十七章 望みの鏡 <Ⅵ>娘の名

 おすげの母親は、おはぎといった。

 真っ青になったお萩は、血を吐いて倒れた慈慧じけいにとりすがった。


「誰か来て! お坊さんが毒を飲んだ!」


 お萩の悲鳴を聞いて、幾人いくたりもの村人の足が止まった。


「死んでしまう! お坊さんが死んでしまう!」


 お萩は、苦しむ慈慧の喉に指を入れて、毒を吐かせようとした。


「水だ! 早く!」


 沢の水を汲みに走る者がいた。薬草を探す者がいた。


「なんで、こんな莫迦ばかな真似を」


 お萩は白い額に汗を浮かべて、雲水の背中をさすった。

 若い母親の表情から、先ほどの鬼の形相は拭われたように消えていた。


「私は、お菅さんを助けに行ったのに」


 ひゅうひゅうと声がかすれる。

 慈慧の喉は毒でただれている。


「間に合わなかった。申しわけありません。お菅さんは、私のせいで――」


 お萩の唇が戦慄わななく。


「法師様。まさか、あなた様は、お菅のために毒を飲みなさったのか?」


「お許しください。娘さんを、お菅さんを、取り戻せなくて」


 冷たい石の塊のようだったお萩の胸が、ひとつ脈を打った。



 この村では、毎年幼い娘が一人いなくなる。

 村人は、そんな娘は始めからいなかったような顔をする。

 表立って嘆くことさえもうとまれる。お菅もそうなる筈だった。

 だが、この人は、お菅を、わたしの娘の名を呼んでくれた。

 お菅は、お萩と駒吉夫婦に初めて授かった娘だった。


 お萩の胸が、暖かく鼓動を刻みだした。

 流すことを許されなかった涙が頬を伝った。


「法師様のせいではないのに」


 お萩は泣き崩れた。慈慧は白いその手を擦った。


「どうか。蛇を許してください。恨みは人を鬼にします。鬼は苦しい」


 自分を取り巻く人々に、慈慧は掌を合わせた。


「これまでの皆さんの苦しみを思えば、もっと伝えようがあったものを。私が愚かなばかりに、いたずらに皆さんの苦しみを深くしてしまいました。申しわけありませんでした」


「なにを言うんだ! あんたは、この村の恩人だ!」


「そうとも! もう娘を生贄を出さなくていいんだ」


 熱に浮かされたように走りながらも、叫びながらも、誰もが分かっていたのだ。

 この余所よそ者が、オロチの呪縛から村を解き放ってくれたことを。



「俺が、魔物退治なんて頼まなければ――」


 子どものように泣き叫んだのは、駒吉だった。



 何も分からない幼な子たちが、大人の真似をして慈慧の体を擦っていた。

 小さな掌で触れられると、痛みが薄らいだ。

 慈慧は子どもたちにも、助かる見込みのない自分に手を尽くしてくれる人々にも、苦しい息の下から幾度も感謝した。


「ここでは駄目だ。法師様を村に運ぼう」


 誰かが、背負子しょいこを運んできた。

 だが慈慧は、その手を押しのける。


「有り難いが結構です。私はこれから沼に行きます。時雨しぐれを助けなければ」


 立ち上がろうとする慈慧に、お萩が悲鳴を上げた。


「だめです! 動いたら毒が体中に回ってしまう!」


「どの道、その体じゃ動けないよ。お坊さん」


 抑えつけようとする手にあらがって、慈慧は身をよじる。


「放してください。私は行かなければなりません」


「お坊さんが、死んでしまう!」


「何故、オロチなどの為に法師様が――」


 にわかに慈慧が顔色を変えた。


「黙れ! あれは、オロチではない!」


 今際いまわきわの声とは、とても思えなかった。

 その剣幕の激しさに皆たじろいだ。


「あれは時雨しぐれというんです。私の、かけがえのない友なのです」


 慈慧は喘ぎながら、力なく空を見上げた。


「行かなければ――」


 遠く連なる山々は、雲の波間に姿を隠していた。


「任せろ! 俺が担ぐ!」


 背負子をつかんで、駒吉が進み出た。


「俺が連れていってやる! 沼だって、どこへだって、俺が行く!」


かたじけない」


 慈慧が頬笑んで合掌した。

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