちが二五歳おめでとう、これであなたはもう女の子じゃない、と言う化粧品のCMが批判を受けて放送中止になったらしいが、それでいくと飛紗も「女の子」ではない。あのCMは、オトナ女子という言葉に対抗したかったのだろうか。大人や子ども、女子だの女の子だの女だので区別をつけるのは、あまり快いものではない、と思う。瀬戸に恋愛対象として扱われて、初めて女の子、であることに気づけたのに、年齢や、何も知らない他人に線引きされたくはない。

「今日、ほんまたのしかったわ。乙女な鷹村さんも見れたし」

 気恥ずかしさにうつむくよりはやく、ライン交換してもええ? と聞かれて、頷く。千葉のアイコンはうさぎが餌を食べている写真だった。かわいい、と思わず呟くと、昔飼ってた子やねん、と教えてくれた。

 瀬戸の家にも、手に乗るサイズのうさぎのぬいぐるみがテーブルにちょこんと座っている。瀬戸が生まれたときに親戚がプレゼントしてくれたもので、これだけは手放せないのだと言っていた。毛はへたりとしているし、ところどころ黒ずんで年季が入っているのが一目でわかるが、その分大事にされてきたのが伝わってくる。だいたい、瀬戸のイメージにまったくなくて、そのぬいぐるみがなのか、瀬戸がなのか、とにかくかわいい。

 マルーン色の電車がホームに入ってきて、そうだ連絡しなければと瀬戸の画面に飛ぶ。三〇分発、と伝えれば、すぐに了解の返事がきた。

「迎えに来てくれるって?」

 開いたドアから乗りこむと、たまにめぐりあうボックス席だった。乗客が手で椅子の背中の向きを変えて座っていく。飛紗のほうが先に降りるので、窓側を千葉に譲った。

「会ってみたいわあ。明日もあるし、まっすぐ帰るけど」

 言われて、正直ほっとする。お酒が入っていなくて、事前の心の準備がある状態でないと、どんな醜態をさらしてしまうかわからない。今日だって、食べながら話しながら、ほとんど瀬戸のことばかり考えていたというのに。

 電車が走り出してからは、新作の靴がかわいいとか、店舗のあそこをもっとこうしたほうがいいという話に終始して別れた。



 ホームに降りてエスカレーターで改札口に向かっている間、なんだかどきどきした。瀬戸からはすでに到着した連絡が入っていたので、あとは声をかけるだけだ。人の流れに乗って待ち合わせによく利用される時計台に向かう。柱のところに立っているとラインには書いてあった。

 お酒でおおらかになったり、いっそ記憶が飛んだりすればよいのに、飛紗はたくさん飲んでもせいぜいねむくなるくらいで、それを通り越すと気持ち悪くなってしまう。尾野はさらにしゃべってさらに笑うようになるが、千葉は顔色一つ変えず、つよかったな、と振り返る。

 (あ)

 左右を見回して探すまでもなく、見つけてしまった。そんなわけはないのに、映画で切り取った画面のように、瀬戸だけが目立って見えた。

 本を読んでいるからだろう、普段はかけていない眼鏡をかけて、まじめな表情でページをめくっている。そうしていると、つり目が強調されるようだった。

 近づくと、瀬戸が顔を上げて飛紗を認めた。途端、ふっと表情が和らいだのがわかる。しおりも挟まず本をとじて、眼鏡を外した。

「飛紗ちゃん。おかえり」

 わりとぞんざいに鞄に突っこむのを見て、魔窟はこの積み重ねでできあがっていくのだろうなと思う。

 無性に抱きつきたいのを堪えて、瀬戸の手を向かいから掴む。これまで何度も駅で見かけてきた、人目を気にしないカップルにはなりたくない、という感情が、なんとかそれ以上の行為を押しとどめた。

「瀬戸や」

「そうですよ」

「ふふ、ただいま」

 平気なつもりでいたけれど、やはり少なからず酔っているのだろう。瀬戸に会えたので気が緩んでしまったのかもしれない。握った手を軽く揺らすと、瀬戸は困ったように笑った。実際に困っているわけではなく、単に笑い方の癖なので、飛紗は気にせず乗り換え電車を目指す。

「たのしかったみたいですね」

「うん。ここまで迎えに来てくれてありがとう」

 エスカレーターを降りてホームに着くと、また瀬戸の手を取る。身長はあまり差がないのに、手は瀬戸のほうが大きい。

「あんな、瀬戸の話してきてん」

「私の?」

「そう。恋人ができたなんて聞いてへん、お祝いや、どんな奴や、って」

 お金は尾野と千葉、二人につよく固持されて、結局ほんとうに払っていない。尾野は貸し借りを気にする間柄ではなく、千葉とはこれから仲良くやっていけそうな気がするので、気分は悪くなかった。

「それでね、会いたかったから、うれしい」

 何を話していても、全部瀬戸につなげて考えていた。

 最寄駅の改札に近い場所から電車に乗る。ほとんどの席が埋まっていて、一つ空いているところを瀬戸が薦めてきたが、近くで話したかったので断り、車体のドア付近に寄りかかった。

「ちょっとだけ、瀬戸んち寄っていってもええ?」

「いいですよ。でもちょっとですからね。明日また来たらいいから」

「ん」

 自分でもわかる、鼻にかかった声。瀬戸に酔っ払いの扱いをさせてしまっていることに申し訳なく思いつつも、おとなしくできない。ほんとうに来てくれたことや、すぐに見つけてくれたことに言いようのないうれしさを感じてしまって、足下とともに気持ちがふわふわしてきている。

「だいぶ飲みましたね。顔も赤いし」

 それは瀬戸に会ったから、と言えず、うつむいて両手で瀬戸の右手を握る。少し混んできたから、これくらいなら許されるだろう。

「瀬戸の酔っぱらったところも見てみたい」

 夕飯は何度も一緒にしているが、瀬戸がお酒を飲んで酔ったところは見たことがない。飛紗の倍飲んでも、いつもけろりとしている。

「今度ね」

 指を絡めるように握り返される。のろけるのもたのしくはあったが、瀬戸のこういうことろは、内緒にしておきたい。自慢をするより、こっそり大切に隠しておきたい。

 発車のベルが響いて、電車のドアが閉まった。

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