第3章 花鳥風月
雪積る街の女たち
第10話 雪積る街の女たち 1雪降る街
その日、予報よりも早く雪が降り出し、夕方には都心の交通網がすっかり麻痺してしまった。
紆余曲折、やっとの思いで自宅の最寄り駅に着いたのは夜の11時を回っていた。いつもならここから自転車で帰るところだが、さすがにこの雪では無理である。
タクシー乗り場に向かうと案の定、長蛇の列ができている。歩いて帰れない距離ではないが、雪の中を転ばずに帰るだけの体力も気力も私には残っていなかった。
妻には遅くなるから先に寝ているように連絡を入れてある。駅前で一杯ひっかけてからならタクシーも拾いやすいだろう。
いや、そうじゃない。
妻はたぶんまだ起きている。
ちょうど今から始まるバラエティ番組を見て、寝るのは12時半か、そんなものだろう。
私は妻の顔を見たいとは思っていなかった。
だからこの雪を口実にして、今日はせめて妻が眠ってしまってから帰ろうと、そんなことを安易に考えていた。
いや、願っていた。
そう願いながら、私はやはりタクシー乗り場に並んでいる。あと30分の辛抱だ。
『家に帰って熱いシャワーを浴びて……』
それからどうする。妻が何か温かい物でも食べさせてくれるというのか。
何かやさしい言葉をかけてくれるのか。
いや、私は妻に、何か言葉を掛けられるのか。
『何か、あったかいものでも作ってくれよ』
そうじゃない。
そうならないし、そうしてこなかった。
「すごい行列ね。これじゃ、何時になるかわからないわね」
私の背後で声がする。振り返るとそこには見知らぬ若い女性が立っている。それはそうなのだ。こんなところで若い知り合いの女性などいやしない。しかし、彼女は親しげに私に話しかけているようだった。
親しげに――とは、声のトーンもそうなのだが、何よりもその距離である。
近すぎる。
きっと誰かと間違えたのだろうと、私は振り返りざまに「なんでしょうか?」とか「どちら様でしょうか?」くらいの言葉をかけるつもりでいたのだが、それを果たすことはできなかった。
なぜなら彼女は、とても美しく、とてもきれいで、そしてどんどん近づいてきたからである。
言葉を失った私に、彼女はこう告げる。
「寒くないですか? お疲れでしょう? どこかで温かい物でも食べていきませんか。それよりお酒の方がよかったかしら」
これはもう、本当に何かの間違えに違いがなかった。
「あのぉ、すいません、どこかでお会いしたことが……どうにも思い出せなくて、申し訳ありません。私は――」
自分の名前を告げると、彼女は不思議そうな顔をして私をじっと見つめる。
私は自分の体温が上昇するのをはっきりと感じた。うっかりすると汗が吹き出してしまいそうである。
「そういうことは別にどうでもいいのですけど、いけませんか?」
調子がつかめないまま、彼女は私の腕を取り、タクシー乗り場から繁華街の方へと私を引きずるように歩きはじめる。
どうにも恰好がつかない。
白い傘、白いコート、白いセーターにホワイトデニム、白のブーツ。彼女の存在は雪に溶け込んでしまいそうに白かった。黒髪は長く、胸のあたりまで伸びている。肌の色は白く、細い目にすっと通った鼻筋。唇はピンクで薄いが、しゃべる時に時折見える真っ赤な舌が妙に印象に残る。
いくら思い出そうとしても、やはり彼女と私は知り合いではない。
このままどこかの店に連れて行かれるのなら、これは何か裏があると思うのだが、そうではないようだった。
「どこか行きつけのお見せとかあります? あまり騒がしいところは苦手。でもカラオケは好きよ」
一件目はこちらが主導で二件目に「私、ここに行きたい」とか言い出すのだろうか。しかしそれにしてもわからない。彼女は確かに誰かに似ているような気がするが、しかしこんなに若い女性の知り合いはいない。
「ねぇ、教えてくれるかなぁ。君は――」
「私、ユキ。都会でまさかの大雪でしょう。めったにないことだから、どうしていいかわからなくて、私、困っていたところなの」
何をいっているのかさっぱり、わからない。
「いや、そうでなく……前にどこかでお会いしていましたか?」
彼女は不思議そうな顔をして私の顔を覗き込んだ。
「道を尋ねるのに、知らない人に話しかけちゃいけないって言ったら、みんな迷子になっちゃうわ」
そういうことではないと思いながら、なぜか彼女の声は耳に心地よく、抗うことのできない説得力のようなものを持っている。そして、もっと彼女の声を聴きたいという衝動が、じわじわと湧いてくる。
彼女ともっと会話がしたい。
「よくわからないが、そう、そういうことなら、いい店を知っている」
私は何度か立寄ったことがあるバーに彼女を誘った。彼女はお酒が飲めればどこでもいいと言って着いてくる。何年か前にふらっと立ち寄ったその店は、30代前半の若いマスターが一人で切り盛りしている。なんでも母親から店を受け継いだそうなのだが、別に母親が亡くなったというわけでも、引退したというわけでもなく、親父さんのやっている中華料理屋を畳んで小料理屋に改装し、そっちの手がかかるようになったので、息子にバーを託したのだと聞いている。
値段も手ごろで、もともと中華料理屋の手伝いをやっていたこともあり、料理の腕も立つ。しかし物事なかなかうまくいかなものである。店の前にくると張り紙が貼ってある。
"本日、諸事情により、臨時休業いたします"
「まぁ、残念。他を当たりましょう」
私が謝るよりも先に私の腕を引いて歩き出した。彼女はこの状況を楽しむかのように溌剌としていて、なんだか羨ましかった。これが若さなのかとそんなことを思いながら、彼女と二人、適当に店に入ろうとしたが、どこもやっていないか、満席か、もう閉店しますといった具合になかなか落ち着くことができない。
だが、なぜだかそれが楽しい。
「なんかこうなると大手のチェーン店とかにすればいいんでしょうけど、なんか、意地になって探しちゃいますね。なんか楽しくないですか。こういのう」
普段から手袋をしない私は、両手をズボンのポケットに入れたまま歩く。彼女は僕の左腕にしがみつき、寄り添って歩く。彼女が持っていた白い傘はささず、私の大き目の傘に二人、まるで恋人のように夜の街を歩き回っている。路面には雪が降り積もり、静寂の中に、雪を踏みつける音が妙に心地いい。子供の用に踏みなさられたところではなく、誰もまだ歩いていない道を選んでいるうちに、繁華街から少し離れた人通りの少ない場所にたどり着いた。
「この辺りには店はないか。引き返そうか?」
立ち止まって振り返ると、当たりの風景はまるで見覚えがない。いったいどこに居るのかだいたいの場所もわからないというのは、さすがに変だと思った。
「随分と歩いてきてしまったのか、どうにもここがどこだかわからないな」
彼女はどういうわけだか黙りこくってしまっている。これはもしかすると彼女を怖がらせてしまったのではないかと、慌てて弁明をする。
「いや、本当にここがどこだかわからないんだ。冗談じゃなく。本当に。もちろん何か企んでいたりはしない。とりあえず足跡をたどって行けば元の位置に戻れるだろう」
私は引き返そうと来た道を指差し、そして路面を見る。真っ白に積もった雪が街頭に照らされ銀色に光っている。雪の勢いはまし、どうにも先が見にくい。街灯の数が少ないせいもあるが、ここに来るまでに何度か細い路地をまがったような気もするし、ずっとまっすぐ歩いたような気もする。
なんで記憶が曖昧なんだ。それにいくらなんでも周りに灯りがなさすぎる。いや、それだけじゃない。足跡が少し先で途切れていないか。それはいくらなんでもおかしい。どれだけ雪が激しく降っても、数メートル先の足跡が消えて無くなるということはないだろう。
私は少しばかり怖くなり、そして今まで感じていなかった寒さを急に感じるようになった。情けなく身体がぶるぶると震えている。
「寒いの?」
「ああ、さむいね」
「心細い?」
「ああ、心細いね」
「帰りたい?」
「……」
「帰りたくないのね」
「そうだね。帰りたくは……ないかもね」
「そう」
「ああ」
「じゃあ、このままで」
「ああ、このままで」
「私と一緒に居てくれる?」
「ああ、君と一緒にいたい」
「ずっと?」
「ああ、ずっと一緒だ」
私はどういうわけだか満たされていた。心のつかえが取れたような安堵感なのか、彼女の天使が囁くような美しい声に酔ってしまったのか。そして急激に疲れを感じ、身体が思うように動かない。
眠い
「疲れたのでしょう?」
「ああ、とても疲れたよ」
「いいわよ。私が癒してあげる」
「ああ、とても安心する。君の声を聴いていると……なんだか気持ちよくて眠くなる」
「いいのよ。さぁ、私の胸の中でお眠りなさいな」
彼女は白いコートのボタンを外し、コートを両手で広げた。白いセーターの胸のふくらみを見た瞬間、私は無力になり、彼女の目の前にひざまずき、身体を預けた。
だが、私は彼女に求めていたぬくもりにたどり着くことができなかった。
どういうわけだかコートの中の彼女のセーターはふわふわとして気持ちがいいのに、温度がまるでなかった。外気よりも冷たいのではないかと思うくらいに、彼女の体温は冷え切っていた。
いや、正しくない。凍り付いていると言っていいほどに、冷たくなっていた。
「君はいったい……だれ……なんだ」
「私はユキ。雪の中で迷える者に、私は取り憑くの」
ああ、これが雪女ってやつか。都会に出るとは、知らなかった。
「私は死ぬのか」
「それはあなた次第よ。あなたの本当の望みは何?」
「私の望み……それは」
凍えるような寒さに耐え、私は唇を震わせながら呟いた。
「妻を……」
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