名前

 しゃぼん玉吹いてもいい? と聞かれ、最近耳にしていない単語に一瞬悩んでしまった。どうぞ、と答えれば、飛紗はうれしさを噛みしめるようにたどたどしく笑い、ベランダを開け放つ。窓辺にしゃがみこんで、ふっ、と息を吹きかけると、小さな洗剤の塊が泡になってふわふわと飛んでいった。

「おおー」

 童心に返ったらしい飛紗が、うれしそうにしゃぼん玉を眺めている。

「どうしたんですか、それ」

 隣に座って、飛紗の手にある容器を指差す。他の家の洗濯物にかかったりしていなければいいのだが。

「この前、友だちの結婚式に行ったときにもらった。教会でバージンロードを歩いとる新郎新婦にみんなで吹きかけて、おもろかったよ。ほら、ウエディングケーキの形しとるでしょう」

 確かに、容器は三段のケーキのような形をして、息を吹きかける持ち手の部分はハートになっている。いろいろ考えるものだ、と瀬戸は素直に感心した。これなら子どももたのしく参加できる。

 東京にいたころは平均して年に一回程度は招かれていたが、結婚ラッシュも落ちついたのか、ここ二、三年は結婚式に参加していない。そろそろ三〇代を半ばにして焦り出した友人知人の第二次結婚ラッシュが始まるのだろう。

「写真ないんですか」

「あるよ。高校のとき仲良かった子やねんけど、めっちゃ美人で」

「じゃなくて、飛紗ちゃんの」

 飛紗には悪いが、少なくとも、知らない女のドレス姿になど興味がわかない。それより飛紗がどんな格好をしていたかのほうが気になる。結婚式に参加するということは、普段とは異なるものを当然着たのだろうし、髪型も変えていったのかもしれない。爪も前に会ったときから色が変わっているし、式に合わせてきれいにしたのは想像にかたくない。

「あんで。一緒に写真撮ったから……ちょっと待ってて」

 おそらくスマートフォンを取りに飛紗は立ち上がり、瀬戸は床に置かれたしゃぼん玉の容器を手に取る。息を吹きかけると、風に乗って飛んでいった。

 飛紗がすぐに戻ってきて、はい、とやはりスマートフォンを持ってきた。代わりに容器が飛紗の手に渡り、またたのしそうに吹き始める。

 写真のなかで、飛紗は新婦と二人、笑顔で写っていた。頬をくっつけんばかりだ。女同士ってよくこういう撮り方してるよな、と思いながら、写真のなかの飛紗を見る。花紺青のゆったりしたドレスに、短いレースの上着を羽織っている。胸の下あたりでゆるく絞られていて、小さなコサージュがあしらわれてあった。

「自社製品?」

「自社製品です」

 ええ服でしょ、と破顔される。いい服かはわからないが、似合っていると思う。肩甲骨より少し長い髪も一つにまとめられていて、目のあたりの化粧もいつもと色が違う。

「美人だ」

「そうやねん! 一緒に他の学校の学園祭とか行ったとき、めっちゃ声かけられて、すごかってん。やさしくて気の利く子やから後輩にも慕われとって」

「飛紗ちゃんのことですよ」

 たのしそうに友人自慢をしているところ悪いが、花嫁のほうはぜんぜん目に入っていなかった。もはや毎回のやりとりなので慣れているが、飛紗はいつもと違って照れも怒りもせずご機嫌で続けた。

「服がええからね。そんなことより見て、スレンダーラインのドレス。細くて背も高いから似合ってるやろ。この写真やとわかりにくいけど、背中があいてて、シルエットがきれいで、思わず触っちゃった。ラメ散らばせてたから、遠くから見ても映えてたなあ」

 あまりにもにこにこと話すので、瀬戸は諦めて花嫁をきちんと見る。確かに美人だった。恋愛感情というフィルターがかかっているので飛紗ほどには思えなかったが、言うと友人がいかにきれいかをたたみかけられそうなのでやめておく。

 他にも久々に集まった友人がどんな格好をしていたか、どれだけきれいだったか、を飛紗がしゃべり始めた。アパレル系に勤めているだけあって、服のことは細かく覚えている。アクセサリー、靴、化粧、髪、爪など、女性は結婚式に参加するだけで大変だ。

「こうしたいとか、ありますか。飛紗ちゃんは」

「ええ?」

 スマートフォンを返して、聞いてみる。飛紗はしゃぼん玉には満足したのか網戸を閉めて、足を抱えこむようにして座りなおした。今日は風が少しひんやりしているが、陽気は暖かい。もうサンダルを履くこともしばらくないだろうに、飛紗の足の爪にはきれいに色が塗られていた。

「小さいころはオフショルダーの、Aラインのドレスに憧れたなあ。いかにもウエディングドレス、ってイメージで」

 瀬戸は頭のなかで情報を整理する。おそらく思い浮かべているものがAラインのドレス、のはずだ。あくまでもおそらく。オフショルダーくらいはわかるのだが。

「でもいまやったら、マーメイド、ああでも胸がないからエンパイアのほうが」

 ドレスに特化した話になって、白旗を振る。写真でも見せてくれないとわからない。どれでも似合うと言いたいところだが、こういうときどれでも似合うなどと言うと怒られるのは目に見えている。

「いろいろ着てみたいってことですね」

 当たり障りなく統括すると、そう、と力強く頷かれた。返しは正解だったらしい。

「そりゃ、一度しかないことやもの」

 ほんのり頬を赤くして遠くを見つめる飛紗を、瀬戸はじっと眺めた。飛紗のこんな表情を、誰かに自慢してやりたい気持ちと、誰にも見せたくない気持ちが拮抗する。自分のことをのろけるようなタイプではないと思っていたが、考えを訂正しなければならない。

「うん、一度やったらええけど」

「怒りますよ」

 飛紗が笑うので、つられて笑う。頭をなでると、照れたように足を抱えなおした。

「二次会もめっちゃ盛りあがったよ。式には来れんかった人たちも来て、たのしかった」

「ナンパされませんでした?」

 結婚式は参加者が出会いを求める場でもある。普段の生活圏から離れた相手で、結婚を意識せざるをえない場所にいるのだから当然だ。ああいうとき、女性のほうが積極的な気がするのは思いすごしだろうか。服や化粧を、きちんと武装しているためか。

 飛紗はうっすら眉根を寄せて、考える様子を見せた。

「された、んかな? 男女三人同士で、遊びに行かへんかって誘われた。その日知り合った人に」

「それで?」

「普通に予定合わんかったから断ったけど」

 合ったら行ったのかどうか問いただしたいところだが、おそらく女性陣のほうは友人だろうから、聞くまでもなく、行っていただろう。付き合いもある。

「でも、ラインやけど、連絡先は交換した」

 もやっ、とした気持ちが腹の底から出てきたのを感じて、瀬戸は黙る。いつからこんなに狭量になったのか。連絡先を交換したことというより、何の疑問もなく飛紗がやりとりをして(何せ彼女は自分に異性から好意が向くことはないと思っている)、いやな目に遭ったりしないかが心配だ。それでも必ず守れると言えるほど、瀬戸はスーパーマンのつもりはない。

「そしたら、鷹村さんって下の名前、これなんて読むのって解散したあとに連絡きたから、ひさ、って答えたら、かわいい名前だね、飛紗ちゃんって呼んでいい? って言われて」

 ぎゃははは、と外から複数人の笑い声が響いてきた。おそらく中高生だろう。自転車にでも乗っているのか、声はすぐに遠くなった。

「めっちゃ気持ち悪いな、と思ってブロックしちゃった」

 思わずふきだしてしまう。ブロックされた男の心境を考えると、聞こえてきた笑い声のように大声をあげたい気持ちだ。

「そもそも自分の名前、そんなすき違うかったし。字面だけ見たら飛ぶ絹織物やで?」

 親が将棋ずきで、将棋の駒から一文字取っての名前だと前に聞いた。弟と妹の名前にもそれぞれ「香」「桂」の字が入っている。父親のいちばんすきな駒が飛車だったために長子の飛紗に当てられたらしいのだが、漢字ごとひっくるめてかわいいかと言われると、別にかわいくはない。音の響きはやさしいけれど。

「いまは違うんですか」

「いまは……瀬戸が呼んでくれる分には、きらいやない、けど」

 気を遣ってくれているのか、本音なのか、どちらにせよ特別だと言ってくれるのはうれしい。それでつい、困らせたくなってしまった。調子に乗るというのはこういうことだなと瀬戸は思う。

「飛紗ちゃんも私のこと、そろそろ名前で呼びますか?」

 えっ、と小さく呟いて、飛紗がこちらを見た。まったくの予想外だったとみえて、事態を把握できていないような顔をしている。

「呼んでみて」

 これで憶えていなかったら今度こそ声をあげて笑うな、とどちらに転んでも満足できる展開に瀬戸は意地悪く飛紗の一言を待つ。再会してしばらく連絡先は交換しなかったし、聞かれてもはぐらかしていたので記憶していなくてもおかしくはない。

 長い付き合いになるとは、正直なところあまり思っていなかった。初めて持った講義の、初めての学生で、楽をして単位を取ろうとしているのが透けて見える子たちに内容をどんどん厳しくしていったら、当然参加する人数が回を重ねるごとにごっそり減っていき、残ったたった五人のうちの一人が飛紗だった。その五人には試験の成績が悪くともどちらにせよ単位をあげるつもりではいたのだが、飛紗はきちんと勉強したと見えてしっかり解答していた。

 学生の名前と顔を一切覚えない(というより、はなから覚える気がない)教授が近くにいるが、瀬戸は反対に、関わった人の名前と顔を記憶するのが昔から得意だった。飛紗のことは特に印象に残っていたので、間に四年の月日が流れていようと、東京ではなく関西にいようと、確信を持って話しかけることができた。

 なにせ他の四人が必死でノートを取ったり、とりあえず参加している風なのに対して、飛紗は常に眉根を寄せてこちらを睨むように授業を受けていた。煩わしい、と顔に書いていたが、それ以上にまじめだったのだろう。

 それで、少しだけ興味があった。関西に来てから、たまたま最寄駅が一緒だったので、何度か見かけるようになり、夕飯に初めて誘ったときもただの気分だった。むしろ不服そうな表情を隠しきれないまま、了承した飛紗が意外だった。

 それがこんなことになるとは。結婚なんてこれまで想像もしてこなかったのに、七つも下の女の子を誰にもとられたくないと思ってしまった。甘やかしたいし、支えられたい。学生のときですらもう少し平静さを保った恋愛をしていた気がする。

「し、眞一……さん?」

 あ、憶えてる。

 初めて名前を呼ばれたよろこびよりも、意外さが勝る。てっきりもっと、憶えていたとしても自信なさげに言うのかと思っていた。

「うわ、すごい違和感。恥ずかしいんと気持ち悪いんとが同居して吐きそう」

 頬を押さえながら早口で言うのを見て、笑ってしまう。最近は親とも連絡をとっていないので、久々に人の口から自分の名前を聞いた。

「まあ、徐々に慣れていってください。別に呼び捨てでいいよ」

「瀬戸は年下のわたしのことをちゃん付けで呼んどるのに?」

「人前でだけ呼び捨てにしましょうか?」

 それはいい、ごめん、と丁重に謝られた。呼び捨てにすると飛紗が必要以上に照れることを瀬戸もよく知っている。切り札として持っていたほうが、都合がよいことも。

「ていうか、瀬戸って二男よね? なんで眞一なん」

 先日、親が離婚していることと一緒に、兄がいることを伝えたからだろう。聞いてきた飛紗に、家族の話はもう少ししなきゃなあと、他に比べると多少なりとめずらしい環境を思う。

「うちはみんな名前に一が入っているんですよ。父は晟一で、兄は聰一です」

「ふうん」

 そろそろ日が傾いてきた。寒くなってきたので窓を閉める。膝から下、脚を出して、飛紗は寒くないのだろうか。おしゃれは我慢とはよく聞くが、女性のファッションに関しては特に感じる。女子高生のミニスカートなど、タイツも穿いていない場合が多いので見ているだけで体が冷えるようだ。

「会うんよね、いつか」

 ぽつりと落とされた言葉に、改めて隣に座りなおす。

「不安?」

「わかんない。まだもっと漠然とした気持ち。瀬戸って親とかいるんや……みたいな」

 付き合っている相手の親に挨拶、というのは、瀬戸もまだ経験したことがない。飛紗が言わんとしていることはなんとなくわかる気がした。

「その前に私が飛紗ちゃんのご両親に挨拶ですけどね」

「ああ、そっか、どちらにせよそんときは名前で呼ばな、ああ」

 突然慌てたように顔を覆う飛紗を見て、瀬戸はその手をとる。指先がおそろしくひんやりとしていた。冷た、と考えるより先に言葉が口をついて出た。体を小さくするように座っていたのは寒かったためかと、ようやく気づく。足を触ってみれば、案の定もっと冷えていた。

「言ってくださいよ」

「んん、どちらにしろ冷え症やから、寒いのとはあんまり関係ないいうか」

「女性が体を冷やすのはよくないでしょう」

 油断をするとすぐ我慢してしまう飛紗に、もっとはやく気づいてあげられればと心のなかだけで嘆息する。これでもだいぶ素直に甘えてくれるようになったほうなのだが、ある程度甘えると申し訳なさが生まれてくるらしく、また遠慮する、そういうループに入ってしまう。

「……話すんたのしかったから」

 今度は瀬戸が顔を覆う番だった。心のなかではなく、盛大に溜息をつく。怒らせただろうかとこちらを窺ってくる飛紗を抱き寄せた。

「今日泊まっていってください」

「え」

「覚悟してください、ほんとに」

「え?」

 状況を飲みこめていないのには気づいているが説明などせず、頭を首元にうずめる。

 以前に買ったラックには、すでに急に泊まるのに充分なだけの服などが入っている。明日が休みなことも知っている。つまり、不都合だとは言わせないだけの材料があった。

「それで、一度でも名前を呼べたらゆるしてあげます」

 一度離れて前髪を耳にかけてやると、やっといろいろ把握したらしい飛紗が、かっと顔を赤くさせた。

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