なんでもない日々

葉生

合鍵

 いつでも入っていいですよ、と言われて、渡された鍵をお守りのように持っている。飛紗が認識しているかぎり、瀬戸は言動が狭められるのをきらうひとだ。たとえば鍵をもらうことによって、飛紗が連絡なく部屋に上がる、その日ひとりでゆっくりしようと思って帰ってきた瀬戸がげんなりする、そういう事態が考えうる。そういうの、いややろう。聞いたら、そういうの、飛紗ちゃんは気にしなくていいんです。と返された。

 前は瀬戸相手に気遣うことなんて、ほとんどなかったのに。一度好意を受けると、拒否をされるのがこんなにも恐怖になるとは。

(いや、逆やな)

 好意を持ってしまうと、拒否をされるのがこんなにも恐怖なのだ。応えてもらえた幸福を、どうしても手放したくない。

 もっと安易に浮かれることができたなら、かわいげのある女でいられたかもしれない。と、わかっていても、簡単に変えられたら苦労はしない。

 ないないばかりで、考え方が基本否定的なことも、いい加減改めたいと思っているのだが。

 握りしめていた手を、そっと開く。キーホルダーも何もつけておらず、丸裸の鍵が顔を出す。思っていた以上に力を入れていたのか、手の平には鍵の跡が残っていた。指がじんとする。嗅いでみると、真鍮特有のいやなにおいが鼻腔をつついた。

 ゆっくりとドアノブをひねってみるが、開かない。やはり来る前に連絡を入れておけばよかった。後悔先に立たず。しかしドアの前で逡巡し続けていても不審であるし、ここまで来てしまったのだからもはや致し方ない。

 覚悟を決めて鍵穴に鍵を通すと、ほんとうに入ってしまった。流れでひねると、かしゃん、と音がして、ほんとうに開いてしまった。当然のことに驚く。

 お邪魔します、と小さく呟きながら、飛紗はドアを開ける。

 最近はずっと忙しかった。

 そもそも瀬戸は大学の専任講師で基本的にはいつでも多忙なのだが、飛紗も繁忙期に入り、時間も合わず、駅でばったり会う、ということもなくなっていた。電話、ライン、メール、手段はたくさんあるはずなのに、いざ画面を前にするとどうしたらよいのかわからなくなり、たまにくる瀬戸からの電話を待つだけで、日々は過ぎていった。

 それで今日、久しぶりの休日に目が覚めると、なんだかふと、会いたくなってしまった。

 五分でいいから、顔が見たい、と。

 その五分が朝方になってもいいように、明日の出勤用のスーツと鞄、化粧品だけ手にして、気づけばここまで来てしまった。何かもっと、瀬戸のためにできることがあるだろうに、自分の都合だけ考えていた事実に今さらながら自己嫌悪だ。

 玄関の向こう側、いまは室内のドアで奥は見えないが、リビングは明るかった。昼前だというのに電気がついている。鍵は閉まっていたが、いるのだろうか。悪いことでもしているかのように、そろそろと音を鳴らさないよう、足を進めていく。

「せ、瀬戸……」

 リビングに顔を出すと、テーブルに鞄とジャケットが無造作に置かれていた。職業柄、皺になる、と飛紗はそれまで隠れるようにしていたのも忘れ、慌てて手に取るが、もはや手遅れな気がした。アイロンをかけないと不格好だろう。

 それでも一応椅子にかけなおしてさらに奥を見ると、ベッドで瀬戸が倒れていた。足元には靴下とネクタイが放られている。これだけでも、と思って脱いだのが、手にとるようにわかる。カーテンが閉められているので、夜中にでも帰ってきたのだろうか。

 毛布もかけず、体を投げだすようにして瀬戸は寝ていた。見たことがないわけではないが、瀬戸も寝るのか、と思う。当たり前のことが当たり前ではない男なので、寝る必要がないと言われてもおそらく驚かないのだけれど。

 ねむっていてもわかるくらい、疲れた顔をしている。いつもラフな格好なのにめずらしくワイシャツとスーツズボンを着ているあたり、学会でもあったのだろうか。

 自分のことに関して、瀬戸は案外ずぼらだ。だらしないとも言う。典型的な片づけられないタイプで、服も本も筆記具も紙もすぐそこらへんに投げおいて、足の踏み場をなくす。リビングとダイニングだけはなんとか体裁を保っているが、ドアを挟んだもう一室は、いつ来てもひどい。食べ物と洗濯物を放置しないだけましかもしれない。初めて来たとき「魔窟」と言われ、部屋に入れたくないからそんな物言いをしているのかと考えたものだが、まさに魔窟だった。きっちり片づけるタイプの飛紗からすれば、衝撃であった。

 ベッド脇に座りこんで、飛紗は瀬戸の顔を眺める。五分、五分だけ見たら帰ろう。疲れているのなら起こさないほうがよいし、冷蔵庫を勝手に開けて置き土産をつくるのは憚られる。そもそも「冷蔵庫にあったもので簡単に」できるほど、飛紗は料理の腕が高くない。

 そっと頬に触れる。うわあ、触れた、と感動した。いちいち間抜けなことは自覚しているが、思わずにはいられない。

 するとゆるやかに瀬戸の目が開いて、飛紗はびくりと手を離す。心臓が飛び跳ねた。声は出なかったが、心のなかでは短く悲鳴をあげる。

 瀬戸は何度か瞬きをして、少しだけ驚いたように目を丸くした。しかしまだ頭が覚醒していないらしく、小さくうなる。

「ああ、そういう……こういうことも、あるんですね、なるほど……」

 やっぱり邪魔だっただろうか。

 疲れて寝ているところを起こすなど、同じことを飛紗がされれば、もっと露骨にいやな顔をしたに違いない。

「ごめん、起こして。すぐ帰るから、寝ててええよ」

 五分と言わず、寝ていると気づいた時点で踵を返すべきだった。ゆるされるだろう、という驕りが、確かにあった。自分は困らないよう、明日の準備まで持ってきて。押しかけ女房もいいところだ。

「帰るの?」

 甘えたような声に、上げかけた腰が中途半端な状態でとまってしまう。あの瀬戸が、こんな声。反則だ。

「帰らないでください」

 腕を掴まれて、そこだけ熱を持ったように熱くなる。ねむそうにしながらも、眉根を寄せてなんとか重い瞼を持ちあげている瀬戸を見ていると、振り払うことなどできるわけがなかった。観念して、再び腰を下ろす。

 そんな飛紗を確認して小さく頷きながら笑うと、瀬戸の瞼はゆっくり落ちていった。

「でも、もう少し寝かせて……」

 ついに瞼はぴったりくっついて、すうすうと寝息を立て始めた。飛紗は再び眺める態勢に入る。

 つり目に垂れ気味の眉、顔だけはほんとうに整っている。だからこそ何かを言えばうさんくささが増し、容赦のない性格がなおさら浮き彫りになるのだけれど。大学時代、そういえばこの顔につられて授業をとった子がほとんどだったな、と髪をなでる。そして顔につられたほとんどの子は単位を見事に落とされていた。専攻ではない、卒業のためだけに取ったつもりの授業で苦労させられては、反感は買い放題だ。

 眺めているうちに案の定つられてねむくなり、そのままベッドに突っ伏す。最近仕事で気がかりなことが多すぎて、寝るときもどうしようか、どうするか、そればかり考えていたが、瀬戸の顔を見たらなんだか安心してしまった。腕から離れた手に手を重ねて、穏やかな気持ちで目を閉じる。

 ぱちり、と目を覚まして、混乱する。いまねむりに落ちた、と認識した次の瞬間に起きたような心地だが、時計を見ると三時間経っている。それになんだか温かい。そうだ、瀬戸の家に来て――がばりと勢いよく体を起すと、そこに瀬戸はいなかった。代わりに後ろから声が聞こえた。

「起きた?」

 ワイシャツからTシャツ、スーツズボンからチノパンに着替えている瀬戸が、ペットボトルで水を飲みながらこちらを見ている。

 ベッド脇で突っ伏していたはずなのに、いつの間にか布団で毛布にくるまっていたことに気づいた。瀬戸が運んだ、以外にありえない。疲れている相手の家に連絡もなく乗りこんで、ベッドを占領していたなんて図々しいにもほどがある。さっと血の気が引いた。

「考えていること、手にとるようにわかりますね。気にしなくていいよ」

 はい、と今度は瀬戸がベッド脇に座って、ペットボトルを差し出される。おずおずと飲んで返すと、瀬戸は蓋をしめて足下に置いた。あとで回収しないと、いつまでもそこに放置される気がする。

「髪、ぼさぼさ」

 手櫛で整えられて、恥ずかしい気持ち以上に、久方ぶりの瀬戸に感動してしまう。動いて、話して、触ってくれている。遠距離恋愛でもないのに。それどころか、最寄駅まで一緒で、歩いて行ける距離であるのに。

(もっとはやく来ればよかった)

 鞄に仕舞った合鍵を思い出しながら、飛紗はうつむく。飛紗は実家なのでそう軽々しく瀬戸は来られないし、時間も手土産も気にせざるをえない。もっと積極的に行動すべきは、わたしのほうであったのに。

「飛紗ちゃん」

 頬と頬をすり合わせるように、瀬戸の顔がすぐ隣にきて、飛紗はかすかに体を震わせた。きもちがいい。ゆるされているって、どうしてこんなに快感に姿を変えるのか、わからない。

「忙しいのに、来てくれてありがとう」

 羞恥で顔が赤くなる。体を離すように肩を押した。

「や、わたし、自分のことしか、考えてへんから。五分だけって、思ったのに、それも守れんかったし……」

「でも会いたかったし?」

 指摘され、さらに顔が熱くなる。

「私もね、すごく会いたかったんです」

 耳たぶをすりすりとなぜられて、腰のあたりからぶわっ、と何かが駆けあがった。瀬戸は耳を触るのがすきらしく、顔を近づけると必ずと言ってよいほど耳たぶを柔らかく愛撫する。めったに他人に触られない箇所なので、耳といえばいつも瀬戸を思い出してしまう。

「顔、あげて」

 言われるがままに、そろそろと顔をあげる。何をされるかなんて聞かなくてもわかった。予想どおりちゅ、と音を立てながら唇を重ねられて、倒れこむように瀬戸の胸に顔をうずめる。「恥ずかしい」が二乗三乗になって、他のことが考えられない。

「かわいい」

 腕を背中に回しながら言ってくる瀬戸に、いよいよ言葉まで失ってしまった。簡単に言ってくれる。口紅を変えたことだとか、爪を塗りなおしたことだとか、靴を新調したことだとか、細かいことまで褒めてくれるのが瀬戸だ。牽制しあうのが常の女同士だって、あんなに気づくかはわからない。

 顔だけは整っているにしてもなぜもてるのか、と思っていたが、いまなら納得できる。やはりどうしても、うれしい。自分にだけではないにしても。

「すき」

 思わず出た一言だったが、瀬戸の耳にしっかり届いたらしい。髪をすくようにしてくれていた手が、一瞬だけかたまった。

「そんなこと瀬戸に思う日がくるなんてまったくちっともさっぱり思っとらんかったけど」

「言いますね」

 ふっ、と鼻に抜けるような笑い声が降ってくる。彼としてはそう思われていたこと自体が特に意外ではなく、かつわざと大仰に言っているのをわかってくれているのだろう。

「どうしよう、すごく、すき」

 どうしても、すき。

 恋愛も結婚も、なんとなく無縁のものだと感じていた。ましてその相手が瀬戸だなんて、五年前の自分が聞いたらたちの悪い冗談とあしらって話すら聞いてはもらえないだろう。いや、あしらってくれるのならよいほうで、冗談でも口にしないでと拒否されるかもしれない。

「すき」

 ぎゅうう、と手に力を込める。もっと何か、熱量や思いを適切に伝える手段があればいいのに、他に口から出てこない。そもそも、恋愛感情なんか言葉で説明ができないものなのかもしれない。気持ちのあふれた分だけなんとか拾って、「すき」に変換して相手に渡しているだけなのかもしれない。

「痛い痛い」

 瀬戸の主張に、ぱっと力を抜いて、口づけた。さすがに面食らったらしい瀬戸が、そのまま後ろに倒れこんだのにつられて、一緒に倒れる。

「すごい、恋人っぽい。いま」

「恋人じゃないですか……」

 瀬戸は何人くらいと付き合ってきたのだろう、と思う。これでも三〇を過ぎているから、経験ゼロの飛紗に比べれば、断然経験豊富に違いない。というより、瀬戸が経験ゼロだといやだ。気持ちが悪いと言ってもよい。きっと女の子のほうが先に瀬戸をすきになって、告白をして、告白をされたときにフリーだったら了解して、付き合い始めて、女の子のほうがいつまでも瀬戸との間に壁を感じて別れを切り出す。きっとこのパターンだろう。

「四人くらい?」

「何が」

「これまで付き合ったひと」

「なんでそんなこと考えているんですか」

 はあ、とため息をつく瀬戸の胸に、顎を載せる。膝から下をぱたぱたと動かして、やがてぱたん、と完全に瀬戸へ身を預けた。耳に心臓の音が、体に呼吸のリズムが伝わってくる。温かくて、ほっとした。

「なんでやろう。別に何人でもええんやけど、なんか、たぶんなんでも、知りたいんやと思う。人から瀬戸について何か言われたり聞かれたりしたとき、そのひとよりわたしのほうが知ってる、っていう自信がほしい」

 瀬戸が大切に思ってくれていることは、飛紗自身、よくわかっている。言葉でも態度でも、きちんと気持ちをもらっている。ただ同じ分だけ返せているのかわからないから、理解して、ひとりよがりではなく隣にいられるようになりたい。

「……ん、かな?」

「聞かれても困るな」

 ぽんぽんと背中をたたかれて、顔だけ持ちあげた。笑っている瀬戸の顔が目に映る。

「お腹すいてませんか? 何かつくりますよ」

 言われてみると確かに、空腹を感じた。もうお昼をすぎている。寝起きであることも関係しているだろう。昨夜遅くて、今日は九時ごろに起きてそれから朝食をとったというのに、体は貪欲だ。だけど、

「……まだひっついていたいって言ったら、いや?」

 正直また眠気が少しずつ襲ってきているし、お腹はすいたし、お手洗いにだって行きたい気がするし、だけど、それ以上に、瀬戸とこうしているのが心地よくて、もう少し甘えていたい。

 二〇代も後半になって、こんな我儘はおかしいだろうか。恋愛経験が浅いせいか、単に人間性の問題なのか、いまいち年齢相応の言動がわからない飛紗は、言ってからどきどきしだした。面倒なことを口にした気がする。

「あのね、飛紗ちゃん。わかってないと思うので言いますが、それはひどい殺し文句ですよ」

「殺し文句?」

「そんなこと言われたら、さすがの私でも襲うかもしれないってことです」

 いつの間にか降りていた瀬戸の手が、するりと服の裾から入ってくる。

 記憶が呼び起こされて、いくつかの映像が瞬きのたび、瞼の裏に投影される。明らかに視点のおかしいものがあるから、誇張、あるいは想像で補っているところがあるにしても、ほとんどが現実にあったことだ。

「ええよ」

 かあ、と今日何度目か、頬を赤く染める。

「瀬戸だけ、……ええよ、して」

 人一倍理性を持って動いている瀬戸は、予想外だっただろう答えに、動きをとめた。しかし双眸に欲のある炎を灯して、飛紗の体をぐるんと回転させる。見たことのある目だ、と飛紗は唾を飲みこむ。下にいたはずの瀬戸が上にいて、押し倒されている恰好になった。キスの嵐を降らしてくる。

 ねだるように首元に腕を絡めたら、唇にも落としてくれた。

「舌出して。できる?」

 語尾は問いかけになっていたが、飛紗が口を開けると瀬戸はほとんど間髪入れずに舌を甘噛みした。初心者と言っても過言ではない飛紗は応えるなどできるはずもなく、されるがまま、思わず口を閉じてしまわないようにだけ注意する。

「飛紗ちゃんの服とか」

 くびれをなぞるように指をはわされて、体が飛紗の意思とは別に何度もはねた。こんなときに話しかけられても、うまく答えられない。

「突然泊まることになったときにも困らない程度には、増やしていきなよ。ラック買っておくから」

 飛紗が持ってきた荷物を見たのだろう。ただ遊びに来るにしては多すぎる量に、いくら紙袋に入れてきたとしても気にならないわけがない。

 まだ泊まったことはなかった。夜が深くになる前に帰っていたし、帰らされてもいた。おそらく飛紗が実家で暮らしている配慮、また、卒業生で教え子ではないとはいえ、いまだ大学に通っていて瀬戸と交流のある飛紗の弟(二人はほとんど間違いなく、飛紗が瀬戸に会うよりも顔を合わせている)への配慮だろう。

 それがそんな風に言われて、素直にうれしい。もっと一緒にいてもいい、一緒にいたいと思ってくれている。あの瀬戸が!

「あとで一緒に買いに行きましょう」

 受け入れてくれているひとに包まれると、こんなにも気持ちが楽になる。仕事が忙しいことも、それに伴う面倒な人間関係もすべて忘れて、やっと穏やかに呼吸ができる。だからみんな、恋人を求めていたのだ、と飛紗は気づいた。魔法みたいだ。人によっては麻薬になってしまうのも、わからなくはない。

「キーホルダー」

「ん?」

「なくさへんよう鍵にキーホルダーつけたいから、瀬戸、選んで」

 いいですよ、と耳元で笑い声がしたことに満足して、飛紗は瀬戸に身をゆだねた。

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