父親

 父、母、弟、妹、そして飛紗の五人家族とは知っていた。妹は東京の大学に行っていていまは実家にいないが、家族仲がよいことも。住宅街の一軒家に住んでいて、生まれも育ちも代々関西。阪神淡路大震災で持ちこたえた家だと聞いた。次きたらたぶん倒壊するわ、と飛紗は笑ったが、南海トラフが起きればここにも余波がくるだろうから、気をつけて、としか言えなかった。

 家族に見つかると気恥ずかしいのか、角のところで「ここでいい」と言うので、家に入るのを見届けてから帰る。それが瀬戸のいつものパターンだった。

 今日も同じだ。送るだけなのでTシャツに上着を重ねてスリムパンツを穿いた、外に出るのにだらしなくない程度の身だしなみで飛紗を送って、あとはスーパーで買い物でもして帰ろうかと思っていた。

 はずだが、そのスーパーから帰ってきたらしい飛紗の母親と鉢合わせ、断る間もなく家に連れこまれてしまった。五人家族とだけあって広いテーブルに腰かけ、出されたお茶を飲む。母親も背が高かった。飛紗の弟の身長を考えれば、父親も背が高いのだろう。飛紗が申し訳なさそうに隣に座っている。

 どちらにせよ挨拶に来る予定であったし、人付き合いに緊張するたちではない。襟がついていない服は、唐突に母親に招かれたとはいえ、父親が気を悪くするかもしれないな、とぼんやり考えた。

「お父さんもそろそろ帰るから、ぜひ夕飯食べていってね」

「急にすみません。ごちそうになります」

「こっちが無理矢理引っ張りこんだんやもの、気にしないで」

 外面は昔からよいほうだ。母親、という生き物にはあまり馴染みがないので、つい観察するような目線になってしまう。買ってきた品物を冷蔵庫に入れている姿が、しっくりと景色に溶けこんでいて、日常を感じさせた。

 飛紗が袖を引っ張って、こそこそと耳打ちしてくる。

「眞一、ほんまごめん。いややったらぜんぜん、帰ってくれてええから」

「いや、おもしろいですよ」

 この状況が。ここで飛紗が生まれ育ったのだと思うと、ぐるりと見渡したくなるが、さすがに遠慮した。テーブルには造花が小さくまとめた状態で飾ってあり、窓際には観葉植物が置いてある。オープンキッチンの台の下には棚があって、料理の本などがきちんと整頓して並べられていた。そのなかに、何匹かぬいぐるみも座っている。

 瀬戸が唯一東京から連れてきたうさぎのぬいぐるみは、たまに飛紗になでられている。生まれたときから一緒なので瀬戸自身、大切にはしているのだが、飛紗に触られていると表情を変えるので、生活のなかにぬいぐるみがあったのだろうとは感じていた。犬を触る手つきで、犬を飼っているかどうかがわかるように。

「飛紗、はやく荷物置いて着替えてきなさい」

「お母さん」

 母親と二人きりになって、瀬戸に気まずい思いをさせてしまうのではないかと気にしている飛紗に、行ってくるように促す。瀬戸よりも飛紗のほうがずっと緊張していた。一度一人になって落ちついたほうがよいだろう。

 それでも飛紗はためらっていたが、しぶしぶ荷物を持ってリビングを出ていった。部屋は二階にあるらしく、とんとん、という階段を上る音が小さく聞こえてきた。

「これでやっと話せるわね」

 とっくに買い物の整理は終わっていたらしく、自分のお茶を持って瀬戸の前に座った。この母親も、人見知りはするたちではないらしい。

「ご挨拶が遅れました。瀬戸眞一と申します。K大学で専任講師の職に就いています」

「飛紗の母の鷹村小春です」

 そこまでは聞いていたらしく、小春もにっこりとして挨拶を返した。情報源としては飛紗だけではなく、弟の綺香もいる。

「質問攻めにしてもええかしら」

「どうぞ」

 わくわくとした様子が表情に出ている。飛紗よりも綺香に似ている気がした。

「東京のご出身なんですって? どうしてこっちの大学に?」

「歴史学で中世史をやっているものですから、史料がこちらのほうが断然多いんです。お世話になった先生もいらっしゃるので、それで」

「きらいな食べ物ある?」

「特にありません」

「飛紗のこと、なんて呼んどるの?」

「飛紗ちゃん、ですね。たまに呼び捨てですが」

「どっちが告白したの?」

「私です」

 間にふと夕飯のことを思い出したらしい質問以外は、瀬戸自身への興味と、飛紗との間に関することだった。おそらく、飛紗に聞いても教えてくれないことを瀬戸に聞いている。告白したのが飛紗か瀬戸かという問いに断言するのは微妙なところだが、はっきり言葉にしたのは自分のほうなので、まあよいか、と咽喉をお茶で潤す。

 淀みなく、照れもせず答える瀬戸がおもしろいのか、小春の質問は尽きるところがない。感情に裏が感じられず、気持ちのよいひとだ。

「飛紗のどこがよかったん?」

 それは、と答える前に、飛紗がリビングに入ってきて、顔を赤に染めながらお母さん、と叫んだ。質疑応答は一時中断だ。化粧を落として襟ぐりが緩めの服に着替えてきた飛紗は、夕飯を手伝うためかめずらしく髪を一つにくくっている。なくすのがこわいと、チェーンに通して首にかけてある婚約指輪が、おかげでよく見える。

「かわいい。いいですね、耳と首が見えるとすっきりして」

 飛紗が再び隣に座ろうとしたところを、揺れるしっぽに手を伸ばせば、今度は眞一、と叫ばれた。小春はあらあら、と言いながら笑っている。席を外そうとはしない。また飛紗だけが居心地悪そうにしていた。母親の前の自分と、瀬戸の前の自分とが違うので、どうすればよいのかわからないのだろう。

 所在なげに縮こまっている飛紗をもう少し見ていたい気持ちもあるが、あまり機嫌を損ねられるのは本意ではないので、話題を変えることにする。

「夕飯、ほんとうによかったんですか。もう準備は終わっているみたいですが」

「ああ気にせんで、大丈夫やから。今日はね、どちらにせよたーくさん用意してあるのよ」

 なんとなく察した。玄関にあった靴が飛紗のものにしては小さい気がしていたのだが、当たっていたらしい。そうですか、ではお言葉に甘えて、などと型にはまった受け答えをしながら、俄然夕飯がたのしみになってくる。そんな瀬戸を、飛紗があきれながらも少し笑った。

「すきやきなんやけど、眞一くん、取り分けるときお箸とか気にするタイプ?」

「いえまったく、気にしません」

「よかった。うちはみんな直接つついちゃうから」

 言われてみれば、昔は鍋のとき、わざわざ鍋用の箸で取って食べていたことを思い出す。あれは母の習慣だったのだろう。父と二人で気にした記憶がない。父のパートナーの、学が加わってからも、やはりそんな覚えはなかった。

「小春さん」

「あら、小春さんっていい響きねえ」

 おかあさん、と突然呼ばれるよりよいだろう、と判断して正解だ。こういう、人付き合いにおけるちょっとした選択をするのは、昔から非常に得意だ。人によっては気味悪がられるほど。

「飛紗さんのアルバムがあれば見たいです」

「眞一!」

「任せて」

「お母さん!」

 ひとり大変そうにつっこむ飛紗など小春は気にせず、アルバムを取りに行った。リビングにふたりきりとなり、飛紗の手を掴む。

「そわそわしてる」

 途端、借りてきた猫のようにおとなしくなり、頬を赤らめてうつむいた。化粧をしていなくても、睫毛を持ちあげていなくても、いつでもかわいい。大丈夫ですよ、と頬をなでれば、少しは落ちついたらしく、細く息を吐いた。

「いいお母さんですね」

 明るい家族を築いてきたのだろう、ということが、伝わってきた。飛紗には話したが瀬戸は母親と折り合いが悪く、また兄や妹も同様だ。「いい母親」の定義は人それぞれだろうが、少なくとも飛紗や綺香とは相性がよいのだろう。瀬戸や兄、妹は相性が悪かっただけだ。再婚相手の連れ子とはうまくやっているようだし。

 嬉々として戻ってきた小春の手には、数冊のアルバムがあった。想定していたよりも多い冊数に、さすが長子、と感心する。瀬戸の家でも、やはり兄のほうが写真は断然多い。

 恥ずかしがって騒ぐだけ無駄だと肚を括ったらしい飛紗が、頬杖をついて成り行きを見守っている。

「これが生まれたとき」

 赤ん坊のころの写真では、感慨深くはあるが、さすがに飛紗かどうか判別はできない。横に添えられた「誕生!」の文字とともに書かれている誕生日を記憶する。

 そして小春もわかっているらしく、ぱらぱらと何ページか飛ばすようにアルバムをめくった。

「で、これが真ん中の綺香が生まれたとき。お姉ちゃんぶった顔しとるでしょう」

 二歳差なので、まだ幼稚園生でもない。たった二年で、先ほどの言われなければ誰だかわからない赤ん坊から、いまの飛紗の面影が現れた。小さいなりに、確かに自身が姉であることを意識した、誇らしげな顔をしている。

 こんな写真あったんや、と飛紗もアルバムを覗いた。さすがに憶えていないだろうが、どこか懐かしそうに見つめている。

「これは幼稚園のとき。泣くのが下手な子で、何かいやなことがあってもずっと黙って我慢してたんよね」

 ぐっと拳を握ってうつむいている写真だ。根本的な部分は昔から変わっていないのかもしれない。いまの飛紗も瀬戸から見れば、何かあれば自分が我慢すればいいと思っている節がある。

「かわええでしょう」

「かわいいです」

 小学生、中学生と成長していく飛紗の写真を眺めながら、一枚くらいもらえないだろうか、と一瞬本気で考える。中学校から私立で私服なので、スカートやズボンや、さまざまな服装の飛紗が見られてたのしい。年代ごとの服のはやりや好みも垣間見える。

「ああこれ、憶えとる」

 と、飛紗が指さしたのは、セーラー服を着ている写真だ。

「お母さんがこの年齢のとき着とかんと後悔するから、って着せたんよね。いま思えばそのとおりやったわ」

 制服は年齢を主張するものでもある。あのとき着ておけばよかったな、と思っても、歳を重ねてからだとただのコスプレだ。瀬戸も中高ともに私服で、その分、体育祭のときの応援団のみが着る学ランは人気であったし、制服を彷彿とさせる服装で通っている子も多かった。

「あんたは制服に縁がなかったからね」

 どの写真にもきちんと日付と一言が添えてある。飛紗の几帳面さは小春譲りだろうか。一六歳の飛紗がセーラー服を着ているこの年、自分は大学院に入っている。同い年の大半は社会人一年目だ。年齢差を一〇代で考えると、開きが見えて笑ってしまう。

 玄関からただいま、と声がして、小春が小走りで向かった。父親だろう。立ちあがると、飛紗も続いた。

「どうも、こんばんは」

 第一印象としては、背が高い、だった。一八〇近くありそうだ。白髪交じりの髪を後ろに流している。飛紗の年齢を考えれば、五〇代半ばだろうか。やはり飛紗は、母親より父親似らしい。ぎこちなく微笑まれて、にっこりと笑い返す。おそらく苦手なタイプと思われているだろう。これまで浮いた話のなかった娘が連れてきた恋人、不可抗力だが軽い服装、常識の範囲内とはいえ茶色に染められた髪、そして緊張のかけらもない愛想のよさがとどめだ。わかっていて笑ったのだが。年齢を聞いていたとしてもすっかり忘れて、飛紗と同い年くらいに感じているはずだ。

「こんばんは、初めまして。瀬戸眞一といいます。約束もなく、突然押しかけて申し訳ありません」

「違うから、お母さんが有無を言わさず連れこんだせいやから」

 飛紗が慌てて後ろから口を挟む。瀬戸がいることは連絡を受けていたらしく、いや、と言いながら目を伏せて、上着も脱がずに立ちつくしている。

「飛紗さんとお付き合いさせていただいています」

 にこにこと言い放てば、父親の瞼が片方、ぴくりと動いた。後方では飛紗が裾を引っ張り、照れているのがわかる。小春だけが頬に手を当てて、たのしそうにしていた。

「……飛紗の父の、鷹村和紀と申します。今日は妻が強引に招いたようで、失礼しました」

 とりあえず着替えてくるから、と退室した。アルバムもひとまず移動させようということになり、テレビの載っている台に置かれた。

「生き生きせんの」

「ばれましたか」

 娘の恋人に挨拶される父親、を見る機会は他にないだろうから、つい出方を観察してしまった。殊勝な態度を取ることくらい簡単だが、これから長く付き合うのだと思えば初手が肝心だ。話に聞く性格と、受けた印象に溝があればあるほど、不信感を抱かれる。特別すかれようとは思わないし、すかれるとも思えない。だから、あくまでも「苦手」で留まってもらったほうがよい。

「溺愛されたほうですか、飛紗ちゃんは」

 いわゆる、「娘が一緒にお風呂に入ってくれなくなった」とか言われるタイプの。小さい子でもあるまいし、成長したあともなぜ一緒に風呂に入る必要があるのかよくわからないが、多くの父親は娘に対してそう思うらしい。

 夕飯の準備のため、テーブルの真中にコンロを置く。飛紗は箸を並べながら、首を横に振った。

「溺愛されとるんは妹のほう。わたしはぜんぜん、別に会話はするし仲はええほうやと思うけど、つかず離れずって感じ」

「これまで浮いた話が一つもなかった飛紗が、恋人どころか突然婚約指輪して帰ってきたから面喰らっとるんよ、お父さんは」

 妹は恋多き少女で、彼氏がどうだクラスの男の子がなんだとあけっぴろげに食卓で話すので、和紀もなんとなく状況を把握していたらしい。対して飛紗はあまり話さないし、興味もなさそうにしていたため、意外だったようだ。

「泣くのが下手な子やったって言ったでしょう? 親としては手がかからなさすぎる子やったんよね。成績も優秀やし、人間関係もうまくいっとるみたいやし、やりたいことは決まっとったし。反抗期らしい反抗期もなくて」

 あったのかもしれないが、自分のなかでうまく処理してしまったのだろう。想像がつく。それは飛紗の長所であり、短所でもある。

 一杯だけ和紀に付き合ってやってくれ、と言われて、瀬戸は頷いた。いつか酔った瀬戸が見たい、と言った飛紗には悪いが、瀬戸は酔ったことがない。廣谷ほどではないにしても(彼は朝から晩まで飲み続けようと、顔も内臓もけろりとしている)それなりにアルコール耐性がつよく、お腹がふくれる飲み物、という印象だ。

「戸惑っとるだけやと思うわ。しばらくかたいかもしれんけど、勘弁してやってね」

「いいえ、飛紗ちゃんは私にはもったいないくらいですから。和紀さんが心配されるのもわかります」

「ええのよそんな気ぃ遣わんで。せっかく美人に産んだのに、愛嬌が及第点なんよねえ」

 お母さん、と具材を冷蔵庫から出しながら、飛紗が声を荒げる。今日は叫んでばかりで大変そうだ。

 もったいないくらい、というのは本心である。だからといって、他にきっとふさわしい相手がいたかもしれない、などと思うほど瀬戸はやさしくなければお人よしでもない。飛紗以外には考えられないし、それは飛紗も同じだろう。

「綺香が彼女を連れてきたときもお父さん、慣れるまで大変やったんやから。あ、今日の夕飯なんやけど」

「小春さん、お手伝いできることありますか」

 ドラマのようにタイミングよく、ドアからひょっこり顔を出した山宮智枝子が、瀬戸を認めるなりその能面を崩した。眉根を寄せて目を軽く開くくらいのものだったが、智枝子の驚いた表情は貴重だ。瀬戸はにやけを隠しもせず、ひらりと手を振った。

 その後ろから飛紗の弟の綺香がやってきて、やはり同じように驚いた顔を見せた。

「え、瀬戸さん、え、飛紗ちゃん、ほんまに瀬戸さんと付き合うとったんや……」

 失礼な感想に、吹きだしてしまう。笑いをかみ殺すのは無理だ。小春は相変わらず動揺もせず、知り合いやったんやね、とのほほんと言った。

 綺香が複雑そうにしつつも、口元に笑みを忘れず頭を下げてくる。遠隔の補聴器を智枝子が首から下げているので、智枝子の言っていることは口元が見えなくとも聞こえているようだ。

「この世の終わりみたいな顔してるね、山宮さん」

 そこでやっと瀬戸がいることを思い出したらしく、すみません、と謝られた。気にしていないし、おもしろいのでかまわず続けてほしい。テーブルの上に置かれた造花を、夕飯のため綺香が脇にどけた。

「瀬戸さんって、特定の誰かに入れこむタイプやないと勝手に思っていたので」

「山宮さんはどんどん廣谷さんに似てきてるよね」

 思いあたるところがあるらしく、智枝子がうっと言葉に詰まる。言葉に遠慮がなくなってきているのも、疑問形のときに語尾を持ちあげないのも、明らかに廣谷の影響だろう。

 かつてはあなたの伯母に恋慕していたんですよ、と教えればどんな表情をするだろうかと思ったが、さすがに思うだけでやめておく。

「大丈夫です。山宮さんに心配される必要がないくらいずっと、私は飛紗ちゃんがすきですよ」

 がこん、と大きな音がした。瀬戸からはわからないが、どうも飛紗がどこかにぶつけたらしい。傍にいる智枝子が心配してしゃがみこんだ。小春が綺香に手話で状況を説明している。見に行けば、飛紗が涙目で頭を抱えていた。

「大丈夫ですか?」

「なんでああいうんさらっと言うの」

「事実だからですかね」

 睨まれて、反対に笑ってしまう。ぶつけたらしい箇所をなでれば、こぶはできていないようだった。

「ほんとに慣れませんね」

「家族の前やから問題なの」

「ふたりのときでも真赤になるくせに……」

「言わんでええから」

 様子を見ていた智枝子が、立ちあがって綺香のもとへ行く。冷蔵庫からお茶を出していたので、だいぶ鷹村家に溶けこんでいるようだ。廣谷からの情報によればもう付き合って三年目のはずであるから、こうして夕飯をともにするのも一度や二度ではないのだろう。

「飛紗、怪我しとるんならちゃんと手当しなさいよ」

「してない。大丈夫」

 瀬戸が伸ばした手をとって、飛紗が立ちあがる。

 あとは着席するだけの状態になって、和紀がリビングに入ってきた。上座に和紀、向かいに小春が座り、二人の角にそれぞれ同性が着席した。

 ビール、ではなく発泡酒の缶を渡され、和紀に注ぐ。自分の分を注ごうとすれば、和紀が「飛紗、注いであげなさい」と言ったので、缶ではあるがお酌をされる形になる。何度も外で一緒に飲んでいるが、注いでもらうのは初めてだ。飛紗は家であまり飲まないらしく、お茶を淹れていた。

 小春の合図で全員いただきます、と合掌をする。すでに鍋には煮えた野菜と肉が入っていた。肉に砂糖をかけて、醤油と酒を加えた関西風である。そういえば食べたことがないなと思いながら、卵をといた。

「智枝子ちゃん、いっぱい食べてね。お肉いっぱいあるから」

「いつもすみません。ありがとうございます」

 答える智枝子の目は爛々と輝いている。血筋なのか、波間も智枝子もその細い体のどこに吸収されているのかというくらいよく食べる。以前智枝子にすきな食べ物を聞いたら、肉、と答えられたので、今日のメニューは最高だろう。隣に座っている綺香が智枝子の取り皿に野菜を入れて笑っている。

 割り下で先に味を決めてしまう関東風とは異なり、味を見つつ調整していくので、普段食べていたすきやきよりずっと口当たりがいい。

「おいしいです」

 素直に小春に伝えると、にこにことしてお礼を言われた。

「途中から安いお肉に変わるから、遠慮せんといまのうちに食べてね」

 頷きつつ、頬に詰めこんで食べる智枝子を視界の端にとらえて、りすを思い出す。廣谷がご飯を奢りたくなるわけだ。

「ねえ、眞一さんは飛紗のどこがよかったん?」

「お母さん、もうええでしょそういうのは」

 慌てる飛紗と、綺香に手話で通訳をする智枝子と、黙々と食べ続ける和紀。三者三様で非常に愉快な気持ちになる。智枝子に関しては完全に鷹村の家族の一員だ。

「いま聞かへんでいつ聞くのよ」

「わたしが知らんところで聞いて。歯の浮くような科白で答えてくれるから」

「いくらでも言いますよ」

 この場で飛紗の主張を無視して口にしてもよかったが、一言も発さず食べ続けている和紀が気になる。言うこと自体はためらわず、しかし核心には触れない、このあたりがちょうどよいだろう。

 しかし、どこも何も、と思う。どこも何も、その全身が、全部が、存在ごと愛しい。

 だからそんな飛紗を育てた家族のことは、どう思われようと無条件に好ましく感じる。口にはしないが。

「飛紗は」

 ぽつりと落とすように和紀が呟いた。小春たちは会話が盛りあがっていて、気づいていないようだ。瀬戸の向かいに座る綺香だけが、和紀の口の動きに注目していた。

「しっかりした子ぉやけど、その分、なんでも背負ってまうところがあるから」

 先ほどは気づかなかったが、訛りが違う。京都方面の出身なのだろうか。

 綺香が瞬きを一つして、視線を和紀から瀬戸へ移した。いま、二人に試されている。

「はい」

 相槌ではなく、肯定のつもりで頷くと、和紀の表情が和らぎ、綺香がまたからかうように智枝子の取り皿に野菜を入れ始めた。

「いま何か話しとった?」

「うちはすきやきの締めは小ぶりの肉まんでしたって話」

「肉まん?」

 いつも淡々とした口調の智枝子が声を荒げた。食に関して実に貪欲な子である。綺香が入れる野菜もしっかり食べているようだが、自身で取るときにはほぼ肉だ。たまに豆腐。隣の飛紗はバランスよくどの食材も入れていて、性格が出るなと感じた。

 瀬戸はもう一つ卵を落として、といていく。この話は誰にしても驚かれる。やってみたい、と学が試してみてから定番化したことなので、幼いころはご飯がすきやきの締めだった。

「蓋をして蒸して、あとは気分でひっくり返したり、卵に入れたりして食べていました」

「その発想はなかったです……おいしそう」

 声を出さずにからからと笑いながら、綺香が智枝子に向かって右手の手のひらを小さく前に出したあと、両手で拳をつくって同時に前へと出しながら首を傾げた。あれは「今度」と「行う」の手話で、首を傾げているところから訳すなら「今度する?」だろうか。

 鷹村家のすきやきの締めはうどんだった。肉も野菜もきれいに食べ尽くされ、智枝子の腹は無事満たされたらしい。

「ちょっと、煙草」

 和紀は食後のお茶もそこそこに、リビングを出て行ってしまう。テーブルに灰皿がないことから、煙草は別室か外と決まっているのだろう。気まずさに一息つきたいのだとすぐにわかった。別に相手が瀬戸ではなくても、きっと和紀にとっては一緒なのだ。

「山宮さん」

 満足そうに綺香と一息ついている智枝子に話しかける。自分が名指されるとは思わなかったらしく、ぱちぱちと瞬いた。

「鷹村さんの小さいころのアルバム、あそこにありますよ」

「えっ、見たい」

 夕飯のためにテレビの台に避けられたアルバムを指差せば、無邪気に取りに行った。読唇で言葉を理解した綺香が慌てるような仕種を見せて、その様子が飛紗にそっくりだったので笑ってしまう。

「小春さん、和紀さんが吸っている煙草、一本いただくことはできますか?」

「もちろん。ちょっと待っとってね」

 すぐに察したらしい小春が頼もしい笑顔を見せて、玄関のほうに行く。

 飛紗は飲んでいたお茶を下ろして、前髪を分けるように触った。

「煙草、吸うん?」

 知らなかった、と驚く飛紗に、いいえ、と否定する。魔窟となっている一室を探せば一箱くらい出てきてもおかしくはないが、普段は一切吸わない。吸っていたのは学生時代くらいだ。廣谷が嫌煙家と知ってやめたのだが、特に理由もなく吸っていたので、禁煙、というより吸うのをやめるのは容易だった。止煙というべきか。

「はい、煙草とライター。縁側で吸っとるはずやから。玄関すぐの部屋の窓から行けるからね」

「ありがとうございます。片づけ手伝えなくてすみません」

「台所は主婦のスペースやもの」

 話のはやいひとだ。何をするかはわかったようだが、飲みこみきれていない飛紗の頭にぽんと手を置く。

「及第点の判子くらいはもらってきますよ」

 教えられた部屋は電気がつけられていなかった。覗けばリビングから漏れている光だけで夜空の下、縁側に座って煙草をくゆらせている。窓を二、三回ノックするように音を立てると、和紀が振り向いた。少し眉を持ちあげたが、驚いている様子はない。

「ご一緒しても?」

 窓を開けて聞けば、どうぞ、と少し寄せてくれた。縁側に出て、隣に腰かける。一本だけもらった煙草の吸い口をとんとんと叩こうとして、フィルターがあるので意味がないことに気づいてやめた。そのまま唇に挟んでライターで火をつける。ふう、と煙を吐けば、暗闇にとけていく。久々だが問題はなかった。肺に入ってくる感覚が懐かしい。銘柄を聞かなかったが、なんとなく知った味だった。

 時間制限は煙草一本分だ。和紀はまさか客を一人ここに残して戻ったりしないだろうが、瀬戸の手元にはこの一本しかない。しかしあせらず、ゆったりと煙草を吸う。じりじりと先が燃えて短くなっていく。

 間に置かれた灰皿に灰を落とせば、和紀のほうから話しかけてきた。

「大学の教授やと聞きました。綺香の通っとった」

 この年齢で教授なら最高だ。丁重に訂正する。

「残念ながら、まだ専任講師です。ただ、最終的にはそのつもりです」

 来年度あたりおそらく准教授なのだが、内定していないものは黙っておく。

 ところどころ覚え間違いがあるにしても、飛紗から聞いた(と思われる)話をきちんと記憶しているらしい。頭からどこの馬の骨ともわからぬお前に娘はやらん、と頑固にされるよりだいぶんやさしい。

「正式に挨拶に来る前に、和紀さんにお話しておきたいのですが」

 ちらりと瀬戸を見て、また煙草を吸う。なんですやろ、と返してくるその声音から、「おとうさん」などと呼んだら一気に強固な壁をつくられていただろうことが窺えた。

「私は幼いころ親が離婚して、父に引き取られて育ちました。その父はいま、男性をパートナーに暮らしています」

 ゆらゆらと揺れていた煙が、大きく乱れた。さすがに飛紗もまだこの話はしていなかったらしく、動揺が見て取れる。

 煙草を指に挟んだまま、口角を上げて和紀を見つめた。逆光であまり表情は見えていないかもしれないが、まったく見えないということはないだろう。ごまかさずに目線を向けているというのが肝要だ。

 同性愛に関して和紀がどう思っているかはわからないが、おそらくテレビで見ているときとは意見が少なからず変わってくる。遠い他人、友人、身内、それぞれ対応と感想は異なって然るべきだ。実感の伴い方、関わり方が違うのだから。

「その話、飛紗は」

「知っています。会ってみたい、と言ってくれました」

 写真を見て、しあわせそう、と言ってくれた。

 わざわざ事前に伝える必要のない世の中であればもっとよかった。しかし家族となると距離感が変わってくる。親の介護が必要なのであればおそらく結婚するより前に伝えるほうが大多数だろう。それと同じだ。

 そうですか、と和紀は呟いて、煙草を一本、灰皿に押しつけた。すぐに二本目を取りだして火をつける。

「……飛紗には、親の僕たちが頼りすぎてもうた部分があって」

 瀬戸は一度灰を落として、再び口に含んだ。和紀と飛紗は目がよく似ている、と思った。

「しっかりしとるんが当り前、頼られるんが当り前、ひとりでできるんが当り前……せやから、あなたが僕に挨拶してくれとる間、飛紗が後ろに隠れるようにしとったんが、印象的で」

 和紀はもはや瀬戸を見ていなかった。おそらく飛紗が幼いころを思い出していて、意識がそちらに浸っている。

「ああ、頼りにしとるんやなあ、と」

 何も答えず、瀬戸は最後にふっと煙を吐いて、煙草を灰皿に押しつけた。これまでだ。これ以上は蛇足になる。

「飛紗さんは」

 そう思ったが、口が勝手に動いた。

「それを負担とは思いませんから。だから私は、傍にいたいと思ったんです」

 無意識のうち、ふっと笑みがこぼれる。今度こそここまでだと立ちあがると、端に置いてある消臭剤を服にかけてから戻るように言われた。瀬戸が言われたとおり吹きかけていると、二本目の煙草を終えた和紀に手を差し出されたので、消臭剤を渡す。

「また来なさい。そちらのご両親とも顔合わせが必要やろう」

 中に入り、窓を閉めていると言われて、振り返る。すでに背中を向けていたが顔のうつむき加減や手元の落ちつかなさから照れているのだとわかって、はい、と返事をした。

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