第9話 もうひとつの顔


「お待たせしました」

 一郎が息を切らせながら走ってきた。一郎の顔に笑顔が戻っていた。


「ありがとう。早かったのね」

 ミサに優しい言葉をかけられて、一郎は気分が高揚するのを感じていた。


「すいません。こんなところに一人にしっちゃって」

「いいのよ。一人は慣れているし、それにさっきまでは一人じゃなかったというか、もう一人そこにいるのだけれど」

 ミサが指をさした先には、気を失って倒れている男がいた。一郎はすっかりそのことを忘れていた。


「あっ、あの人、おこさなくて大丈夫でしょうか?」

「まぁ、本当に気を失っているだけだから、平気だと思うけれど、風邪をひかれても気の毒ね。そうね。もう少ししたら、あなた、警察にでも電話してあげなさいな」


「そっ、そうですね。で、こんなものでいいですか? レジ袋」

 一郎はレジ袋を5枚、ミサに差し出した。ミサは小さくうなずくと、一郎からレジ袋を受け取り、地面に山になった土を拾い、レジ袋に入れた。袋は3重に重ねられてしっかりとしばりつけ、それをさらにもう一枚のレジ袋に入れた。一枚余った。


「そういえば、さっきの短剣……、あんな物騒なもの、いつのまに?」

「物騒なものっていうのは、これのことかしら?」


 そういうとミサは長いスカートをまくりあげた。あらわになった細く白い足、シワひとつないように見える膝、そして少しだけ想像を上回る太さの太ももがあらわになる。

 一郎は生まれて初めて生唾をゴクリと音を出して飲み込んだ。その白いミサの健康的な太ももには革製のベルトが巻きつけてある、そこに短剣のさやがあった。

「内緒よ」

 ミサはいたずらっぽく微笑み、右手でつまんだスカートの端を離した。重力に逆らいながら、静かにスカートはミサの足を隠していった。一郎はすっかりその様子に見蕩れてしまい、ミサが自分に微笑みかけていることにすら、気づくのに一瞬遅れるありさまだった。


「さぁ、もうここには用はないわ。行きましょうか」

「えっ、このマネキンは……」

「そこに倒れている男のためにも、こういうものはそのままにしたほうがいいのでなくて、それにもう死者の魂はどこにもないわよ」


「死者の魂……? ミサさん、あれはいったいなんだったんでしょうか?」

「あなたには、なにか心当たりがあって?」

「ぼ、僕は彼女に以前、あっていたのかもしれません」

「それはこの際、問題じゃないわね。あなたが見たというその女性と『あれ』は別人よ」

「そうなんでしょうか……? 確かに顔を覚えているわけではないし、違うと言われれば、違う気も……」


「ただ、そういう人がいたことは事実ね。そして、その人も『あれ』――彼女と同じように、何か引っ掛かるものを心の奥深くに持っていたのでしょうね。そういう女性の情念の集合体が、あの『鬼女』ということになるのだけれど……」

「えっ? それじゃあ、つまり、あれは誰か一人ということじゃなくて――」

「女の人が持っている『もう一つの顔』ともいえないことはないわね。彼女自身はそういう女性の『陰の部分』の依代にされたということになるのだけれど、でも、そんな珍妙なことは自然には発生しない」


「もう一つの顔……新しい顔」


 一郎は鬼女の言葉を思い出したが、それまでとは違って、ひどく悲しい気持ちになり、そしてある感情が湧き上がった。

「つまり、誰かが何らかの目的で――」

「さぁ、それはどうかしらね」

 ミサが少しばかり強い口調で一郎の言葉を遮った。


「でも、ここから先はあなたの物語ではないわ」

「も、物語?」

「そう、あなたはあなたの紡ぐべき物語の中で暮らしなさい。あなたには感謝しているけど、これ以上の深入りは私の望むところではないのよ」


 一郎は、体中の毛穴が開くのを感じた。毛という毛は逆立ち、ひどく生命の危険を感じた。しかし一歩も動くことはできない。ミサが静かに一郎に近づいてくる。一郎の体温は2度下がった。


「今夜のことは、なかったこと、知らなかったことよ。他言無用。それがルール。あなたがもし、そのルールを破ったとき、あなたの物語はそこで終わりを告げるわ。でも安心なさい。あなたは思い出すことはないわ。でも、もしも、あなたに生命の危険が及ぶとき、私の助けが必要なときはわたしの名を呼びなさい。そうすればたとえ遠く離れていても、私はあなたを助けるために再びあなたの前に姿を現すわ。一郎。ありがとう。そしてさようなら」


 ミサは一郎の首に両手を回し、一郎の唇を奪った。一郎はかすかな死臭を感じながらも、抗うことのできない快楽が首筋から脊髄を通って行くのを感じた。

 一郎は欲情し、そして果てた。一郎の頭の中は真っ白になり、そのまま地面にへたり込んだ。ミサは一枚余ったレジ袋の中に自分の頭髪を数本抜いてその中に入れると、放心状態で座り込む一郎の右手に、ミサの黒い髪の毛の入ったレジ袋を握らせた。


 次に一郎が気づいた時には、もうミサの姿はそこにはなかった。

「お、オレはいったいここで何を……」


 一郎が状況を飲み込み、そばに倒れこんでいた男を助けてアパートに帰ったのはもう朝になろうかとしている時間だった。目が覚めたときには一郎の記憶の中にミサの姿は完全に姿を消していた。一郎の右手にはいつも立ち寄るコンビニのレジ袋が握られていたが、何を買い、何を食べたのか全く覚えていなかった。


 いや、そもそも何も買ってないのではないか?


 空のゴミ袋の中をもう一度よくのぞいてみると、そこには女性のものらしい、黒く長い髪の毛が数本入っていた。一郎はその髪の毛に妙に愛着を感じ、どこかに保管しなければならないと思ったが、なんで自分がそんなふうに思うのか、まるで見当がつかなかった。


 一郎はそのままゴミ箱にレジ袋を捨ててしまった。


「そろそろいかないとなぁ」

 夕方、店に出勤するために支度をしていた一郎だが、不意にあのレジ袋に入っていた髪の毛のことがきになり、ゴミ箱からレジ袋を取り出し、中をのぞいてみた。


「あれ! おかしいなぁ、確かに髪の毛が入っていたはずなのに……気のせいか」

 今度はレジ袋をくしゃくしゃに丸めて再びゴミ箱に放り込んだ。


「しかし、夢精したなんて、絶対誰にもいえないなぁ」

 そういって部屋を出て行った一郎の背中に黒い女の髪の毛がついていた。アパートを出て、店に向かう途中で、一郎は一人の女性が前を歩いているのに気が付いた。それは腰あたりまで伸びた長く、黒い髪をした女性だった。

 一郎はその女性を追い越して、ひと目顔を見たいという衝動に駆られたが、何かが一郎を引き留めた。


「危ない、危ない」

 なぜ自分がそんなふうに考えたのか、一郎にはわからなかったが、今はそれでいいのだと妙に納得するものが一郎の中にはあった。そしてもう一度前を見ると、そこにはもう、女性の姿はなかった。



「監視の必要はないようね」

 一郎の背中を見守る一人の少女がいた。


 少女はまるでフランス人形のような、透き通った白い肌をしていたが、髪の毛は少し重たく感じるくらいに黒々としていた。目はパッチリとしているが、瞳はどことなく日本人のそれとは違うような、色素の薄い色をしていた。


 一郎の肩から黒い女の髪の毛が、ふわりと落ちて行った。その髪の毛が地面に落ちる頃には、少女の姿は、もうこの町のどこにもなかった。


おわり

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