第6話 黒き望みをかなえる者
客がはけ、片付けを始めた一郎は、ふとカウンターに置いてある飲みかけのマティーニの入ったグラスに目が行った。
「なんでこんなところに……」
しかし、なぜだかそれを片付けてはいけないような気がして、一郎はカウンターのマティーニをそのままにして店じまいの支度を始めた。表の看板を片付け、店内の掃除を手早く済ませる。
「あとはカウンターの片付けだけか……」
掃除用具をロッカーにしまいこみ、カウンターに目をやると、そこにいるはずのない人影を目にした。
「いつの間に……」
少女は、いや、少女のように見える女性は、まるでフランス人形のような、透き通った白い肌をしていた。
髪の毛は少し重たく感じるくらいに黒々としている。
目はパッチリとしている。
瞳はどことなく日本人のそれとは違うような、色素の薄い色をしている。
「大変ね。いつも一人なの?」
「いええ。いつもというわけではないんですが」
「そう。じゃぁ、今日が特別。それとも一人じゃない日が特別なのかしら」
「今日が特別です。そう、そういえばみんな今日に限って用事があるとかで先に帰っちゃいました――。なぜでしょうね?」
一郎は、それでも勇気を絞って最後に疑問を投げかけてみた。しかし、やはりそれは、まるで虚無に何かを問いかけるような手応えのなさ、あるいは決まりきった答え、わかりきった質問をした時のようなバツの悪さに、自分の居場所がないような感覚を一郎に味わわせるだけであった。
「残念ね。残念だわ。でも仕方がない」
「すいません」
「いのよ。私が無理を言っているのだから、あなたも無理を承知しているのでしょう?」
「そうです。僕にはあなたが……」
一郎はわずかな眩暈と、薄れていく現実感の中で、何かに疑問を持つことをすっかり忘れてしまったような心地よさを感じながら、それでもなんとかそれに抗おうとする――それは一郎の無意識、生物としての本能が危険を察知してそれを回避しようとする行動に酷似していた――純粋無垢な感覚。それを言い表すのであれば、すなわち『恐怖』であり、『畏れ』であった。一郎にとって目の前にいる少女のような女性は、絶対に抗うことのできない存在であった。
「大丈夫。心配はないわ。そう、あなたは何も心配することはないわ。そんなに怖がらなくてもよくてよ。本当に怖いのは、『畏れ』を知らないということを、どうやらあなたは、それを知っているようね」
少女のような女性は、カウンターの椅子から静かに立ち上がり、一郎のそばに近寄った。
「私はミサ。黒き望みをかなえる者、悲しき想いを見つめる者、深き闇をさ迷う魂の叫びに、耳を傾ける者よ」
一郎の時間は一瞬止まってしまった。いや、本当はそうではないのか。ミサと名乗るその少女は、カウンターの席を立ったかと思えば、一瞬で自分の目の前に佇み、そして耳元で自らを名乗ったのである。
「さぁ、行きましょう。あなたの『恐怖』を取り除いてあげるわ」
「こっちです。案内します」
妙に現実感のない時間が流れ始めた。目に映る景色は、見慣れているはずのいつもの光景なのに妙によそよそしい。
一郎が先頭を歩き、ミサがその少し後ろからついてくる。
ミサの存在は儚げで質量というものが感じられないように思えた。
もしも一郎がミサの腕を引っ張るなり、逆に肩を押すようなことをすれば、ミサは紙きれのようにひらひらと地面に舞い落ちるのではないかという想像は、一郎の背筋を一層寒いものにした。
「あなたも災難ね。いや、違うわね。幸運なのかもしれないわね。知ってしまった以上、人はそのことと無関心ではいられないもの。そう考えれば、これはきっとあなたにとって幸運なのかしらね?」
「運命というものがもし、あるのだとしたら、この出会いはやはり運命なのでしょうか?」
「そうね。それもいいかもしれないわね。でもこの世の中に定められた運などというものはなくてよ。だからやはり、あなたは出会うべくして出会ったということになるわね。たとえば人はせいぜい100年という単位でしか、自分の人生でできことを見つめることはできないわ。300年、500年、1000年という単位で人の営みを観察すれば、案外と特別なことなど何もないのではなくて?」
一郎はミサとの会話の中で、自分が彼女の魅力に取りつかれていくのを感じていた。それはとても危険なことではあるが、その誘惑に勝つすべを一郎は持ち合わせていなかった。
「ねぇ、一郎君。100年たっても冷めない愛って、あなたは信じることができて?」
不意にミサからそう問いかけられて、一郎は答えに窮した。
「ぼ、僕はまだ30にもなっていない若造です。3年以上つきあった恋人もいません」
「そう。知らないということは、悪いことではなくてよ。わからないということも恥じることではなくてよ」
「100年以上、誰かを思い続けるというのは、人は可能なんでしょうか」
「そうね。100年以上愛することが可能であれば、同時に憎むことも可能ということになるわ。そう考えれば、答えは見えてくるのだと思うけれど」
「100年の恨みですか……なんだか怖いなぁ」
「100年の恋のほうがよっぽど恐ろしくてよ」
一郎はミサがクスクスと笑ったように感じ、後ろを振り返った。しかし一郎の肩越しに見えた少女の表情は、ぼんやりとしていてとらえどころがない。微笑んでいるようにも見えるし、ひどく冷めた目をしているようにも見えた。
やがて一郎は目的の場所周辺に近づき、少しばかり緊張をしはじめた。
緊張が『少し』で済んだのは、やはりミサの存在が大きいのだろう。
いざとなったら自分がミサを守らなければならないという気持ちと、ミサ自身が放つ自然体を決して崩さない態度が、一郎に勇気と安心感を与えた。
「このあたりです。気を付けて」
「なるほどね。この場所というわけではなさそうね」
「あ、いえ、僕が出くわした場所はもう、ほんのちょっと先ですけど、このあたりですよ」
ミサが言いたいことと自分が答えたことの間のギャップを感じながらも、一郎はあたりを警戒するのに必死になっていたので、ミサが言わんとしていたことを理解する余裕はなかった。
ミサは静かにあたりを見渡し、地面と、夜空をと眺めて、そして静かに語りだした。
「あなた自身に関わることでもないし、この場所に関わることでもなさそうね。そうなると目的がわからないわね。何かしら。嫌な感じがするわね」
ミサは腕を組み、右手の指先をそっと自分の顎に当てて考え込んだ。
「ねぇ、少し歩きながらお話ししましょうか。昨日あなたがみたという、『それ』にあなた今まで見覚えが本当になくって?」
「そうですね。もちろんあんなものを見たのはこれが初めてです。ただ……」
「ただ――なに? 何か気になることでもあるの?」
「あんな不気味な恰好をしていましたから、そればかりが印象に残っていますが、着ている服も、彼女の顔も、どこにでもいるというか、もし、これまでに……そう、たとえお店のお客さんとして来ていたとしても、覚えていないというか、気づいていないというか……」
「ふーん。なるほどね。もしあったことがあるとしても、あなたの記憶に残るような目立つ人ではないということね」
「大体がうちの店は常連さんばかりなので、まったくの初めてのお客さんというのは印象に残るはずなんですが」
「最近姿を見せなくなったOL風のお客さんっているのかしら?」
一郎は考え込んだ。そういう客はむしろいないはずがないように思えた。
一人か、二人か、そういう客がいても不思議はない。一郎は記憶の断片をかき集め、何か糸口になるものはないかと思案を巡らせた。一郎が、『それ』に出会った場所を少しばかり通り過ぎたあたりで、ミサが歩くのをやめた。
あまりに静かに足を止めたので、一郎は一瞬気が付くのが遅れて、数歩前に進んでしまった。
振り返った一郎の目に映ったのは、街頭の明かりに白くぼんやりと浮かぶミサの姿だった。それは幻想的と言ってよかった。
一郎は思わず見蕩れてしまった。
「来たわね」
「来たって、『あれ』がですか?」
「ちょっと遠いわね。ねぇ、こっちの方角に何かあるかかしら」
そういってミサは白く細い左腕をすっと上げて振り返った一郎の右後ろ指差した。つまり進行方向の左前である。
「そっちはこれといって特に何もないと思うけど……古い家が何軒かあるくらいで」
「このままこの道を行けば、向こうの方角には行けるのかしら」
「それは大丈夫だと」
「じゃあ、急ぎましょう。少し走るわよ」
「あっ、はっ、はい」
一郎とミサは夜中の街の郊外を走り始めた。『それ』を追って……
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