美人

 恋愛感情を差し引いて見ても、飛紗は美人だと瀬戸は思う。髪はさらさらできちんと手入れがされていて、偶然ばったり会ったときもいつもきれいに化粧をしていて、爪は整えられているし、アパレル系に勤めているだけあって服のセンスがよい。ヒールを履きこなして姿勢よく歩いている姿はぱっと見少し気がつよそうだが、目を引くものがある。だらしないときがないのだ。すれ違った男が振り返る姿を、何度か実際に目撃している。

 それなのに、飛紗にまったくその自覚がない、というのが、驚異だ。卑屈でも謙遜でもなく、発想すらないらしい。本人は中学校から大学まで女子校だったから、などと言っているが、飛紗はむしろ男性より女性に受けそうなタイプである。その理論は通用しない。

 待ち合わせしている時計台の下に、すでに飛紗が待っていた。芸能人ではないので飛紗のことなど気にしていない人のほうが当然圧倒的なのだが、それでも近くに立っている男がちらちらと気にしているのが遠目にわかる。このあたりは有名な歌劇団の団員がいてもおかしくないから、もしかすると勘違いされている可能性もあるが。

「飛紗ちゃん」

 飛紗は読んでいた文庫本から目を上げて、瀬戸を認めると少し表情を和らげた。

「お待たせしました」

「待つって最初からわかってたから」

 文庫カバーについているスピンでしおりをしながら、なんでもないように言う。今日は飛紗は休みで、瀬戸は午前中学会があり、何時に終わるかはわからないという話はしていた。それでもいいと言ってくれたので、めずらしく待ち合わせをして、会うことになった。

 結局もう三時だ。電車から降りてきた人がさまざまな方向に流れていく。

「久々にいろいろ見てきて、おもろかった。当たり前やけど、狙っている年代や商品の傾向ごとに、そのブランドの色が見えへん店ははやらんね」

 ビジュアル・マーチャンダイニング、通称VMDを職業にしている飛紗らしい発言だ。本人いわく、その入口に立ったところであり、まだまだ勉強中らしいが、瀬戸は店舗の色なんて考えたこともない。

 箪笥のなかは自社製品と他社製品で分けていると聞いて、アパレル勤務も大変だなと思う。服が散乱している自身の部屋を思い出し、瀬戸は素直に感心した。もっとも、瀬戸にとっての商売道具である資料類も、同じように部屋に散乱しているのだが。

「何かごはん食べたん?」

 一二時に終わるはずの会が延びての終了だったので、弁当も用意されておらず(予算もない)、まだだ。その旨を伝えると、とりあえずどこかに入ろうということになり、改札を出る。

「学会やのに、そんなカジュアルな格好でええの? 前スーツやったやんな?」

「ああ、今日は若い研究者だけの会でしたからね。堅苦しいのはみんなきらいなんですよ」

 体裁を保つために、とりあえず襟がついている服さえ着ていればいいだろう、という考えだ。しかしワイシャツにカーディガン、シャツをズボンのなかに入れずに学内を歩いていると、案の定学生に間違われた。童顔な自覚はあるが、いい加減笑ってしまう。会場が大学院だったことも一因だろう。

「それよりさっき、なに読んでたんですか?」

 人の流れに合わせて、ショッピングモールへと続くムービングウォークに乗る。ほとんどの人がせっかちに歩いていくなか、先に乗った飛紗が立ちどまってこちらを振り向いたので、瀬戸も足をとめた。隣を高校生らしき女の子たちが騒ぎながら通りすぎていく。

「『命売ります』」

「三島由紀夫の?」

 ある日突然死ぬことにした主人公が、自らの命を商品に商売を始める話だ。やたらと恰好つけで、決めたのならば一人でさっさと死ねばよいのに、それではだめらしい。たかだか一度自殺に失敗しただけで、自殺は手段から除いてしまう。

 中学生のころ、『金閣寺』も『潮騒』も読まず、初めて読んだ三島由紀夫が『仮面の告白』だったことを思い出す。父の感情を輪郭だけでも理解できないかと手にとったのだが、読破した当時感じたとおり、いま思い返してみても、無意味とは言わないがさほど効果はなかった。

「やっぱり知っとるんや。もう読んだん?」

「飛紗ちゃん前、前」

 ムービングウォークが一度途切れ、こちらを向いていた飛紗が軽く躓く。こけないように支えると、照れ隠しに笑うというより、苦々しい気持ちをごまかすように笑った。三兄弟の長子だからか、自分が守られることに慣れていないところがある。しっかりしている自分、が当り前なのだ。

 道なりにあるもう一つのムービングウォークに乗り、飛紗がこれ以上気まずく思う前に会話を続ける。

「読みましたよ。主人公は何とも言えませんが」

「そうなん? 読み始めたばっかりやけど、わたしわりとすきかもしれん」

 それは意外だ。気障で自分に酔っていて、自身の目的のために他人を巻きこむような性格は、飛紗がいちばん眉根を寄せそうな気がする。

「ちょっと瀬戸に似とる」

 今度はきちんと前を確認して降り立った飛紗が、ふふ、と愉快そうに笑う。

 そう言われてしまうと、それ以上は何も言えない。瀬戸はあいまいに相槌を打って、首をかいた。

「照れとる? 照れるん? 瀬戸って」

「いや、何度も見てるでしょ照れてるところ」

 たまにロボットか何かと思われている気がする。距離を詰めて顔を覗きこんでくる飛紗がいたずらっこのような表情で、思わず瀬戸も笑った。

 すると、あっ、と大きな声が聞こえて、二人で声の方向を向く。前方で知った顔がこちらを見ていた。歴史学科の学生たちである。声の主は彼ららしい。勤務先の大学が近いと、なるほどこういうこともある。

「瀬戸先生。こんにちは」

 寄ってきた学生に、飛紗は気持ち下がって待機の姿勢をとった。話そうと思えば話せるはずだが、黙って待つつもりのようだ。しかし好奇心旺盛の大学生、それも集団が見逃すはずもなく、わいわいと騒ぎ始めた。

「えっ、先生デート?」

「やばい、かわええ」

「めっちゃ美人やん」

 素直すぎる反応に、飛紗がどうしたらよいのかわからず困惑している。それこそ女子校育ちで、男子大学生のノリを知らないためだろう。歴史学の男なんて他に比べればおとなしいほうだと思うが、比較対象のない飛紗にはわからない話だ。

 それでも職業柄、販売員もしていたらしいので、笑顔をつくってこんにちは、となんとか応じた。しかし何がすごいのか、おおっ、と一挙一動反応する学生たちに怯えて、飛紗が隠れるように寄ってくる。

「わかってるなら邪魔しないでください。お望みならいくらでも評価厳しくしますよ」

 しっしっ、と追い払うように手を動かすと、「職権乱用!」「これ以上厳しくされたら落とすやん」と口々にしゃべりだした。

 じゃあ失礼します、と頭を下げて賑やかに退散していくなかで、

「先生、奥さん?」

 という声がすれ違いざま聞こえてきた。

「そうです」

 振り返ってにやりと笑ってみせると、またどっと騒ぎ出すのが伝わってきたが、無視をして足を進める。

 ぐい、と肘あたり、服を控えめに引っ張られて隣に目を向ける。飛紗が茹でたこのようになっていた。恋人や彼女という言い方にも慣れずに、居心地悪そうにするが、奥さん、ではこんな風になるのか。おもしろい。

「すごい顔ですね。写真に撮りたいくらい」

「違うやん、そうですって、そ、瀬戸」

 怒ったように勢いよくこちらを見た飛紗は、照れすぎて涙目だった。笑いが堪えきれず、口元を手で覆う。ほんとうに写真を撮ってやりたいくらいだが、そんなことをしたらどうなるかわからない。

 頭をなでてやると、瀬戸! と大きな声を出され、ついに声を出して笑ってしまった。周りの人々が少しだけこちらに注目し、また各々足を進めていく。入口の自動ドアを超えると、クーラーが利きすぎて一気に体が冷えた。いまの飛紗にはちょうどよいかもしれない、と普段は白い首が真赤になっているのを認めて思う。

「違うんですか」

 飛紗は反論しようと口を開きかけて、握った手を震わせながら一文字に閉じた。感情を整理できない、と顔に書いてある。ここでかわいい、などと言ったら怒るだろうな。結局瀬戸はこの、七つも下の女の子にぞっこんなのだった。

「もういい」

「違わないでしょう」

 先に行こうとしたところを後ろから、肩を組むように軽く押さえる。そのまま普段は髪に隠れている耳をつまむと、何かのスイッチのように飛紗は足をとめた。

「奥さん、になってくれるんでしょう。私の」

 二人が立ちどまっている間にも、両脇をどんどん人が通りすぎていく。さすが休日とあって、ショッピングモールに来た人と帰る人と、どちらが多いかわからないくらい、人の出入りが激しかった。別の学生に会っても、それどころか教員に会ってもおかしくないなと考えていると、飛紗がふっと肩の力を抜いた。うつむきがちに瀬戸を見て、

「……うん。なる」

 と、人混みに消え入りそうな声で呟いたので、思わず抱きしめそうになるのを堪える。

 こういうところが、ほんとうに、油断ならない。

「私のところの学生じゃなくて、あなたの同僚が通りがかりませんかね……」

「?」

 贔屓目は承知で、一人くらいは飛紗に思いを寄せている気がする。いたとして、飛紗は思いに絶対気づいていない。誰か、特に女の子が目撃してくれれば、明日にでも噂は駆け廻るだろうに。

 こんな過保護な気持ちになったのは初めてだ。他人に心乱されるなんて面倒極まりないと思っていたが、思いのほかたのしく、うれしい。

(初めて恋した中学生か私は)

 でもまあ、似たようなものかもしれない。初恋ではないにせよ、こんなにひとを愛しく感じているのは覚えがない。別の相手に、ひたすらに恋焦がれていた日々を忘れたわけではないのだけれど。

 そしてまた、これまで経験がなかったと言うだけあって、飛紗の反応が基本的にすべて初々しいのだ。過保護にくらいなる。

「ごはん。飛紗ちゃんはデザートのほうがいいですよね。行きたいところはありますか」

「お寿司」

「まったく軽くないもの言うね」

 力強く即答されて、了承するとぱっと顔を輝かせた。一店舗だけ入っている回転寿司に向かう。お昼は食べたが、軽いものにしたのでお腹がすいているのだと言う。一応学会は一二時までと伝えていたので、終ったら一緒に行こうと思っていてくれたのかもしれない。

「行ってみたかってん。いっつも並んどるから」

 痩身で小柄なわりにやたら食べる飛紗の弟の彼女に、感化されているような気がする。飛紗も細すぎるくらいなので、食に興味がわいたのならよろこばしいことだ。服を買いたい、と思わせるために、店員の見た目は大事らしい。店舗に常駐しているわけではない飛紗ですらそこまで気にしているのだから、常に店に立っている彼女たちはどれだけの努力をしているのかと頭が下がる思いだ。どこにでもプロフェッショナルはいる。

「美人、て言われた」

 ぽつんと落とすように言うので、聞き逃すところだった。目的の階について、飛紗の隣に行く。三時を過ぎていても食事どころはどこも混んでいるように見えた。

「飛紗ちゃんは美人ですよ」

 だからもう少し自覚を持ってほしい。わりと切実に。

「いやそういうんはええんやけど」

 早口でばっさり切り落とされ、ええ、と思わずまぬけな声が口をつく。

「そうやなくて、瀬戸と並んでて遜色なく見えてるんやったらええな、って」

 自信がない、わけではないと思うのだが。

 本人が言っていたように、恋愛について無関心だったせいなのか、憧れはしても無縁なものだと考えていたからなのか、わたしなんかでほんとうによいのだろうか、という疑問が、飛紗のなかで浮かんでは消えているらしい。

「……私イケメンですしね?」

「顔だけね」

 それとも不安にさせているのは自分なのだろうか。自分自身の魅力は可もなく不可もなく、把握しているのがもっとも楽だと知っている瀬戸としては、正直なところ飛紗の悩みは悩むだけは無駄だと思う。人の心は移ろうものだと言っても、現状飛紗以外のことは考えられないし、もし同じように考えてくれているのなら、それで充分のはずだ。

 だけどそう考えてしまうのも否定したくはないので、わかってもらえるまで言い続けるしかない。最悪わかってくれなくてもいいので、いやになるくらい言い続けたい。

 突然ぴょん、と飛びだすように瀬戸の前に立った飛紗が、くるりと振り返って瀬戸を見つめた。

「嘘。かっこええよ瀬戸は」

 言って、逃げるように走って寿司屋の前にある紙に名前を書きに行く。

 出かけるたびにこんなことでは感情が抑えきれない。常々感じていたことだが、やはり飛紗にだけは一生かなわない気がする。

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