第7話 鬼女

「……ひぃぃ、化物!」

 悲鳴――男の悲鳴が聞こえる。

「い、今の声……」

「近いわね。どうやらこのあたりのようね」


 そこは一郎が、『それ』を目撃した場所から300メートルほどさらに繁華街から離れた場所、閑静な住宅街というにはあまりに家と家の間隔が離れていた。

 人通りもなければ明かりもまばらであった。つまり人気のない場所である。


「どうやら、ここで出くわしたというよりは、必死で逃げてこのあたりまで迷い込んだということかしら」

 ミサの落ち着き払った態度に、一郎は戸惑いを隠せなかった。一郎の足が止まる。


「大丈夫よ。誰かに危害を加えようとか、そういう『類のもの』ではないようだから、もっとも、少しばかり悪趣味のようだけれども」


 声のした方角に注意深く視線を送りながら、ゆっくりと近づいていく。


 かすかに女の声が聞こえる。

「……なのに、……な顔なのに、新しい顔なのに、お前は私に来るなという。お前は私を怖いという。お前は私が化物だという」


 道には落ち葉やレジ袋のようなゴミが散乱し、誰も整備をしてないのがうかがえる。

 車一台がようやく通れるほどの細い道は、おそらく空き家と思われる古い洋館の前で途絶えている。

 その洋館の門の前に女が一人佇んでいる。女の足元に男が一人、門に寄り掛かるように腰を下ろしている。

 首はすっかりうなだれている。

 死んでいるのか、気を失っているのか、ここからでは判別がつかない。


「あらあら、そんなところで何をしているのかしら」


 ミサの気配に『それ』が反応する。

 それは驚くほどに普通の人間の反応であった。

 不意に後ろから声をかけられ、驚いた時のそれである。

 しかし、声をかけられた『それ』は、はたして後ろから声をかけられたのではなく、体の正面に向かって声をかけられた形になっている――異常な光景である。

 体はミサと一郎のほうを向き、首は反対を向いている。そして至極当たり前のように『それ』は、振り返ったのである。

 背中をミサに向き直し、青白くぼんやりと闇夜に浮き上がる顔をミサと一郎に向けたのであった。

 最初、『それ』はしばしミサを見つめていた。やがてその後ろにいる一郎に視線を移すと、もの悲しそうな声を上げた。


「ほら、新しい顔だよ。新しい顔だよ」

 一郎は全身の毛穴が開き、毛というけが逆立つのを感じた。

 思わず大きな声をあげそうになったが、それでもどうにか堪えることができたのは、やはりミサがそばにいるからである。


 彼女を守らなければ!


「美しい顔なのに、きれいな顔なのに、新しい顔なのに、お前はそんな怖い目で私を睨みつける……」


『それ』は一歩前に出た。


 普通の一歩であるが、それが後ろ向きとなるとなんとも異様な光景である。まして首があらぬ方向を向いている。一郎は『それ』は人でないと確信した。


「見てほしいという気持ちはわかるわ。あなたの髪、とってもきれいよ。スタイルもいいわね。あなたの『後ろ姿』にはきっと誰もが振り向いたのではなくて?」


 ミサのその言葉に、一郎は何か大事なことを思い出したような気がした。しかし一郎がそのことを考えるよりも早く、『それ』は、叫びだした。


「あなたに何がわかるというの! わたしは、わたしは、ずっとずっと辛かった。男たちの視線にさらされ、そして笑われたのよ! あなたにわかる? 見ず知らずの人に笑われるということがどういうことか!」


『それ』は鬼気迫る形相で、一郎に歩み寄った。ミサをまるで無視し、一郎に向かって一歩ずつ後ろ向きに近づく。

 一郎は逃げることもできず、ただただ呆然とその様を見るしかなかった。

 青白く燃え上がる炎に包まれたかのように女の顔が闇夜に浮かぶ。

 その口元からは、どす黒い煙のようなものが吐き出される。生臭いにおいが一郎の鼻をつく。

 一郎はその異臭に思わず顔をしかめ、ようやく自分の置かれている危機的状況に思いを巡らせ、『それ』との距離を取ろうと後ずさりをした。


「お前も、あのとき、わたしを 笑っただろう」

 一郎の記憶の中に、一人の女性が浮かび上がった。いや、正確には一人の女性の後ろ姿であり、一郎は彼女からオーダーをとるときにどんなに素敵な女性だろうかと期待を寄せ、そして……。


「ちがう。俺は笑ってなんかない。お客さんにそんな失礼なことをするはずがない! ちがう、ちがうんだ!」


「被害妄想もいい加減にすることね。見ていて見苦しいし、聞いていて気分が悪いわ」

『それ』が一郎に手を伸ばせば届くというところで、ミサが声を上げた。


『それ』はミサを睨みつけ、ミサに殺気を向けた。


「あんたに! あんたに何がわかるというの! 知ったふうなことをおお言でないよ!」

『それ』はついに鬼と化した。鬼女である。


「地に落ちたわね。これも定めと知りなさい」

「賢しげな!」


 鬼女の関節はでたらめな方向にすべてが曲がり、ミサに掴みかかろうとした。ミサはまるで重力に逆らうかのように後ろに2メートルほど飛び跳ね、さらに軽快なステップで一郎の目の前まで移動した。


「ごめんなさいね。あなたをこんな危険な目に合わせるつもりも、怖い目に合わせるつもりもなかったのよ。この埋め合わせは必ずするから、今は私の言うとおりにしてちょうだいな」


 ミサもまた、人知をはるかに超えた存在であることをこのとき一郎は確信した。


「一郎、一瞬でいいの。あの女の気を引いてちょうだい。それですべては片が付くわ。そうね、その辺にある石ころでも拾ってあの女にぶつけてちょうだい。合図をしたら、あなたは右、私は左に二歩移動するの。それも素早くよ。あとはあなたのタイミングで石ころをあの女の顔めがけてぶつけてちょうだい。当たらなくてもいいけど、相手を怒らせるくらいのことはできて?」


「はっ、はい。やります」

「いい子ね。これはお礼の前渡しよ」

 そういうとミサは一郎の左頬に、キスをした。一郎の体温が2度上昇した。


「おぉのぉれぇー! これ見よがしに! うぬらぁ!!!!!」


 鬼女がとびかかろうと構えた先には二人の姿はない、鬼女から見て左に一郎、右にミサがそれぞれ飛び跳ねた。ミサが口を開く。

「そんな怖い顔していたら、男なんてすぐに逃げてしまうわよ」


 鬼女がミサを睨みつける隙に、一郎はさらに鬼女の死角に回り込み、足元から手ごろな石ころを二つほど拾い上げた。


「お前の相手はこっちだ!」

 そういって一郎は右手を挙げて石を投げる構えをする。一郎の声に反応した鬼女は、恐ろしい形相で一郎を睨みつける。一郎は思い切るつもりで、それでも慎重にコントロールをつけて鬼女の顔面めがけて石を投げた。


 ドスッ! という鈍い音がするのか、あるいは鬼女が見事にこれをよけるのか、一郎はすぐさま第2投の準備をしながら、投げ放たれた石ころの軌道を見守った。


 ガチッ!


 石は見事に鬼女の顔面をとらえたかのように見えたが、あろうことか鬼女はその石を口で受け止めていた。


「ば、化け物が……」

 一郎はコントロールを気にせずに思いっきり石ころを鬼女に投げつけた。絶対に石を当てる自信が一郎にはあった。

 なぜならコントロールを気にしなくてもいいほど鬼女が一郎に近づいてきたからである。

 石ころは、見事に鬼女の顔面をとらえたが、しかし、鬼女はひるむことなく一郎に向かってくる。


 一郎の体温が3度下がった。





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