第8話 死臭


 一郎が覚悟を決め、鬼女の一撃をブロックしようと両腕をクロスし、こぶしを強く握りしめた瞬間、鬼女の動きが急に止まった。一郎はおぞましい形相で自分を睨みつける鬼女の目に生気がないことに気づくよりも先に、一郎の耳にミサの声が届いた。

「もう、大丈夫よ。あなたよく頑張ったわね」


 腕と腕の隙間から鬼女の様子をうかがう。

 ミサは鬼女の真後ろにいるらしく姿が見えない。鬼女は白目をむき、青白い炎も黒い煙も見えなくなっていた。

 一郎が防御の構えを解こうとした瞬間、鬼女の体が一瞬痙攣し、鬼女の頭が首から地面に落下した。一郎はその光景を一生忘れられそうになかった。鬼女の首は地球の重力のそれに逆らい、抗うようにゆっくりと地面に落ちて行った。白目をむきながら夜空を見つめ、今にも天に向かってかみつきそうな表情に一郎には見えた。


 ドスッ!! という鈍い音は、想像したそれよりもはるかに無機質であり、首が落ちた同時に膝からバランスを崩した体躯はさらに無機質な音を立てて、文字どおりガラガラと地面に崩れ落ちた。その向こう側にミサが現れる。その右手には青白く光るものが握られていた。


「ナイフ……? 短剣か?」

 一郎の視線の先には、何とも浮世離れした光景が広がっていた。一郎の前に転がる『それ』は、今まで動いていたのが不思議な物体であった。

 そこに髪の長い女の生首が転がっているが、それすらも有機物であるかどうか一郎の位置からは確認することができないくらいに偽物じみていた。

 そしてその先に右手に短剣を構えた美しい少女が佇んでいる。

 少女の存在もまた、この世のものとは思えないほどに儚げであったが、『それ』とは対極の位置か、あるいはまったく世界の異なる存在のように思えた。


「これって、いったい……まるで人形かなにかのように見えるけど……」

「そうね。人形といえばそうだともいえるわね。まぁ、ただのマネキン人形よ。体はね」

「じゃ、じゃぁ、この首は……」


 一郎はいまだ警戒を解くことができないでいたが、少女はまるで意に介さないといった感じで生首に近づき、あろうことかそれを左手で拾い上げた。

 生首の切断面から黒いものがしたたり落ちる。最初一郎はそれを血肉か何かかと思い、一瞬目を覆ったが、すぐにそれがそんなものではないと気が付いた。


「泥? それはただの泥……なのか?」

「泥であることは間違いないけど、ただの泥かといえば、そうではないようね」


「く、臭い……鼻が曲がりそうだ」

「死臭というのは、生者にはひどく不快なものよ」

「死臭……死体の……腐った匂い」

「これはその死体が埋まっていた場所の土ね」

「死体が埋まっていたって、それは……」


 ミサは、生首を憐れむように見つめながら、白目をむいた目をふさぎ、顔についた汚れを振り払った。生首は一瞬生気を取り戻したかのように美しく白く輝きを見せたかと思うと、やがてただのマネキンの頭と姿を変えた。


「ごめんなさいね。あなたの声を聞くことはできなかったわ。わたしにもできるとことできないことがあるということね。でも問題は、誰があなたをこんな目に合わせたかということね。まぁ、調べる術がないわけでもないか……」


 ミサは、淋しそうにマネキンの首を見つめ、そして一郎に視線を移した。

「もう少し付き合ってくれるかしら?」

「は、はい」

「この土を入れる袋がほしいわ。できれば匂いが漏れないように、何重かにかさねて使いたいのだけれど」

「ああっ。それなら近くのコンビニで買い物をして、レジ袋を多めにもらってきましょうか?」

「そうね。お願いできるかしら」

「わかりました。じゃぁ、すぐに戻りますから」

 一郎は来た道を大急ぎで戻った。


「さて、その間に少しばかりお話ができるかしらね」


 そういうとミサは、生首から地面に落ちた死臭の漂う土をかき集めた。ミサの両手で小さな山が作られた。それは子供が砂場で作る砂の山よりはるかに小さなものだった。ミサは持っていた短剣の剣先をその山の頂上に軽く突き刺し、剣先をスプーンのようにして山の頂上の土を載せてミサの顔の前まで持ち上げた。


 ミサが口を動かす。何か呪文のようなものを唱えたが声は聞こえない。そして一瞬口をつぐみ、鼻から大きく深呼吸をする。ミサは自分の体内に空気中に漂う腐臭を自分の中に取り入れ、それを体の中で練り上げて、一気に息を吹きかけ、剣先の土を吹き飛ばした。するとそこに青白い炎が立ち上り、一人の女の姿が浮かび上がる。


「やはり、完全というわけにはいかないわね。でも少しくらいなら話すこともできるでしょう。まず名を聞かせてちょうだい」

 人の形をした影は、それが人とわかる形をしていたが、大きさは人のそれよりははるかに小さい。背丈は50センチほどで、若い女であることがぎりぎり判別できるくらいのおぼろげなものであった。


「名は……名前……あぁ、私、私は誰なの?」

「そう、あなた名を奪われたのね」

「わたしは、わたし、でも、わたしじゃない。わたしだけじゃない」

「あなただけの怨念や情念だけは、傀儡を操ることはできないわね。不特定多数の妄想や狂想があなたを造り上げたのね。そして、それを手伝った不逞な輩がいるようね。何か覚えてなくて?」

「わたしは静かに眠っていたの。いえ、そのことすらも気づかずに……。そう、あれは事故だったのよ。夜中にふらふらと歩いていた私が悪いの。あんなところに人がいるなんて誰も思わない」


「交通事故――でも、あなたほかに身寄りがないのね。誰もあなたがいなくなったことに気づかなかった」

「そうよ。私はそれでいいと思っていた。これはわたしが望んだこと。そう私は望んでいなくなったの」

「そう。でも誰かがあなたに何かを吹き込んだのね」

「囁き声が聞こえたわ。『無念であろう。望むのであれば、叶えてやれることもあるかもしれない』とかそんなことを言っていたわ」

「それはどんな人だったのかしら?」

「男、若い男……でも、望みをかなえる代わりに私は名を失ったわ」

「望み? あなたは何を望んだの?」

「本当は忘れてなんかほしくなかった。後ろ姿だけでもいい。でも、みんな私の顔を見ると『なんだ』という目で私をみるの。そしてこういうのよ『後ろ姿美人か』って。でも私は、私は、顔も見てほしかった。私の心を見てほしかったのに」


「それは聞けない話ね。あなたがそれをどう受け止めようと、どう考えようと、私には何もしてあげられないし、何もする気も何も言う気もないわ」

「そんなことわかっている! わかっているけど!」

「でもまぁ、そんなあなたの心の隙を利用するなんてことも好きではないし、そもそも望んでもいない商品を高く売りつけるというのは、許し難い行為ね」

「高く売りつける?」

「そう、あなたは自分の名をその男に売ったのよ。あなたはもう、あなたではない。まぁ、そのことをここで説いてもあなたが成仏するという話とは別だからしかたがないわね」

「ねぇ、わたしは、わたしはいったい誰なの?」

「自ら名を持たないものは、人の言う『それ』でしかないわ。つまり『ばけもの』ということになるわね」


 いやぁぁぁぁぁぁあ!


「そんなに感情を表に出したら、身が持たないわよ。ほら、もう崩れ始めている」

 ミサの言葉通り、人の形をしたそれは、人の形をした『それ』という体裁も整わないほどに揺らいでいた。

「名もなき魂として滅しなさい。それがあなたの選んだ道なのだから。でも、できる限りのことはしてあげるわ。そして、ついでにあなたをこんな目にあわせた者をこのまま放置することはできないわね」


「神職の男よ。目が異様に細くて、キツネのような目をしていたわ」

「そう、ありがとう。それで十分よ」

「ミサ……ありがとう」

 そう言い残し、『それ』は影も形もなくした。ミサは目をつむり、何かを口にしたが、それは呪文とは違うようであった。

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