第2話 愚連隊と幽霊船

それは俺がゴーストナンバーに配属されて3日目の朝のこと。


 今日も俺達は揃ってテーブルに並んだドリーの作った朝食を囲む。メニューは至ってシンプル。

 トーストに自家製ジャム、スクランブルエッグに焼きベーコンと野菜スープ。

 シンプルだが侮るなかれ。黄金の如き輝きを放つスクランブルエッグは生クリームを混ぜ込んでいるのか、仄かに優しい甘さと絶妙なとろふわ具合。

 野菜スープも控えめなコンソメが小さめに切られた野菜の旨みを引き立たせ、ほっこりする味に仕上がっている。

シンプルな程、良さを引き出すのは難しい。


シンプル・イズ・ベストとシンプルズ・バストはイコールではないのと同じだ!胸がシンプルな女の子が好き、と言う人も、ただ胸が小さいだけでは萌えないだろう?それを引き立たせる要素とのバランスが大切なのだ。


 おっと、話が逸れたが、この見事な食事とエイミーの笑顔だけが今の俺にとって唯一の希望なのだ。


「僕を忘れて丸1日放置だなんて、皆さんたら酷いですよ……」


 と、俺の隣でぼやきやがらトーストを頬張る、見るからに気弱そうな少年は俺より一日遅れて着任した機関員のライリー・ハミルトン兵長。

 これでも機関高等専門学校を卒業した18歳だそうだが、線の細い小柄な身体にソバカスが浮かぶ幼い顔つきはとても年相応には見えなかった。

 中身もまた見た目通りのヘタレ&泣き虫ときたもんだから海軍では勤まらず沿岸防衛隊に回されナンバーズ入りという訳だ。

 初日には200号を見つける事が出来ずに一日中歩き回った挙げ句、夜になって迷子になり、ベソをかいている所を警務隊に保護された。おまけに新任隊員だったが為に身元確認が遅れて一晩留置、着任出来たのは昨日の昼すぎ。

 見た目、ヘタレ、間の悪さといい、まさにゴーストナンバーズに来るべくして来た人材と言える。


 逆に納得出来ないのエイミーだ。

レイラとドリーは元海賊だけに隠さなきゃいけないのは分かる。俺も海軍に怨みのあるここのお偉いさんの当て付けだとして、彼女はこの船に居るべき人材ではないはずだ。

 今だって気の付く家庭的な彼女が食後のコーヒーをみんなに配ってくれている。

 綺麗な金髪を後ろで束ねた今日の髪型もとてもキュートだし。

 気になって隊員名簿を調べたところ、エイミーの本名はエミリア・ローズウェル。年齢は同い年の二十歳。

 なんとこの地方の知事を勤める名門、ローズウェル家の三女だそうだ。なぜそんな名家のお嬢様がゴーストナンバー送りにされたのかは世界三大七不思議の八つ目だろう。


 ちなみに無言でコーヒーをすすっているタンクトップ姿の色黒ショタコンマッチョ、ドリーの本名はドリス・ゴードン。

 スキンヘッドと口ひげがチャームポイントの四十二歳。経歴は白紙。レイラと同様に元海賊という事実は伏せられていた。

 今もライリーを絡みつくような熱い眼差しで見つめているドリーだが、俺が彼の獲物の一人である事には変わらないのだ。

 あと、ライリーにはドリーの性癖の事は言ってない。

 レイラ曰く「知らせない方がいろいろと面白い」とのこと。


 件のレイラはというと、片膝を立てて椅子に座り、今日も朝から豪快にラム酒を煽っている。


 「ん~食後の一杯が旨いんだよなあ!カイル、お前もどうだ?」


 アルコール度数70%を水のように飲んでる22歳の女っていろいろとヤバくないか?


 「もう!今朝は飲んじゃだめって言ったでしょ~!本部への出頭命令が来てたのを忘れたんですか~。飲酒でまた減俸食らっちゃいますよっ!」


 頬っぺたを膨らませたエイミーの可愛い「ぷんぷんお説教」で思い出したが、レイラと俺にはそれぞれ別件で警備部本部への出頭命令書が届いていたんだ。

 俺の命令書には用件が書かれてなかった。もしかしたら親父に任官先がばれて海軍に即転属、なんて可能性も捨てきれない。


 「ええ~、めんどせぇ~。カイルぅ~ついでに私のも聞いて来てくれよ。調子悪くてさ。今日はアノ日だから見学で!」


 レイラはわざとらしく気怠そうにテーブルに突っ伏している。


 「女子が体育の授業をサボるような言い訳はやめてください。いい大人なんですから!そもそも俺だって別件で呼ばれてるんだから無理でしょ?」


 「へいへい!わーったよっ!」


 レイラはラム酒の瓶に蓋をして脇に置くと、ぶつくさ言いながら準備をするため自室に戻っていった。


準備を済ませたレイラと俺は連れだって警備隊本部のある警備部棟に向かう。

 隣を歩くレイラはというと胸元が大きく開いたタンクトップに制服の上着を羽織り、ピッチリとしたハーフパンツに革のブーツという目のやり場に困る出でたち。

 規格外の拳銃は外させたが、この格好はかなり目立っているらしく、すれ違う隊員や整備兵達はことごとく振り返り、わざわざ見物に来る連中までいる。

 確かにモデル並のスレンダーボディーに綺麗な黒髪をなびかせた女の子が胸の谷間を覗かせ、惜しげも無く生脚を晒して歩いているのだから男なら刮目せずにはいられないだろう。


 忍べてないお忍び芸能人ばりの視線を浴びつつ、警備部棟に着いた俺達は受付で用件を伝える。


 「それじゃあね、レイラ中尉さんはルース少佐の部屋に行ってくださいね……カイル少尉さんはね、奥の第二会議室でお待ちください。ローデリック中佐もすぐに来られると思います。会議室はこの廊下の突き当たりをね、右ね」


 と、丸眼鏡をかけた人の良さそうな白髪頭の事務官が長々と説明してくれた。

 どうやら俺の方の用件はローディ中佐かららしい。

 レイラと別れて第二会議室でローディ中佐を待つ間、親父にバレた事を告げられるのでは、という不安がどんどん募る。

というのも、直属のルース少佐ではなく警備部部長代理のローディ中佐の呼び出しというのが気にかかる。

 ふと窓の外に目をやると、不安の雲が渦巻く俺の心とは対照的な青空が広がっている。

『ああ、あの空に還りたい……』などと現実逃避しているうちにローディ中佐が入って来た。


 「待たせてしまって申し訳ない。会議が押してしまってね」


 相変わらず無表情なローディ中佐が俺の向かいに座る。


 「どうだね?ゴーストナンバーではやっていけそうかい?」


 「ええ、いろいろと規格外ではありますが、大丈夫ですっ!」


 海軍への転属話だったなら泣き言を言う訳にはいかないからな。


 「そうか……。実はあの船の副長は君で5人目なんだ。一日で心療内科に入院した者も居てね」


 ローディ中佐は感情を表に出さず淡々と話しているが、その事実がレイラの話がウソではない事を証明していた。


 「今日君に来てもらったのは私から一つ『お願い』があってね……とは言っても難しい事ではない。率直に言うとレイラ中尉を監視してもらいたい」


 危惧していた用件でなかった事にホッとしつつも、その言葉に耳を疑った。


 「彼女が『漆黒の薔薇』と呼ばれた大海賊ローズ・ドゥ・ベリーの娘だというのは聞き及んでいるかね?彼女は十年前にうちと海軍と合同で行った海賊の一斉検挙、『海賊狩り』の際、海賊に捕らわれていたところをロジャー司令が救出して保護した娘なんだ。身の安全を考慮して司令の意向で防衛隊に籍を置いてはいたが所詮は海賊だ。ここ数年、海賊被害が急増しているのは知っているだろう。彼女が昔の仲間と内通し、我々の捜査情報や警備動向を流している可能性も考えられる。それ以上に、彼女の出自が公になれば司令の首だけでは済まない事態となるだろう。だから君には彼女が目立つ行動をしないよう手綱を締めておいてもらうと同時に、不審な行動があれば直ちに報告してほしい」


 ゴーストナンバー自体が厄介者の集まりではあるが、その中でも特に厄介な存在だから彼女をどうにかしたい。だが彼女を保護してるロジャー司令の手前、理由もなく追い出せないからそのネタが欲しい、ってことか。


 「そうなった場合、君には彼女の後任として艇長になってもらい、ゴーストナンバーではなく正式な部隊として再編成しよう」


 つまり彼女を追い出す為にスパイをしろという事だ。策略や裏取引などとは無縁に過ごしたくてここに来たというのに。

 俺が押し黙っているのを見てローディ中佐が畳み掛けて来る。


 「用件は解ってもらえたかな?これは上層部の意向なんだ。正式な命令ではないから、どうするかは自由だが。ま、よく考えてくれ。ある意味、君も上層部には注目されているのだからな」


 この基地の上層部は全て元海軍の将官達だ。彼等は自分たちを左遷した海軍への当て付けに海軍の英雄の孫を厄介者の部隊に配属し、レイラを追い出す口実を探させ、あわよくばロジャー司令の責任を追求する腹づもりなのだ。

 沿岸警備隊上がりを司令と仰ぐ事はどうしても元エリート軍人のプライドが許さないのだろう。

胸くそ悪い策略だが、俺の報告一つで潰す事も出来る。


 「分かりました。ただし報告は私の判断で行います……」


 「ああ、それでいい。これは君にだけに限った事ではないんだ。今まで配属された副長にも、そして私やルース少佐にも下されてる事だからな。あまり構えなくていい」


 ローディ中佐は憮然とした表情で答える俺の気持ちを察したのか、そう言い置いて退出を命じた。


 会議室を出て受付前のソファでまだ戻らないレイラを待っていると、廊下の奥から赤毛の女の子が歩いてくるのが見えた。

 それは相変わらず険しい表情を浮かべたリリィだったが、俺に気がつくと人懐っこい笑顔で犬の尻尾みたいポニテを振りながら駆け寄って来た。


 「カイル、久しぶり!まだ二日だけどね!」


 「そうだね。最初はいろいろあるから久しぶりに感じるよな。配属先はどうだ?」


 ベルク人であるリリィがどんな扱いを受けてるのか、別れてからずっと気になっていたんだ。


 「うん……、まあいつも通りではあるけど、学生の頃より多少マシかな……」


 そう言って力無く笑うリリィにそれ以上追及できない。


 「ああ、俺の方はさ、ゴーストナンバーって言われてる部隊なんだけど、そのメンバーが信じられない様な人達なんだよ!」


 「うん、噂で聞いたよ。先輩からね『お前が向こうだろ』って言われちゃったけど……。でもカイルがいるなら私もそっちが良かったかな、なんて!」


 冗談めかして笑ってはいるが、配属先ではいろいろと嫌味を言われているらしい。


 「確かに変わってはいるけどさ、いい人達だと思うからリリィも居たらきっと楽しかっただろうな。中でも特にレイラ中尉はかなりの問題児でさぁ……」


 俺が体験した非常識極まりない出来事を話すと、


 「ほんと!凄い人達だね!じゃあ今度遊びに行ってもいいかな?会ってみたいかも!」


 「うん、来なよ!コックのドリーが作る料理がすっごく美味しいから!」


 「おいっ!カイル、目を離した隙にナンパかっ!」


背後から突然のレイラの声。いつの間にかルース少佐の部屋から戻って来てたらしい。


 「あ、船長……ナンパとかじゃないですよっ!」


話題のレイラだとわかり、リリィは慌てて自己紹介をする。


 「あ、あの、初めまして……私、カイルの同期でリーリィ・ヴェステライネンといいます。カイルから調度、皆さんのお話を聞かせて貰ってた所なんです……」


 伏し目がちに話すリリィは、やはり初対面の相手が不安なんだろう。だがレイラはリリィの容姿を気にした風もなく、ずいっとにじり寄ると、細い腰に手を回しながら肩を抱くと耳元でそっとささやく。


 「カイルが目をつけただけあって、なかなか可愛いじゃないか……。なあ、これから私と二人きりで飲みに行かないか……」


 「えっ!あの、私……、そのっ……」


 突然の女性からのデートの誘いにどう答えればいいか解らず、リリィはオタオタと慌てている。常に相手の予想の斜め上を行く人だからな。


 「何でいきなりナンパしてるんですかっ!船長も一応女の子でしょ!」


 「おいカイル……一応ってどう言う事だ?私は可愛い女もイケる口だぞ!それになぁ……、さっき居ない時にお前が私の事をなんて話してたのか、この子から詳しく聞いておきたいしなぁ」


 不敵な笑みを浮かべるレイラの右手が俺の胸ぐらを掴んで締め上げてくる。どうやらリリィとの会話を聞かれていたらしい。

 細くしなやかなレイラの腕からは想像もつかない剛力で襟を締め上げられ、息が苦しい。


 「ん?カイル、何か言ったらどうだ?」


 く、苦しいっ!

振り払おうにも、頭がボーッとしてきて力が入らなくなってきた……。


 「あ、あの!レイラ中尉!カイルの顔が青くなってますっ!」


 「おお、つい力が入ってしまった。すまんすまん!」


 リリィの取りなしでようやく俺の気道が解放される。


 「てかお前さぁ?私にそんな態度でいいのかぁ?……今夜はドリーは大喜びだろうなぁ……。待ちに待った大好物をやっと食べられるんだからなぁ」


 意味深にニタリと笑うレイラの言葉は『ドリーのおあずつけ』解禁を意味している。命の危機が去ったと思ったら貞操の危機がやってきた。


 「あっ!ドリーさん確かカイルが言ってた料理上手な方ですよね?……あの、私もお邪魔してもいいですか?あ、私は見てるだけでいいので!」


 リリィが突然、好奇心に目を輝かせてとんでもない事を口走る。

 そりゃ確かにさっき遊びにおいでとは言ったけど……、何もそんな現場に来なくても!


 「……ねえリリィ、分かってていってるの……?」


 引き攣った表情で聞き返すも、リリィはキラキラと目を輝かせて、


 「だって料理上手なドリーさんが大好物って事は今夜はすっごいご馳走なんでしょ?是非見てみたいじゃない!」


ああ!これ以上やめてくれ、リリィ!

 全く噛み合ってないリリィの言葉に頭を抱える俺を見てたレイラがついに堪え切れなくなったらしい。


 「ぷっ、あはははっ!じゃあ君も呼んでやろう!おい、今夜は楽しみだなあ~カイル!」


 「船長、ごめんなさい……。俺が悪かったです……、どうか許してください……」


 もはや全力で謝るしか選択肢が残されていなかった。

 ローディ中佐、やっぱり俺もすぐ居なくなるかもしれません……。


 レイラと共に船に戻り、エイミーの煎れたコーヒーを飲みながら200号の面々は再びテーブルを囲む。

 まあ、1名はコーヒーではなくラム酒だが。


「船長、ルース少佐からの呼び出しって、結局何だったんですか?」


 「ああ?飲みに行こうとか、一度付き合ってみないかとか、くだらない話が九割。で、残りの一割が、これだ!」


 そう言ってレイラはテーブルの真ん中に大きな封筒を投げ出した。

ルース少佐がレイラを口説いていた話にエイミーがやたら目を輝かせて食いついていたが、その話はこの際置いておこう。

 その封筒の中身を取り出すと『作戦命令書』と細かな文字で書かれた資料、それに海図が数枚入っていた。


 「うちは今まで定員割れで近海のパトロールや待機ばっかだったけど、カイルとチップが補充されたからな。しかしまだ法務執行官が居ないから臨検や取り締まりはできない。という事でそれ以外の雑用が廻って来たんだよ」


 そう言ってレイラは心底つまらなそうに頬杖をつく。

法務執行官とは法律のエキスパートで、法的執行が伴う船舶臨検や拿捕などに必ず必要となる役職だ。その資格試験はかなりの難易度らしい。


 ちなみに『チップ』というのはすぐにベソをかくライリーにレイラがつけたあだ名だった。意味を聞いてみたところ、海賊用語で「臆病者」とか「玉無し」の意味らしい。


で、やる気のないレイラに替わり、俺が一通り書類に目を通し、みんなに下された作戦の説明を始める。


 「えーと、この命令書によると任務は遺棄船の調査と拿捕、若しくは爆破処分です。数ヶ月前の嵐で無人島の岩場に座礁してた遺棄船が流され、海流に乗ってロンダム海峡に向かってるらしいです」


 要するに、毎日数百隻が往来する狭いロンダム海峡に灯火も標識も無く、航路も守らない無人の遺棄船が流れ込むのは危険極まりないからどうにかしてこい、ということらしい。


 「あっ!そう言えばその船の記事を新聞で見ました~。昔、その無人島には砦があって、戦いで殺された砦の兵士の亡霊が船を引き寄せたとか、無人の船の窓から恨めしそうに覗く顔を見たとか島の近くでは霧を纏った幽霊船が物悲しい鐘の音と共に現れて船を沈めるとか聞きましたよ~」


 突然のエイミーの怪談話に全員が押し黙り、船腹を叩く波の音だけがやけに大きく聞こえる。

それにエイミーは薄笑いを浮かべて、じっとりと絡みつくような視線をレイラに送っていた。

 かたやレイラは苦虫を噛みつぶした様な表情でそっぽを向いている。どうやら見かけによらず怪談話は苦手らしく、


 「そんなのはこじつけだろ!馬鹿馬鹿しい!そ、それより任務の説明を続けろよっ!」


 と、強がってるところがなんか可愛い。


 「はい……、目標の遺棄船はアケロン号。約五十年前に建造された中型客船で、全長160m、排水量5400トンです。船内調査を行い、海が荒れてなければ本船での曳航も可能ですが、かなり浸水してるらしいので曳航が危険な場合は海峡航路の20㎞圏外での海没処分、との事です」


 「船内調査なんか不要だよ。とっとと爆破して沈めてこようぜ!」


 「それはダメですよ。海没処分をするにしても内部を調査して安全を確認しないと起爆できません。遺棄船に漁師や海賊が忍び込んでた事例もありますから」


 「あの、質問なんですが、こんな大きな船を沈めるのはこの船の武装じゃ無理ですよね~?」


 チップの言うとおり、不法に強化されたこの船の武装でも鋼鉄製の大型船を沈めるのは難しいだろう。


 「海没処分用の爆薬が支給されます。船の見取り図には爆薬の設置箇所も指定されていますが、現場の状況に応じて責任者に一任との事ですよ、船長」


 「ええっ?!私も入らなきゃダメなのかよ!」


 と、ラム酒を吹き出さん勢いでレイラが叫ぶ。


 「そりゃあ船長は執行責任者ですからね、現場を確認して隊長に報告しなきゃいけないでしょ?」


 「わ、私は船に残ってるから、全てお前に任せる」


と、すぐさま逃げに走ったレイラにエイミーがわざとらしい口調で盛大なため息をでつく。


 「あらら~船長?もしかして怖いんですか~?恐れを知らぬ大海賊の末裔だって思ってたのに……、やれやれガッカリですぅ……ハァ~~」


 「わ、私が怖がってるなんてある訳ないだろ!勘違いされたら困るな。そんなに疑うなら、行ってやろうじゃないか!うん!」


 強がってはみるものの、レイラの口元はヒクヒクと引き攣っていた。


 「そうですよね~、船長に怖い物なんてないですよねっ!さすがですぅ!」


 ……俺はその瞬間、エイミーの口元が「にたぁ~」と歪むのを見てしまった。こいつはかなりのSだな。


 次の日、俺とレイラは再び警備部棟の会議室に来ていた。

 昨日、ローディ中佐と話した会議室だった事もあり、ふと例の「お願い」が頭をよぎる。

 レイラを監視しろ……か。

 隣に座るレイラをそっと伺うと、机に頬杖をついて退屈そうに大きなあくびをしている。

 とても海賊に情報を流してるようには見えない。まだ会って間もないが、開けっぴろげで純粋な人だと思う。問題行動は多いのは確かだけど。


 「おいカイル、二人っきりだからってエロい目で私を見んなよ!金とるぞ~」


 と、冗談めかして笑う表情は無邪気でさえある。

 やがて事務官が、防寒ジャンパーに長靴、ニット帽という出で立ちのまさに漁師という感じの初老の男性を案内してきた。遺棄船を発見して通報した地元の漁師らしい。

俺達はここで発見時の船の状況や漂流した進行方向、速度などを聴取して、潮流などから現在位置を想定する。

 漁師を置いて事務官が出て行くと、しんと静まりかえり、レイラの(お前、なんか言えよ!)という視線に仕方なく話を切り出す。


 「それでは話は聞いているかと思いますが、沿岸防衛隊で拿捕、もしくは海没処分する事になった遺棄船の発見時の状況を詳しくお聞かせ頂きたいと思います」


 言葉を切り、相手の反応を待ったが漁師は何かに怯えたような表情でうつむいたまま何も話そうとしない。


 「あのう、対応する上での危険性等を把握するためにも重要な事なんです。見たものをそのまま話して頂けますか?」


 と、たたみ掛けると、漁師はテーブルの一点をじっと見つめながらゆっくりと語り始めた。


 「あの日は最初から不運続きでした。出港前から船の調子も悪いし魚も全く捕れず、もう少し、もう少しと思っているうちに遅くなってしまったんです。はっきりとした時間は分かりませんが、だいぶ日が傾いていたように思います。でもかなり曇っていましたから余計にそう感じたのかもしれません。そう、ちょうどこんな感じの陰気な曇り空で……」


 漁師は虚ろな表情で窓の外を眺める。

 つられて空を見ると、まだ昼過ぎだというのに厚い雲が太陽の光を遮り、その下には色あせた灰色の海が横たわっていた。


 「急に霧が出始めたので帰ろうとしてた時、何人かの船員が鐘の音が聞こえるって言い出しまして。それが昔の船に付いてた、霧笛替わりの号鐘の音だって言うんです。ですが今の船にゃあ付いてませんから最初は空耳だと思ってたんですが、あっしにも聞こえたんです。耳を澄ませて周りを見回してたら突然、白い霧の中から湧き出すように、あ、あの恐ろしい船が……」


 漁師は怯えたように目を閉じ、堅く握りしめた拳を震わせる。


 「……あ、あいつは正面から突っ込んできました。ただ恐ろしくて誰も動けませんでした……。あれは船じゃありません!あれは血の涙を流して、あの大きな口で俺達の食らいに来た幽霊です。船長が慌てて回避しようとしたんですが間に合わず、あっしらは海に投げ出されました。船尾には確かにアケロン号の船名が見えました。ですが……、ただの漂流船なんかじゃないんです!船の窓からはいくつもの青白い顔が覗いてたです……。そいつらはみんな白目の無い真っ黒な目をしてました……。あ、あれはきっと『ロンダムの幽霊船』だ……」


 恐怖にガタガタと肩を震わせている漁師の向かいに座るレイラも、おしっこを我慢してるみたいに小さく縮こまっている。

 「ロンダムの幽霊船」や「ストレイツ・ゴースト(海峡の幽霊)」の話は船乗りの間ではまことしやかに語られている。


 「恐怖心から船の錆びや染みが顔に見える場合もよくありますから。船に小舟が繋いであったとか、縄ばしごやロープなど、人が居た痕跡はなかったですか?あと、周囲に他の船を見た記憶はありませんか?」


 俺は怯える漁師を落ち着かせる為にあえて事務的な口調で語りかける。

思い込みで見た物の内容が違っていたり、見たのに記憶してなかったりというのはよくある事だ。


 「それらしい物は無かったと思います。他の船は、周囲が霧で視界がほとんど無く、分かりません」


 「そうですか……。ではこの紙にあなたの見た船の絵を出来るだけ詳しく描いてください」


 手元の用紙とペンを漁師に渡して描いて貰う間もずっと黙ったままのレイラを見ると、目尻に涙を溜めたまま口元をひくひくと引きつらせて固まっている。


 「船長?大丈夫ですか?」


 「ふえっ!いや、その、あまりに退屈な話なんでな、ついつい寝てしまってたよ!」


 「へえ~、寝てたんですか?あっ、そのせいで目が潤んでるんですね」


「へ?あ……、そうそう、あくびが止まらなくてな!」


 そう言いながら慌ててぐしぐしと涙を拭っている。


 「そんな事よりカイル!なんで絵なんか描かせるんだ?」


 漁師がスケッチしている姿を横目に見ながら、レイラがあからさまに話題を逸らそうと小声で尋ねてくる。


 「証言ってのは主観的な視点で話してますが、絵にする事で客観的に見直す事が出来るんですよ。本人は意識してなくても記憶してたものを無意識に書く場合もありますし、正確な傾斜角度も知りたかったんです」


 「ああ、船が浸水して傾いてたってやつか?」


 「ええ、船があとどれくらい浮いていられるかを知りたかったんです。現在の喫水の高さや傾斜角度からだいたい計算できますから」


 「ふむ……、そういえば母様も敵船がすぐ沈むか、トドメが必要かを見分けてたよな……」


 レイラは妙に納得している。俺とほぼ年が変わらないのに実戦を経験してる元海賊なのが凄く意外な感じだ。改めて俺とレイラの境遇の違いを思い知らされる。


 やがて絵が完成し、他の必要事項の確認を済ませて聴取は終了となった。

 玄関口まで見送った俺達に、漁師がすがるように訴えかけてくる。


 「あんな不吉なもんが海に居るんじゃ漁に出る奴なんか居ねえ!このままじゃ干上がっちまう、あんた達で海の底に沈めてくれ!」


 昔から船乗りというのは迷信深いうえに縁起を担ぐ人達だからそれも仕方ないのだろう。


 船に戻った俺達は漂流船アケロン号の詳細データから限界浸水量と傾斜角を割り出してみた結果、200号による曳航は困難と判断して海没処分を行う事に決した。

潮流の速度と海峡までの距離から考えて、決行日は明日。

 次に役割分担だが、爆薬を扱えるレイラと俺、海賊が忍び込んでいた場合の戦闘も考えられる為、元海賊で実戦経験の多いドリーを加えた計三名で船に入り、内部の確認と爆薬の設置を行う。

 遠隔爆破装置の調整に電子機器に詳しいチップ、周辺警戒と無線交信担当のエイミーは200号に残る。

内心怖くてアケロンに入りたくないレイラがいろんな理由でだだをこねていたが、これ以外に適材適所の人員配置は無理なので適当に無視。

 作戦方針が決まり、持って行く物資の確認やタイムスケジュールの設定を終え、明日に備えて早めにお開きとなった。


 「船長、今夜は飲み過ぎないようにしてくださいよ」


 無駄だとは思いつつ、今夜は飲まないようにレイラに念を押した後、宿舎に戻って床につく。

 船長は面倒な雑用仕事だと言っていたが、今回の任務は戦闘や調査中の沈没の危険性だってある。

 初任務が考えてたよりずっと危険である事に不安が募った。


 明くる日の作戦決行日も空は相変わらず陰鬱な曇り空だった。

 早朝からドリーやチップと共に食料や弾薬の入った木箱を船に積み込み、出港準備を進める。

一方、レイラはというとラム酒の瓶を携えて俺の後ろを金魚のフンのように付きまとってくる。


 「なあカイルよぉ~。出航は延期したほうがいいんじゃないか?私の勘じゃ今日は観測史上最大規模の時化になるかもしれないぞ!」


 「勘じゃなくて船長の願望でしょ?暇なら少しでも積み込みを手伝ってくださいよ~」


 レイラは生返事を返す俺をムッとしたように睨むと、


 「おいカイル!船の長たる私が命令してないのに勝手に出港準備を進めるんじゃない!これは越権行為、つまり反逆だぞ!」


 憮然とした表情で腕を組み、まだ諦めないきれないレイラが無理矢理強権を発動して俺の前に立ちはだかる。


 「では聞きますが、本部命令に反して出航を取りやめるにはそれ相応の理由を本部に申告しないといけませんが、何かあります?」


 「ううっ……それは海が、荒れる、気がする、アブナイ・キケン……」


 冷静に言い返され、レイラはオロオロと目を泳がせて口ごもる。


 「観念してください。手伝わないなら向こうで大人しく座っててくださいね」


 木箱を抱えあげて準備に戻る俺の背中に向かってレイラが頬を膨らませて捨て台詞を吐く。


「もう飲んだくれて潰れてやるからなっ!潰れてそこらに吐きまくってやる!ゲロの舟盛りだ、バカヤロー!」


 宣言しなくてもいつもやってる事じゃないかよ。だけど狭い船で吐くのは地味に勘弁して欲しい。

 レイラは近くの木樽に座り込むとふて腐れたようにラム酒を煽り始めた。

 子供みたいに意地を張るレイラに笑いを噛み殺しつつ、再び埠頭に戻ると、一抱えほどの木箱を抱えたエイミーがおぼつかない足取りでよたよたと歩いて来るのが見えた。

 見かねて助けに行って木箱を受け取る。大きさの割にかなり重い。


 「これ意外と重いね、何が入ってるの?」


 「えーと、それはですね~。装備課から支給された高性能爆薬ですよ~」


 今爆弾を抱いてると言われ、胃が縮みあがる。


 「カイルさ~ん、くれぐれも気をつけてくださいね~。それ、爆発したら半径50mは吹き飛びますよ~。きゃはは!」


 何やら妙にハイテンションなエイミーは笑いながら距離を取る。

 笑えない俺は嫌な汗をにじませながら慎重にタラップを渡り、どうにか無事に200号に降り立つ。


 「それじゃあ武器庫にでも運んでください~」


 エイミーに連れられ武器庫に入る。そういえば、ここに入るのは初めてだった。

いつもエイミーが籠もってるから結果的にまだ入れてなかったのだ。

 金属製の扉から武器庫に入ると、壁という壁には拳銃に小銃、ショットガン、サブマシンガン、重機関銃などのあらゆる種類の銃器で埋め尽くされていた。両脇の棚には各種銃弾、手榴弾が山盛り。

警備艇の武器庫というより、さながらテロリストのアジトだ。


 「これは……一体……?」


 「もぅ~カイルさんでば……。恥ずかしいから、そんなにじっくり見ないでくださいよぅ……。ちょっとしたコレクションですから……。お部屋がこんな女の子ってやっぱり変、ですよね?」


 初めて自分の部屋に男を入れた乙女みたいに頬を染めてもじもじと恥ずかしがっているエイミーの姿と、その背景とのギャップが凄すぎる。


 「まあ、俺も銃は好きだから気持ちは分かるよ。好きだって気持ちには胸を張っても良いんじゃない、かな……はは……」


 「よかったです~!てっきり引かれるかなって……。今までなかなかカイルさんを受け入れる心の準備が出来なくて……」


 精一杯のフォローを入れると、エイミーは告白を受け入れられた乙女の様な幸せそうな表情を浮かべる。


 「じゃあ、あのこれ……、カイルさんに似合うと思って一生懸命作りました……。受け取って、くれますか……」


 まるで初めて作ったお菓子を想い人に手渡すみたいに、エイミーが差し出したしたのは可愛いリボンが巻かれた機関銃だった。

 ……リボンと機関銃。こんな対極のコラボは滅多に見られるもんじゃない。


 「極東の国で最優秀と言われた九二式重機関銃をベースに素材変更と肉抜きで大幅軽量化して折りたたみストックに変えたので取り回し抜群です!ワンポイントに私特製の逆ハートサイトにしてみました!ああ~、この美しいフォルムと機能性……ふへへへ!」


 エイミーは恍惚とした表情で夢中でまくし立てる。

今までキャラとかなり違う気もするけど、そんな事よりも早く爆薬の入った木箱を降ろしたい。

 物が物だけに安全な置場所はないか見回すと、武器庫の最奥になにやら厳重に閉ざされた大きな扉が目に留まった。


 「それよりエイミー、この爆薬はあの奥の扉に運べばいいのかな?あれって弾薬庫だよね?」


 「あっ!そ、そこはだめですっ!!女の子のヒミツの場所だから……、まだカイルさんに見られるのは恥ずかしいよ……」


 台詞と表情だけならすごく萌えるのだが、機関銃を握ったままでは恥じらう姿も台無しだ。

それに、さらに凄い物が出てきそうな気がして見るのが怖い。


 「そ、そうなんだ……別に無理しなくていいよ、うん……。じゃあこれ、どこに置けばいいかな?」


 「あっ!ごめんなさい!私ったらまた周りが見えなくなって……。ここにお願いします。揺れないように固定しておきますので!」


 ようやく箱を下ろして一息ついていると、扉からのっそりとドリーが顔を出す。


 「……出港準備……完了だ」


 「了解、じゃあ本部に報告して出港許可を貰ってくれ」


 一応レイラに報告しておくために船長室に行くと、宣言通りラム酒をまるまる2本空にしてふて寝していた。

 仏頂面で机に突っ伏し、寝言をもらしながら眠っているレイラの姿に思わず笑ってしまう。


「……怖くなんか、ない……私は強い子だから……」


 こういう所がなんか憎めないんだよな、この人は。

 周囲から厄介者扱いされながらも腐る事無く自分の出生に誇りを持ち、自由奔放で、強がりで、時々子供っぽいレイラはエイミーとは違った意味でどこか放っておけない。

 俺は脱ぎ捨ててあった上着をそっとレイラに掛けてやり、操舵室に向かうと舵を握るドリーに出港を命じる。


 「これより出港する。エンジン始動!微速前進!進路、南西第一ポイント!」


 命令を復唱しながら、ドリーが手元の変速レバーを倒すと船底のディーゼルエンジンが暖気運転の低い唸りから腹に響く高い咆哮に変わる。変速ギヤが回転をスクリューに伝え、船体を震わせながら200号がゆっくりと動き出した。

 同時にディーゼル機関特有のつんとした排気煙が鼻をつく。

 母鳥から巣立つ雛鳥のようにフレイヤの大きな船腹から離れた200号は、飛び交うカモメを掻き分けながらオリオン基地を出港した。

港を囲む防波堤を抜け、さらに速度をあげて一路、南西へ。

 朝靄の中で瞬く霧中標識に見送られながら後ろを振り返ると、山肌に広がる白壁の街並が遠ざかってゆく。

 200号は曇り空の下、今も灰色の海原を彷徨っているアケロン号を目指してひた走る。

海流から計算したアケロン号との遭遇予想地点までは約4時間程の航海だった。


 それからかれこれ6時間、時刻は既に午後1時を廻っていた。


 「居ないじゃないかよぉ……カイル~もう帰ろうぜ!」


 双眼鏡を覗く俺の背後では、やっと起きてきたレイラが操舵室中央の艇長席に座って頬杖をつき、同じ台詞を繰り返していた。

 遭遇予想海域で2時間近くもアケロンを探し回っていたが、その姿を発見できなかったのだ。

雲は朝よりずっと厚くなり、おまけに霧まで出てきて更に視界が狭まっている。


 「霧がまた濃くなってきましたよ~。有視界距離は1㎞もありませんね。これじゃあ探しようがないです……」


 マストの見張り台から降りてきたチップもお手上げといった様子で空を見上げる。


 「これだけ探したんだから言い訳も立つだろっ!仕方ないよな~。あー、残念だ!」


 凄く嬉しそうなレイラの提案に、現状から考えても同意するしかない。


 「そうですね……この視界では発見するのは難しいか……じゃあ一旦帰りましょうか!安全のため、霧中信号を実施。ドリー、基地に戻ってくれ!」


「わかった……ただ、視界が悪すぎてスピードはだせない……」


 霧中海難防止の定期的な汽笛と無線送信を行いつつ、200号は乳白色の霧をかき分けるようにノロノロと進んでゆく。

船は乳白色の濃い霧に包まれ、既に視界は200m程しかない。


 「……何だか嫌な感じがする……見張りを厳に頼む……」


 ぼそりと舵を握ったドリーが呟く。長年の海の男のカンと言うやつなのだろう。

 俺が船首方向、レイラが左舷、右舷にエイミー、チップはマストという配置でそれぞれが霧の中に目を凝らす。

 垂れ込めた霧は真っ白なベールのように幾重にも200号を包み込み、聞こえるのは静かな波の音と低いエンジン音だけ。

 時折鳴らす霧中信号の汽笛の音が霧の中を反響して吸い込まれるように消える。


 「おい!カ、カイル!ちょっと来てくれっ」


 突然の悲鳴にも似たレイラの叫び声に左舷に向かうと、引き攣った表情のレイラが霧の中を指差している。


 「い、今、霧の中から、か、鐘の音が聞こえたんだ……」


 霧の中からの鐘の音……、それってあの漁師が語った話そっくりだ。レイラも同じ事を考えていたらしく、涙を浮かべた瞳で何度もコクコクと頷いている。


 「ドリー、ちょっとエンジンの回転数を落としてくれ!」


 エンジン音が消え、みんなが耳に神経を集中する。

 一分、二分、三分が経ち、緊張が解けたのかレイラがふっと身体の力を抜いた、その時――


 カーーン……


 確かに鐘の音が聞こえた……。ビクリとレイラが身体を縮こませる。


 カーーン……


 また聞こえた。今度はさっきより音が大きくなっている。音源が近づいている証拠だ。


 「音が周り中から聞こえる感じです!」


 マストの上からチップが叫ぶ。

 今の船ならば霧中信号には汽笛や無線を使う決まりだから、かなり昔に使われていた号鐘は装備されてないはずだ。

しかし、古いアケロン号には号鐘が残っている可能性は高い。


 「どうやらアケロンは近くに居るようだけど、方向が分からない以上、下手に動けないな」


 俺のつぶやきを聞いたチップが怯えた悲鳴をあげる。


 「でも近づいて来てるんでしょ!霧もどんどん濃くなるし、早く逃げないとこのままじゃぁ!」


カーーーン……


 今度は右舷のエイミーが叫ぶ。


 「カイルさん!今度はこっちから聞こえました!」


 霧の中で音が反響してるらしく音源の位置が掴めない。

 相手の居る方向が分からない以上、へたにスピードを上げるとアケロンに突進してゆく恐れもある。


 カー―――ン……


 単調に、そして無慈悲に繰り返される鐘の音は俺達を黄泉へと誘うカウントダウンにも思えてくる。

 そんな不吉な想像を振り払い、俺は士官学校で習った航海知識を総動員してみるが相手が波任せの遺棄船では対応しようがない。まして本当に幽霊船だったら……。


 「くそぉ、どうすりゃ良いんだよ……。アケロンの大きさはこっちの5倍以上だ。もし衝突されたら、ひとたまりもない……」


 俺の漏らしたつぶやきに、さっきまで縮こまっていたはずのレイラがおもむろに船橋に駆け上がる。


 「野郎共っ!敵は近くに確実に居るんだ!……ドリー!海流に沿って面舵20度で東に向かい、全速回避の準備!この時間の太陽は西だ、目ん玉見開いて霧の中の影を探せ!」


 あれほど怯えていたレイラとは別人のように力強く指示を飛ばす。

確かにこれなら霧の中の僅かな光源の太陽を最大限に利用しつつ、海流に乗って流れるアケロンと同航することで接近時の相対速度を少なくできる。

一瞬の判断と決断力、船員を奮い立たせる統率力。これが大海賊の血をひくレイラの本当の姿なのかもしれない。

 みんながそれぞれの持ち場で霧の中に目を凝らしつつ、200号は乳白色の霧の中を這うような速度で進んでゆく。


 「さ、左舷後方!霧の中に影っ!」


 チップの絶叫で振り返ると、一気に霧の壁を薄黒いシミが浸食してゆく。


 「ドリー!全速!取り舵一杯!」


 レイラが鋭く命じると同時に、見上げる程の巨大な顔が霧の壁を突き破り、200号目掛けて突っ込んで来た。


ギギギギィィィィーーー!


鋭い歯の並んだ巨大な黒い口から絶望の叫びをあげ、両目からは赤黒い血の涙が滴り落ちている。

 エンジンが咆哮のような唸りを上げて蹴り出すように加速する。

食らいつかんばかりに、錆の浮かんだ鋭い歯が200号の船尾を引っ掻き、耳障りな金切り音を立てる。

 船腹を擦りながら通り過ぎる鉄の壁を見上げると、筆記体で書かれた『 Acheron 』(アケロン)の文字が見えた。

 かなり危なかったがどうにか回避することができたらしい。

落ち着いて見ると、血の涙に見えたのは両舷から垂れ下がる錆びた錨、真っ黒い口に見えたのは座礁時に開いた船首下部の破口だった。

 ……幽霊の正体見たりなんとやらだ。

 しかしレイラの命令があと少し遅れていたらアケロン号に真横から突っ込まれ、回避する事は到底出来なかっただろう。

 真っ二つに引き裂かれ、卵の殻の様に轢き潰される200号を想像すると背筋に冷えた汗が伝う。


 「……お見事でした、船長……」


 呼吸の震えを抑えながら、心からレイラに告げる。 


 「お前が頼りないからだ!いいか、『船は自らの身体、仲間こそ自らの命と思え』だぞ。私の母様の教えだ……」


 そう言ってレイラはふと淋しそうな、それでいて懐かしむような微笑を浮かべる。

が、一転して


 「くそ、だからこそあのボロ船、絶対ゆるせねえ……。私の船に喧嘩売ったんだ!粉々に吹き飛ばしてやる!」


 アケロン号を睨みつけながら恨み言をぶつける姿はいつものレイラだった。


 「ドリー、アケロンの右舷に付けてくれっ!乗り込むぞっ!カイルは予定通り爆破の準備しろ!」


 怒り心頭のレイラはぎりぎりと歯がみしながら矢継ぎ早に指示を飛ばす。

自分の船が沈められそうになった事が余程頭にきたらしい。いつもこうなら俺の負担も軽くなるんだけど。

 200号は高速反転すると白い霧に呑み込まれつつあるアケロン号を追いかける。浸水で船尾が沈みこんだ船体は錆びに覆われ、船橋もボロボロ。窓ガラスは全て割れ、そこから薄汚れたカーテンが手招きするように風に揺れている。

 200号はアケロン号に併走しながら舷側に近寄るとレイラが鉤爪付きロープを投げ上げてアケロン号の船縁に引っかけ、そのまま慣れたようにスルスル登って行く。元海賊あって他の船に乗り込むのは慣れたものだ。


 「うわ、汚ねえなっ!」


 と、アケロン号の船縁に消えたレイラが上で騒いでいる。

次に顔を出したレイラが手でサインを送ると、ドリーは200号のもやい綱を投げ上げる。


 「よし!固定したぞ!次は縄梯子だ!」


 そうして俺達が荷物を背負って縄梯子を登る。

 全ての荷物を運び終えて一休みしている俺の元に、辺りを確認していたレイラが顔を引きつらせて戻って来た。


 「なあ……中、真っ暗だぜ……、奥で変な音もしてたし、今日は天気も悪いし、明日にしねえか?」


 さっきまでの威勢はどこへやら。余裕のない笑顔を浮かべたレイラは説得力のない言い訳を並べ始めた。


 「ならこの船で夜を明かす事になりますよ?それにこの海流の速度だと海峡への主要航路に差し掛かってしまいます」


 「あ~、もう!わかったよぉ……」


 ピシャリと切って捨てられたレイラは下唇を噛んでうなだれる。しぶしぶ同意したレイラに向かって、今度はエイミーがか細い声でぼそりとつぶやいた。


 「……窓から白い顔が覗いてたって言ってたんですよね……。何が居るか分かりませんから、ちゃぁんと船の隅々まで調べないといけませんよねぇ~」


 ピタリと動きを止めたレイラの目が再び泳ぎ始める。

 それを見てエイミーが俺に向けて「てへっ!やっちゃった!」みたいに可愛く舌を出す。

 可愛いだけに腹立つ!

 エイミーに力一杯抗議の視線を返した俺の予想通り、それからまた十分間、怯えるレイラを説得するはめになった……。


 やっとの事で出発した船内調査・爆薬設置班の俺とレイラ、爆薬の入った箱を背負ったドリーの三人はアケロン号の船内に入ってゆく。廊下の両脇の部屋の窓からの光が入って来るが、それでも自分の足下が見える位の明るさしかない。頼りは各々が持つ懐中電灯だけだ。

 後ろからはぎこちない足取りのレイラが俺の上着の裾を引っ張っているから歩きにくい事この上ない。


 「ちょっと船長!引っ張らないでくださいよ!それと、小銃をかかえてたらいざと言うとき撃てないでしょ!」


 片手で俺の服の裾を掴み、御守りの様に小銃を強く抱きかかえている。


 「い、いざとなったらちゃんと援護、し、してやるから安心しろ!」


 これじゃあ後ろから撃たれそうで不安だ……。

 俺達は船室の中を懐中電灯で照らしつつ、安全を確認しながら爆薬設置場所を目指して進む。アケロン号の図面で指定された設置場所は2ヶ所。最下層の機関室内とその隣の船倉だ。


 相変わらず背後では天井から垂れ下がった配線や船室の剥がれた壁紙の影にレイラがいちいち素っ頓狂な声をあげている。

 塗装は剥がれ落ち、赤黒い錆で覆われた暗い廊下を進むうちに、まるで巨大な生物の体内に居るような錯覚さえ覚える。

 懐中電灯の光に照らされた壁や床は湿気や油で汚れ、ぬめっていた。廊下の床には一面、何かが這いずり回ったような黒い汚れの筋が何本も付いている。何が居るのは確実で、その汚れは奥へ行くほど酷くなってゆく。


 やがて、空間を四角く切り取ったかのように下へ降りる階段が黒い口を開けていた。

 船内の見取り図を広げて確認すると、この下が1つめの爆薬設置場所の船倉だ。

だが不気味なのは、床がまるでここから溢れ出るかのように黒い筋で埋め尽くされている。階段下を照らして見ると、漆黒の闇の世界が広がっていた。


 「この船倉の奥にある階段を降りれば、爆薬を設置する船倉と船尾部の機関室に行けるみたいです」


 「なあカイル……ここに入らなきゃだめなのかぁ……」


 と、怖さが限界に達して涙目で訴えかけてくるレイラに不覚にもキュンとしてしまった。こんな姿を見せられたら可哀想な気もするが、爆薬を扱えるのはレイラだけなので仕方ない。


 「……じゃあ俺のシャツの裾を掴んでていいですから、もう少し頑張ってください」


 「……うん……頑張る……」


 最早抵抗する気力も切れたレイラが涙目でコクンと素直に頷く。なんか可愛いじゃないか……。

これがギャップ萌えか!

 俺は先に階段を降りると、怯えるレイラをなだめすかしながら降ろし、爆薬を背負ったドリーが続く。


 「ドリー、階段が濡れてるから気をつけて!」


 もし落っこちでもして高性能爆薬が爆発したら俺達は一瞬で本物のゴーストになるだろう。

 ドリーが無事に階段を降り、全員が安堵の息を漏らした刹那、


 ギギギッ!ズズズッ!


 振動と共に船全体が不気味に軋みをあげ、床の傾斜が増してゆく。同時に船内のあちこちから物がぶつかる音や、何かが倒れる大きな音が響いて来る。

 俺は階段の手摺りを掴んで身体を支えると、とっさにレイラの手を取った。揺れが収まると今度は無線機からエイミーの慌てた声が届く。


 『皆さん大丈夫ですか!波が高くなって船の傾斜が大きくなってます!急いでください~っ!』


 どうやら海が荒れだしたことで、船のバランスが崩れ始めたらしい。これ以上の浸水が進むと、傾斜が増して爆薬の設置どころか脱出する事も困難になる可能性もある。

 焦りが募る俺にレイラがおずおずと声を掛けてくる。


 「お、おいっ、カイルっ……。その、いつまで手を握ってるんだよ。放せ……、ばか」


 気が付けばずっとレイラの手を握ったままだった。


 「あっ!……ご、ごめんなさい!」


 「ど、どういたしまして……」


 レイラの柔らかくてしなやかな手の感触を意識してしまい、二人で意味不明な会話をしていた。


「おい……何か、聞こえる……」


 珍しく真剣なドリー言葉に聞き耳をたててみると確かに闇の中から微かな音が聞こえる。


 ずるっ……ずるっ……ぺちゃ、ぴた……


 湿った物を引きずるような音や、何かが動き回る音が確かに聞こえる。まるであちこちで得体の知れない何かが蠢いているようだ。


 「カ、カイルよぉ……ここ、絶対何か居るよな……?」


 「傾いたせいで漏れた油が流れてるんですよ、きっと……。爆薬の設置箇所はすぐですから、頑張りましょう!」


 レイラを怖がらせないようにとそれらしい理由を言ってなだめつつ、広い船倉の奥に歩を進める。

長年放置され、腐食したパイプから漏れ出した機械油や腐った海水の匂いが充満する船倉を進み、ようやく機関室との隔壁部分の爆薬設置場所に辿り着いた。


 「この辺りですね……。船長、その壁際に設置してください。ドリーは投光器をつけて船長の補助を頼む!」


 ドリーが灯した小型投光器の明かりの中で爆薬の設置作業を進めるレイラを横目に見ながら、俺は目の前に横たわる漆黒の闇を前にたたずずむ。

海が荒れ始めている今、少しでも速く作業を終えなければならず、その為には俺が次の設置場所を確認して必要資材を運んでおく必要がある。

たった一人きりでこの闇の中に入っていくのは正直かなり怖かったが、勇気を奮い立たせ、汗でべたつく懐中電灯を握り直して闇の中に進んでいった。


 一方、レイラはぶつぶつ文句を言いながらも爆薬をセットしてゆく。


 「ちっ!配線が厄介なんだよなあ……ったく!帰って早く飲みてえな~」


 「……レイラ、向こうに設置する資材を移動しておくぞ……」


 ドリーが残りの爆薬を抱えてレイラから離れて行くと、小さな投光器の明かりの中で作業をするレイラだけが残された。


 「え~と、この線がこっちで、これがこうだろ……」


 するとレイラのすぐ脇の鉄製の巨大なボイラーの向こう側から微かに何かを引きずるような音が聞こえて来る。


 ズルッ……ぺちゃ……ズルッ……ぺちゃ……


 だか作業に集中しているレイラは気付いていない。


 「よし、これを繋いで完成だ!私に掛かればこんなもん……」


 額の汗を拭っていたレイラの動きがピタリと止まる。闇の中から聞こえる音にようやく気付いた。


 「へ?!そこに居るのはドリーだよな?カイルか?そういう冗談やめろよ!……なあ……?」


 問いかけに答えるかのようにその不気味な音は徐々に大きくなってゆく。

 そしてすぐ脇の機械の影から白い塊がぬーっと現れ、レイラに向かって床を這いずって来る。


 「ひぃっ………」


 涙を溜めたまま固まったレイラの前にそれが正体を現した。

 それはぐっしょりと濡れた真っ白い身体をくねらせ、小さな手で這い寄って来ると、白目の無い真っ黒い瞳がレイラを捉えた。


 「ひぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁーーー」


 レイラの絶叫が船の中にこだました――


 悲鳴の元に駆けつけると、人様にお見せ出来ない泣き顔のレイラが飛びついて来た。


 「でででででたぁ~ああ、そこに、そこにぃぃ~○※〒あ♯があっっっーー」


 何を言ってるのかさっぱり分からないが相当怖い思いをしたらしい事だけは分かった。


 「船長!落ち着いてくださいっ!何があったんですか?」


 「そこ、そこに、ま、真っ白な幽霊があああ……」


 俺の胸に顔をうずめたままレイラが指さす投光器の光の中には真っ白い毛玉がもぞもぞ動いていた。

 真っ白なマリモに似たその物体に近づくと、その毛玉は顔を上げると黒真珠のような瞳でじっと俺を見つめて、


 「ぷ~~~ぅ!」


 と可愛い鳴き声をあげる。

 よくよく見るとアザラシの赤ちゃんだった。人間を全く恐れない所をみると、まだ生まれて間も無いらしい。


 「船長……これは子供のアザラシですよ。この先の機関室に囓られた魚やフンがありました。たぶん座礁してたときにアザラシの群れが住処にしてたみたいです」


 「え……ア、アザラシぃ?」


 レイラは恐る恐る振り向き、アザラシの赤ちゃんをじっと見つめる。


 「ぷ~~ぃ?」


 視線を感じたアザラシの子供もつぶらな瞳でレイラを見上げて小首を傾げる。

 その愛らしい姿にようやく安心したのか、レイラはそっと子アザラシの頭を撫でる。


 「お、ふわふわだな!全く、脅かしやがって!コイツめ~」


 「ぷぅ~い!ぷ~ぃ!」


 撫でられる子アザラシも気持ちよさそうに目を細める。

 レイラもさっきまであんなに怖がってたのに、子アザラシを抱き上げて話しかけていた。


「お前カワイイなあ~一人か?お前の母様はどうしたんだ?」


住み処になってたらしい機関室にはアザラシの群れの姿は無かったから、さっき大きく船が傾いた時に危険を感じて逃げ去ったらしい。たぶんこの子は迷子になったのだろう。

 するとそこに血相を変えたドリーが走って来る。


 「レイラッ……何があった!」


 レイラの悲鳴で駆けつけたのだろうが、いつも無表情なドリーがこれほど慌てるのは意外だった。


 「さっきのは……、この子を見てビビったカイルの悲鳴だよっ!こ~んなに可愛いのに幽霊と間違えるなんて、カイルはヘタレでちゅね~」


年頃の女の子にあるまじき形相で泣きついて来たのは誰だよ。


 「そうか……無事ならそれでいい……」


 レイラの無事な姿を確認したドリーが微かに頬を緩ませる。


 「それより機関室での設置をお願いします。遊んでる暇は無いんですよ、船長!」


 いつまでもアザラシとじゃれ合っているレイラを促す。


 「ああ、今やるよ~。ったく、船長の私に命令すんなよな~」


 ぶつくさ言いながらもレイラはアザラシの赤ちゃんを降ろしてしぶしぶ作業に戻る。

 床の傾きや船体が軋む音がさっきよりも明らかに大きくなっているというのに……。

呑気なんだか、図太いんだか。


 「これで全て設置完了です。……船の傾斜もキツくなってきたし、急いで脱出しましょう!」


 爆薬の設置を終え、荷物をまとめて移動しようとすると、俺達に向かって子アザラシがしきりに鳴き始めた。

 何かを訴えかけるような泣き方に、レイラが駆け寄って頭を撫でる。


 「大丈夫だぞ、お前もちゃんと外に連れ出してやるからな~」


 しかし子アザラシはじっとレイラの目を見つめ、つたない足取りで逆方向の闇の中に這って行く。


 「おいっ!どこ行くんだよっ!この船は沈むんだぞ!」


 放って置けずにレイラがアザラシを追う。

 このまま爆破する訳にもいかないので仕方なく後を追うと、子アザラシは機関室の隅で鳴いていた。

 そこは船の傾きで壁際に寄せられた鉄骨や壊れた機械の部品が大量に積み上がっていた。そのゴミ山に向かって鳴いていた子アザラシがごそごそと隙間に潜り込む。


 「おい!そんなところに入らないで出てこい!」


 レイラと一緒に中を覗き込んで電灯で照すと、太い鉄骨の下敷きになった灰色の大きなアザラシが見える。傾きで転がって来た物に挟まって動けないらしく、ぐったりと目を閉じていた。

しかし子アザラシが鳴くと、ゆっくりと目を開いて弱々しくその声に答える。


 「おい、あれはお前の母様かっ!?待ってろ、今助け出してやるから!」


 鉄くずやパイプなどをどけてみるが、鋼鉄製の大きな機械部品が重しになってて、これを取り除かない限り母アザラシを助け出す事は出来ない。

 三人掛かりで動かそうとしても全く動く気配が無い。


 「……これを人の力で動かすのは無理だな……」


 渋い表情でドリーがため息をつくが、


「お前らもっと全力で押せ!絶対に助けるんだよ!」


 レイラは諦める事なく顔を真っ赤にして力を込める。

 しかし何度俺達が力を合わせてもビクともしなかった。

こうして手をこまねいている間にも母アザラシは衰弱してゆき、我が子が鳴いても答える事なく、じっと我が子を見つめている。


 「ちくしょー!……目の前に母様が……居るのに助けられないなんてっ……」


 顔を真っ赤にして半ばヤケクソのように力を込めながらレイラが悔しそうにうめく。

その間にも船が悶えるような大きな軋みと共にみるみる床が傾き、ネジや破片が脚の間を転がってゆく。


 「船長!これ以上傾斜が進むと出口まで戻れなくなります!」


 船腹を叩く波の不気味な音がさらに不安を煽る。


 「くそっ!もう少し、もう少しなんだ……」


 油まみれになりがら一心不乱に母アザラシを助け出そうともがくレイラの腕を取って俺は諭すようにたしなめる。


 「どうしようも無いんです、諦めてください!」


 だがレイラはその手を振り払うと、感情を絞り出す様につぶやく。


 「諦めて手を離してしまったら、その後悔は絶対に消えないから……!もう絶対に諦めちゃいけない……」


 自分自身に言い聞かせるように悲痛な面持ちでつぶやく。

 その時無線機に途切れ途切れにエイミーの涙声が入ってきた。


 『……イルさん、聞こえますか?もう限界……お願いですから!すぐに脱出……くださいっ!みんな……のままじゃ……もうっ……』


 その声を掻き消すように再び船が大きく揺れて、床を転がって来た破片が周りの機械や壁に当たって耳障りな音をたてる。

 いよいよまっすぐ立っている事も困難になってくる。

船尾の方からの浸水も激しくなってきているのか、揺れに合わせて奥からの水音が大きくなっていた。

 その時、俺達のすぐ背後で床から外れた巨大な機械が転がり落ちて近くの壁に激突する。咄嗟にレイラを庇った俺の背中に砕けた破片が降りかかる。


 「これ以上波が高くなったらこの船は持ちませんよ!俺達を殺す気ですか!船長!」


「そんなに逃げたければ勝手に逃げればいいだろっ!私は絶対に諦めないっ!」


もはやこれまでだった。


 「エイミーっ!今から脱出する!エンジンを始動して退避準備!」


 無線に怒鳴りつけると、俺はレイラの両肩に手を置き、駄々っ子を諭すように静かに語りかける。


 「船長を置いて逃げる訳ないでしょ。いいですか?船長がここに居る限りドリーも俺達を待っている200号だってこの船から離れないでしょう。それから俺も船長と一緒にここで死ぬことにします」


するとそれまで黙って見ていたドリーがレイラの前に立ち、その胸ぐらを掴むと、レイラの涙の滲んだ目をじっと見つめる。


「レイラ……、お前はローズの教えを忘れたのか?『船は自らの身体、仲間こそ自らの命だと思え』。それと何より、お前はローズの最後の願いを、忘れたのか?もしそうなら、俺はお前を許さない……」


「……母様の最後の願い……」


「忘れてなんかない!……忘れたり出来ないからこそ、私は諦めちゃいけないんだ……」


 レイラは今にも泣き出しそうな表情で母アザラシを振り返ると、それまで目を閉じていた母アザラシがそっと目を開いた。

 穏やかな瞳でレイラをじっと見つめ、そしてすがりつく我が子を慈しむかのような優しい眼差しで見つめる。

 その姿に忌まわしくも懐かしい母の最後の記憶が脳裏に蘇る。


 ――12年前のあの日、囚われた暗い檻の中で泣き叫ぶ幼いレイラをローズが強く抱きしめる。やがて海賊達に連れ出されてゆくローズは必死に縋り付くレイラの手を取り、困ったように微笑むと、泣き腫らした瞳を見つめながらそっとつぶやいた。


 「あなたは私の宝物。私のすべてよレイラ。あなたは強い子。だから何があっても生きなさい……。必ず……」


慈愛に満ちた眼差しを残し、ローズの姿は扉の向こうに消えた。


 「うぁぁっ……、母様ぁっ、母様ぁっ……!」


 遠い日の忘れ得ぬ悲しい記憶に、心の軋みような震える声で小さくつぶやくレイラ。

 やがてその痛みに歯を食い縛り立ち上がると、レイラは母親に縋り付く子アザラシを抱きかかえる。


 「……カイルっ!脱出だ!何としてもこいつを連れ出すぞっ!」


 そうして俺達は傾いた床を駆け、甲板に上がる階段を目指す。広い船倉から上に登る階段がやけに遠く感じる。

しかしやっと元来た階段にたどり着くも、上の階から落ちてきた鉄骨やら船室の家具やらで出口が完全に塞がれている。

 見取図を広げて他の脱出口を探している間にもゆっくりと、だが確実に船は沈みつつあった。


 「おいカイル!どっち行けばいいんだよ!死んだら一生怨むぞ!」


 「えーと、たぶんここがA6通路だから……、あっちのA3通路にも階段があるはずです!」


 再び俺達は斜めに傾いた廊下を突っ走り、やっとの思いでたどり着くも、そこも同じく階段の出口が完全に塞がれていた。三人掛かりで塞いでいる家具やら鉄屑を押し上げてみるも、出られそうにない。


 「くそっ!……カイル、次はどこだ?!」


 見取り図で探しても、めぼしい出口がどこにもない。残りの階段は機関室だが、すでに大部分が浸水している機関室に戻って暗闇の中を探し回るのは不可能だ。


「船長……、ありません」


「はぁ?こんな時にそんな冗談は笑えないぞ」


「冗談じゃないですよ!本当に出口が無いんです!」


すでに傾斜は30度を越えて、何かに掴まらないと立っていられない。俺達は後ろも前も塞がれ完全に閉じ込められてしまった。

俺は生まれて始めて死を実感した。

 あとは俺達が口に見間違えた船首部にある座礁時の穴から、沈む瞬間に空気と共に押し出される事を願うしかない。

 無線機で200号にアケロン号から離れるように指示を出す。


 「エイミー!巻き込まれないように船から離れてくれ!……運良く出られたら、拾ってくれるとありがたい」


 努めて明るい口調で言っても底知れぬ恐怖に胃の辺りがキュッと縮み上がり、手と声の震えが止まらない。

 無線機からは途切れ途切れにエイミーの泣きそうな声が返ってくる。


 『そ……な!カイルさんっ!おねがい……いやですぅ……』


 小説や映画ではお馴染みの絶対絶命というヤツを本当に経験する日が来ようとは。


 「……こーなったら、しゃーねぇ。あの手で行くか……」


 妙に落ち着き払っていたレイラが腹を括ったようにそう言うと無線機に向かって叫んだ。


 「エイミー!ビースト解禁だ!好きな物使っていいから私達を助けろ!A3通路だ!」


 了解の返信から間も無く、次に入った無線はエイミーが発したとは到底信じられないものだった。


 『……きゃひゃひゃひゃひゃひゃ!!おめーらっ!ぶっ殺されたくなきゃ離れとけよ!』  


 死の恐怖も頭から吹っ飛んで、俺は自分の耳を疑った。


 「おい、カイル、ボーッと突っ立ってんじゃねえっ!殺されるぞっ!」


 レイラが俺の襟首を掴んで階段の影に引っ張り込んだ次の瞬間、轟音と閃光、身体の芯を揺るがす激しい衝撃で激しく壁に打ち付けられ、つんとした火薬の臭いと黒い煙が視界を覆う。

 キーンと耳が麻痺してて何も聞こえないが、目の前ではレイラが必死な顔でパクパクしてる。なかなか滑稽だ。

 レイラはまた俺の襟首を掴むと力一杯煙の中に放り込む。

俺はネコ扱いかよ!

風の音と同時に煙が晴れ、目の前にぽっかりとあいた穴から見える灰色の空と白波の立つ海。その景色の中に200号の白い船体が近づいて来る。


 「おいっ!カイルっ!!脱出するぞ!」


 聴力が戻ってレイラの大声で我に返る。

 もう最後だと思ったらいきなり目の前に出口が開いた。

俺達が甲板に飛び降り、200号が急発進して離れたその直後、アケロン号が一気呵成に傾いて赤い船底を晒して転覆する。

その時、耳をつんざく轟音が響いてアケロン号の船底に爆炎があがった。続いてもう一発。

設置した爆薬の誘爆かと思ったが、それにしては物足りない。

そう思った瞬間、ご期待にお答えするようにさっきとは比べ物にならない程の巨大な二つの爆発でアケロン号の船底が粉々に吹き飛んだ。空に舞った破片の雨の中、残った船体が断末魔の軋みをあげながらズブズブと波間に沈んでゆく。

もう死ぬかと思ったが、どうにか生きて戻れた……。

しみじみと生きている事を実感している俺にチップがへっぴり腰で泣き付いてきた。


 「カイルさぁん!あ、悪魔が……。悪魔がぁっ……」


 チップはうわごとのようにつぶやきながらその場にへたり込む。ノミの心臓のチップの事だから俺達の切迫した情況や爆発を見て大袈裟にビビってるんだろう。

そんな事よりもエイミーの姿を探す。

 こんな時こそ『無事でよかったです……カイルさんに何かあったら、私もう生きていけない……』って胸に飛び込んで来るシチュエーションじゃないか?

 俺の甘い展開の妄想を叩き潰すように船首の方からハイテンションなエイミーの声が聞こえて来た。


 「きゃひゃひゃひゃ!ぶっ飛べぇっっっっ~!!」


 そしてまたも轟音と同時に海面に浮かぶアケロンの残骸が爆発してバラバラになる。

いつものお淑やかで優しい、ほんわか日だまりのようなエイミーからは想像出来ない声だ。

 耳を疑いながら声が聞こえる船首に向かうと、エイミーが狂ったように高笑いしながら大砲をぶっ放していた。

 いや、外見は確かにエイミーなのだが、纏っているオーラがヤバイ。涎を垂らさんばかりに恍惚とした表情、血走ったその目は地に飢えた獣のようだ。

 チップの言っていた『悪魔』という言葉に合点がいった。


「おい、ドリー。うるさいからアレとめろ!」


 俺に続いてやってきたレイラがめんどくさそうに命じると、ドリーは大砲を撃ちまくっているエイミーの首筋にためらいも無く強烈なチョップを喰らわせる。

 こん棒のような手でチョップを喰らわされたエイミーまるで糸が切れた操り人形のようにクタっとその場に崩れ落ちた。


 「あ、あ、あの……レイラ船長?これはどういう事なんですか……?」


 「ああ、エイミーは銃器の類を持たせるとああなるんだよ。あの癖のおかげでどこの部隊でも手に負えなくてな。ビーストモードって呼んでるが、あの状態でも射撃の腕はピカイチなんだぞ。弾を撃ちきるまで止まらない、というちょっとした欠点はあるけどな」


 で、今のが停止方法という訳なんだろう。すごくいろいろ納得できた。

 頭では納得できたけど可憐な年頃の女の子が無骨なマッチョのチョップを喰らい、丸太みたいに無残に転がってる光景は、繊細な俺の心にはかなりショッキングだった。


 こうしてどうにか任務を終えた俺達ゴーストナンバーズは帰還の途についた。

 沈みかけている遺棄船から命懸けでアザラシの子供一匹を救出して海没処分。危険で全く割の合わない任務だった。

 例え失敗して俺達が死んだとしても世間に出る事はない。それが存在を葬られたゴースト・ナンバーズなのだ。

 そんな立場にもかかわらず、艇長席のレイラは呑気にアザラシの子供を抱き上げて語りかけていた。


 「さて!これからお前はちゃんと仲間の所に連れてってやるからな~。……ドリー、ちょっと寄り道するぞ!」


 いつもと変わらぬレイラの姿に母アザラシを助けようとした時のあり得ない程に取り乱した姿を重ねる。


……母様の最後の願い……


きっと今もレイラの心は悲しい過去の記憶という呪縛に囚われているんだろう。いつものちゃらんぽらんな言動はその苦しみを誤魔化すための自己防衛なのかもしれない。

俺は白い波頭が砕ける灰色の海原をじっと見つめるレイラの横顔に心から願った。


 いつの日か、凍てついたその心を溶かす暖かく穏やかな風が吹く事を――。

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