第11話 雪積る街の女たち 2家路
"お客さん、お客さん、そろそろ閉店ですよ"
誰かが肩を叩く、その手にはぬくもりが感じられる。
"お連れのお客さん、帰っちゃいましたよ"
頭ががんがんする。男の声がぐるぐると回る。
"そろそろ始発が動き出しますよ"
始発……なんのことだ。いや、それよりこの声、どこかで聞いたことのある声だ。
どうやら眠ってしまったらしい。それもお店で。ここは知っている。マスターじゃないか。今日は臨時休業じゃなかったのか。
そこは私が最初の立寄ろうとしたバーのカウンターであった。どうやら酔いつぶれ、この時間まで寝かして置いてくれたようだ。そういえば"連れが帰った"と言っていた。だれだ。何のことだ……誰と一緒にここに来た。
私は――。
頭が痛い。
寒気がする。風邪でも引いたのであろうか。
夢か。
夢なのか。
頭だけじゃない。
体中痛い。
身体が重い。
"お題はお連れさんからいただいていますから、どうかもうお帰り下さい"
連れとは誰のことなのか。私はいつこの店に来たのか。そもそも今日は臨時休業ではなかったのか。いろいろと聞きたいことはあったが、それほどなじみでもない店で、こんな醜態をさらしてしまっては、どうにも恰好がよくなかった。
私はマスターに促されるまま、店を後にした。
雪は止んでいた。
10センチ以上の積雪は久しぶりだろう。去年は雪を観なかったのではなかったか。
ともかく寒い。
早く家に帰ろう。
駅のロータリーには人がまばらで、タクシー乗り場には数台客待ちのタクシーが止まっている。
私はタクシーを拾い、雪がどうの、寒さがどうの、駅前で人が倒れ、救急車で運ばれたとか、そんな世間話をしているうちにマンションの前に付いた。
タクシーを降り、真新しい雪の上を歩く。
雪を踏みつける音が心地いい。それで私はようやくユキと言う女性の名前を思い出した。
「ユキ……、確か、そんな名前だった。変わった娘だった。悪いことをした。また会うことがあったら、食事でもおごってやろう。また逢えたら、の話だが……」
明け方5時。まだ外は真っ暗だ。彼女とどんな会話をしたのか、そもそもあの店での記憶はまるでないが、歳を取るとこんなものなのか。楽しいことはすぐに忘れてしまう。そういえば今日は燃えないごみの日だったか。そういうことは、覚えているものだ。
"ゴミ、忘れないでね"
妻と最近かわした言葉と言えば、確かにそんなことくらいしか思い出せない。起こさないようにそっと玄関を開けないと、こんな時間から妻の不機嫌な顔は見たくない。
嫌だ。
"あなたの本当の望み、叶えてあげる"
ふと、脳裏の彼女の言葉が浮かび上がる。私の本当の望み――それは。
郵便受けを覗く。さすがにこんな日はチラシも入っていない。
エレベーターで4階に上がる。なぜか妙な胸騒ぎがしてきた。そんなことはあるはずはないと思っても、その不安はぬぐいきれなかった。
私はズボンのポケットからカギを取り出そうと手を突っ込むが、おかしい。鍵がない。まさかどこかで落としたのか。いや、そんなはずはない。雪の中を彼女と歩いているとき、確かに鍵はポケットの中に入っていた。
まさか、あの店に落としてきたのか。
玄関のドアノブに手を掛け、ゆっくりと回す。回った。
鍵は、かかって、いなかった。
鍵を掛け忘れたのか。それとも私の為に鍵を開けておいてくれたのか。いや、そんなはずはない。いつも妻はしっかりと鍵を掛けて寝る。一度たりとも、鍵が開いていたことなど、なかったではないか。
ゆっくりとドアを開けて中を覗きこむ。真っ暗で、そして寒い。おかしい、まるで窓を開けていたかのように寒い。妻は寒いのは嫌いで、寝る直前まで、暖房をつけている。こんなに寒いのはおかしい。いや、それよりも、これは……。
玄関が濡れていた。
誰かが濡れた靴で歩いた跡がある。妻が夜中に出かけるはずもない。
こんな雪の日に誰か訪ねて来たのか。
下駄箱の上に、あってはならない物を私は見つけてしまう。
それは私の鍵だ。
私が持っているはずのものが、どうしてここにある。誰かがこの鍵を使って、ここに入ったということなのか。
誰が……
"あなたの本当の望み、叶えてあげたわ"
耳元で囁く声。そんなはずはない。僕の後ろには誰もいないはずだ。
私は玄関からマンションの渡り廊下を覗く。誰もいない。ドアを締め、鍵を掛ける。そして雪のかかった靴を脱ぎ、真っ暗な部屋の廊下を歩きはじめる。寝室は一番奥だ。
私はポケットに鍵をしまい、コートを脱ぐ。習慣と言うのは恐ろしいもので、こんなときでもコートは必ず玄関で脱いで、部屋に上がる。そうしないと、妻はいつも怒るのだ。鞄を書斎に置き、コートをハンガーにかけ、ネクタイを外す。上着を脱ごうとしたが、さすがに寒い。私はそのまま、寝室へ向かった。
結婚した当初はベッドで一緒に寝ていたが、今は、ベッドを処分して、別々の布団を敷いて寝ることにしている。寝室を覗くと布団は二組敷いてある。それは私の為に敷いてくれているのではない。"別々の布団で寝ましょう"と言う、妻の意志表示なのだと理解したとき、私たち夫婦は、どこかよそよそしい存在になったのかもしれない。それでも喧嘩はしたことはなかった。私は争い事が嫌いだったし、妻の小言を聞き流すことは、どうということはなかった。
私の両親がそうだった。それでも二人は晩年、仲良く旅行に行ったり、食事をしに出かけたりしていた。私たちもいずれ、そうなるのだろう。これはそうなるまでの過程なのだと、私は思い込むようにしていた。
妻は布団の中で眠っている。目が覚めると。妻は向こうを向いて寝ている。妻の寝顔を見ることは少ない。だが、今日の彼女は仰向けに寝ている。顔は暗くて見えないが、身体の麦が仰向けになっているのは判る。しかしよくもこんなに寒い中で眠れるものだ。自分の吐く息が白い。何かがおかしい。いや、ちがう。
何もかもがおかしいじゃないか。
私は、妻の枕元に立ち、そしてぐるりと一週、布団の周りを歩いた。妻は人の気配に敏感なのか、こんなことをすればすぐに目を覚ます。とくに明け方はトイレに立つことが多く、そういう時に目が合うと睨み返される。だから私は、いつも寝たふりをしている。
やはりおかしい。
私は妻に怒られることを覚悟して、その寝顔を見ようとゆっくりと顔を近づける。身体が寒さで震えているのか、恐ろしさで震えているのか、或いはその両方なのか。ともかく、もし妻が目を覚ましたなら――
"あなた、私をどうにかするつもりなの?"と言わんばかりの目で睨まれるだろう。
馬鹿な。
私が、そんなことするわけないじゃないか。
私が、自分の妻を……どうにかしようなんて。
私はすっかり気がふれて、気が付けば自分の両手を前にかまえ、思いっきり妻の首筋に手を掛けようとしていた。そしてそこまできてようやく気付いた。
何がおかしいのか――妻は呼吸をしていない。
妻の両手は布団の端をがっしりと掴んだまま、硬直している。パジャマから見える肌は霜が降りたように真っ白になっている。目は空いていないのではなく、白目をむいて苦悶の表情で歪んだまま、妻は絶命していたのである。
「私の望み……それは、妻を、殺してほしい」
そうだ、あの時私は、そういった。そう望み、そう願ったのだった。
「あなたの本当の望み、叶えてあげたわ」
誰かいる。私は確信をもってゆっくりと振り返る。そこに一人の女性が佇んでいる。
「君はあのときの……」
私は声を殺しながら尋ねた。目の前にいるその女性は、あのタクシー乗り場で出会ったユキだ。
「あなたはずっと迷っていた。帰りたくないと望んでいた。だから私は、あなたと出会ったのよ。あなたに道を示すために、私は雪と共に現れたのよ。さぁ、あなたも眠りなさい」
ユキはゆっくりと私に近づき、私の耳もとで息を吹きかけた。
それはとても冷たい息だった。
私はどうしようもない眠気に襲われ、そして意識が遠のいていく。
「そうか、君は……、私の……」
嗚呼、そうなのだ、ユキは若い頃の妻の姿にそっくりだ。
妻をこんなふうに変えてしまったのは、私なのかもしれない。
「すまない」
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