甘美

 基本的に敬語を使う瀬戸の口調が、たまに崩れるのがすきだ。瀬戸は生まれも育ちも東京なので、こちらにはない響きがきつく聞こえることもあるが、普段丁寧な分、粗野な感じが瀬戸っぽくなくておもしろい。これがいわゆるギャップ萌えというやつだろうかと、飛紗は最近店舗の子に教えてもらった言葉で考える。

「乱暴なこと言ってみて」

「はい?」

 ベッドを背もたれのようにして座っていた瀬戸が、寝転んでいる飛紗のほうに振り返る。本を読むために普段はしていない眼鏡をかけていて、これは間違いなくギャップ萌え、と心躍るのを感じた。

「なに、乱暴なことって」

「いまみたいに、敬語やなくてしゃべってみて」

 ああ、そういう、と瀬戸は納得したようなしていないような顔をして、本をとじた。それとともに眼鏡も外し、前方のテーブルに放り投げる。もう少し見ていたかった、残念。

「難しいことを言いますね」

「難しいん?」

「まあ、普段と違うことをするっていうのは、それだけで窮屈じゃない?」

 窮屈。ベッドから降りて、瀬戸の隣に座る。頭を肩に載せると、つけていないテレビに光の反射で二人の姿がぼんやり映るのが見えて、なんだか気恥ずかしくなる。目に入らないように、瀬戸のほうへもう少し傾けた。

「めずらしく甘えたですね」

 頭に唇を落とされて、照れ隠しをするように頬を押しつける。瀬戸はすぐこういうことをする。「恋人」の距離を使う。周りから見ればもうとっくに飛紗も瀬戸に対して「恋人」の態度をとっているだろうことは重々承知なのだけれど、それでもまだ、慣れない。

 学生時代、女子校なのにみんなどこで彼氏を見つけてくるのだろう、そんなにほしいものだろうかと思っていたけれど、どうもあの経験は必要だったらしい。恋愛の「なんとなく」が、頭の引き出しに入っていない。これで大丈夫かどうか、確認作業ができない。

「わたしがいろいろ慣れてへんから、窮屈な思い、させとる?」

「私が飛紗ちゃんに不満を抱いているかという話なら、ありませんよ」

 語尾に重ねるように即答されて、頷くしかない。

 そういえば、私、という一人称も、仕事以外で使う男性に会ったのは初めてだ。父も弟も、「僕」か「俺」を使っている(もっとも、弟のほうは久しく口では聞いていないが、「私」を使っているということはないだろう)。

「いつからその口調なん?」

 やはりというか、飛紗の隠れていた耳を露わにして愛撫してきた瀬戸に、ぴくりと体が反応する。会うたびに触られるので、耳というと瀬戸を思い出してしまって、髪をかけて表に出すと落ち着かなくなってしまった。

「小学校三年生くらいかな。親が離婚してからなので」

「えっ、そうなん?」

 思わず頭を上げる。瀬戸の家族について、ほとんど知らないことに気づいた。結婚を前提にとは言っても、双方のことを改めて説明したことはないし、聞いていないのだから当たり前と言えば当たり前だ。

 瀬戸はあまり自分のことを話さない。そういうところで、人との壁をうまく形成しているのだろう。はなから他人に近づく気がないのだ。かつて苦手だと感じていた部分である。

(やけど、わたしが聞いたら答えてくれる)

 じわ、と広がった優越感に、飛紗は不安になってまた瀬戸の肩に頭をうずめた。

「兄は母に、私は父に引き取られたんだけど、住んでいた家は父のものだったから、母が兄を連れて出ていく形だったんですよね。それが何か、置いていかれた、と感じて。いい子じゃなかったからかなと思って、大人に近づこうとした結果というか」

「さびしかったん?」

「まあそうですねえ、当時はね」

 いまの瀬戸はさびしそうでも家族のことを気にしている様子でもないが、思うところは何かあるのかもしれない。平気そうに見えるからといって、平気とはかぎらない。飛紗はそれをよく知っている、つもりだ。弟のことが思い出される。

「がんばったんや」

 腕を絡めて手を握れば、頬をとられて口づけられた。長く(と、飛紗には感じた)唇を重ねたあとに、下唇をなぞるように舐められ、思わず握っていた手に力が入る。うつむいてしまって表情は見えないが、瀬戸が愉快そうにしているのが空気で伝わってきた。

「逃げなくてもいいのに」

「逃げとらん、……し」

 声が小さくなる。

「飛紗」

 腰に炭酸の泡が現れて、何度も背中に向けて上ってきては絶え間なく小さく弾け始める。この感覚はもう知っていた。

「できるだろ」

 ずるい、と言ってみるが、当然効果はなかった。こともあろうか耳元で言われて、逆らえるはずもない。一枚も二枚も、瀬戸のほうが常に上手なのだ。



「ああいうことでよかったんですよね?」

 はい、とペットボトルの水を手渡しながら、瀬戸が言う。瀬戸の家にお茶はなく、飲み物といえば常に水だ。日によっては冷蔵庫にビールや焼酎が入っているが、あまり飲まないらしい。

 受け取って、一口二口、咽喉を潤す。ペットボトルを離した隙に軽く唇を重ねられて、映画みたいだ、と思う。

 熱っぽい頭のまま、ゆっくり頷く。ギャップ萌え、かどうかはともかく、破壊力はあった。しばらく体験したくない。

「そういえば、最初は飛紗ちゃん私に敬語使ってましたよね。当たり前だけど」

 大学時代の半期だけとはいえ、講師と学生の関係だったので、当然、当時の飛紗は瀬戸に敬語を使っていた。卒業して四年後に関西で再会してから、会う回数を重ねるごとに敬語はなくなり、「瀬戸先生」だった呼び方が「瀬戸さん」になり、最終的に「瀬戸」になった。飛紗からすれば、そうなるように瀬戸に誘導された、としか言いようがないのだが、あの感覚は人に説明できるものではない。とにかく瀬戸は、人との距離を操るのに長けている。

「使ってほしいんやったら使うけど」

「遠慮しておきます」

 飛紗からペットボトルを受け取って、傾けながら言う。自分は敬語を使うのに、使われるのはいやなのか。思っていると、同じことを聞かれた。

「飛紗ちゃんこそ敬語使われるの、いやですか? それならなんとか、気をつけてみるけど」

「ううん、別に」

「そう?」

 あくまで普段敬語の瀬戸の言葉が、たまに崩れるのがすきなのだ。相手に丁寧に、というよりは、単に口調の一つでしかないことを理解しているので、気にしたことはない。それこそ再会したばかりのころは、自分の抜けていく敬語に対して、目上の相手に敬語を使われて、居心地悪く思っていたけれど。

 飛紗は瀬戸の膝に頭を載せるように横になって、ぎゅ、と服の裾を握る。

「どうしたんですか、今日は」

 やさしい声が降ってきて、なでられた。心地よさに瞬きがゆっくりになる。体の疲労感も相まって、とろりとした眠気が飛紗を包み始めた。そのおかげか、普段はなかなか思っていても言えないことが口をつく。

「甘えたりへん」

 もっと触りたいし、触られたいし、くっついていたい。そのためには溶けて一つになってもかまわない。

 こんな気持ちが自分のなかに潜んでいるなんて、瀬戸と会うまでは知らなかった。末っ子らしく気ままに親にねだり大人にかわいがられる妹を見ながら、一歩引いて周りを観察し、なんだかんだとうまく立ちまわる弟を見ながら、「女の子」を武器にする友人知人を見ながら、自分にはできない、と感じていた。自分ひとりで立っているしか方法がないと思っていたはずだ。

「それはいいことです」

「ええかどうかはわからんけど」

 いつか際限がなくなって、底なし沼のようにどこまでも求めてしまうようになったりはしないだろうか。我儘は一度覚えると、無意識でもどこかで味をしめてしまう。自分のことばかりになって、今度こそ瀬戸にもらうばかりで、何も返せなくなってしまい、そのうえそれに気づくこともできなくなってしまうのではないだろうか。まどろみながらも、恐怖が近寄ってくる。

「じゃ、言い方を変えましょう。私はうれしいです」

 あ。

 飛紗は裾を握っていた手を瀬戸の腰に回して、顔を隠すように体を下に傾ける。またそうやって、すぐわたしをすくってしまう。思考回路を見抜かれているのか、反応もばれていると見えて笑いを含んだ空気が瀬戸から流れてくる。

「飛紗ちゃんのことを、もっとでろでろに甘やかしたいと思ってるんですよ、私は」

 でろでろに、と口のなかだけで繰り返す。飴玉を転がしているような甘さがあった。

「そもそもしっかりしているひとって甘やかしたくなるんですよね。すきならなおさら」

「すき」

「そう。すきだよ、飛紗」

 不意打ちに、びくっと体がはねた。足の指でシーツを掴む。頭上から、はは、とついに笑い声が聞こえてきた。

「耳まで真赤」

 さら、と髪をかけられて、縁をなぞられる。いつまでもこんな調子で、いまはふたりで会ってばかりだからまだよいけれど、誰かと一緒のときもこんな風に照れたりしていては恥ずかしい。きちんとしていられるだろうか。もちろん瀬戸も、別の誰かが他にいれば多少なりと態度や言動は変わってくるのだろうけれど、こんな姿、たとえば弟になんか絶対に見られたくない。向こうも見たくないだろう。

「ねえ、そろそろキスのひとつもしたいんですけど」

 耳から輪郭をなぞるように、顎に向けて指が流れてくる。そのまま首に下りて、鎖骨に触れたあたりで飛紗は慌てたように飛び起きた。欲をたたえた双眸と目が合う。

「……えろおやじみたい」

「まあ年齢的にはいい加減おっさんですし」

 わかっていたが、嫌味など瀬戸に通用しない。それどころか「ごめんね」などとまったく悪びれもせず謝られる。

「瀬戸、すぐ……するよね。海外ドラマみたいに」

「何を? キスを?」

 飛紗が羞恥で伏せたところをしれっと言い放って、瀬戸は前髪をかきあげる。ああ、いまのかっこいい。そう思ってしまったことがなんだか悔しい。惚れた弱味、と最初に言ったのは誰なのか、あまりにも的を得すぎている。

「するのはわりとすきですね。飛紗ちゃんの顔は目の前にあるし、反応が全部わかるし、かわいい」

「そういうんは言わんでええの」

 ぎゃあ、とでも叫びたくなるのを堪えて言う。

「聞かれたのかと思って」

 言っている間に瀬戸の顔が近づいて、唇が重なった。いままで瞼をぎゅっと瞑っていたが、初めてうっすらと開けてみると、文字通り目の前にある瀬戸の瞳と視線がぶつかって、ほほえむように目を細められた。驚きながら、睫毛長い、と冷静に観察している自身もいた。

「悪趣味」

 思わず口をついて出る。唇はくっついていても話すことは可能なのだと知った。

 瀬戸は笑うだけで答えず、深く求めてきたので、それ以上は何も言えなくなった。腕が勝手に瀬戸の首に絡まる。

「恋人、って、すごい」

 また腰のあたりに泡を感じながら呟いた。瀬戸のことしか考えられなくなって、しかもそれがゆるされて、そのうえよろこばれる。奇跡だ。

 頭が熱を持って呆けていると、抱きしめられた。きもちがよい。

「だから私には、もっと無責任に我儘言っていいんですよ」

 これはわたしにしか向けられない声音だ。思ってから一瞬、うぬぼれだろうかと考えたけれど、さすがに特別扱いされていることを理解している。飛紗は素直にはい、と頷くと、さらにつよく抱きしめられて、しばらくこのままでいたい、と目を閉じた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る