十八章 旅の終わり

十八章 旅の終わり <Ⅰ>再会

 時雨は霧になって、ひそやかに流れる。

 広大なぶなの森を真白く隠す霧の奧から、鈴の音が近づいてきた。


 枯れた竜胆りんどうくさむらを踏み分けて、錫杖しゃくじょうを突く人影が、あたしの前で歩みをとめた。


 数珠じゅずを持つ掌が合掌した。

 なぜだか、その人の顔に目の焦点が合わない。夢で出逢う人のように朧気おぼろげだ。


「お初にお目にかかります。これは、とうの昔にまかりし者。慈慧じけいと申します」


 その人が網代あじろがさをはずした。


「あ。はじめまして。桐原きりはら時雨しぐれです。さっきはどうも……」


 周章あわててお辞儀を返す。

 恥ずかしい。自分のボキャブラリーに敬語がない。


「時雨さんとおっしゃるのですな。よくぞ、私に気づいてくださいました。うちの時雨と同じ名前でいらっしゃるとは。余程の御縁ごえんと御見受けいたします」


 墨染すみぞめのころもの影法師は、ニコニコと頬笑んでいる気配だ。

 師匠がこんなに愛想がいいのに、弟子のやさぐれ加減はどういうことなんだろう。


「法師様。今のは――。あたしたちが見たのは、法師様の記憶なんですね」


 影法師が深くうなずいた。


「そうです。最後に沼のほとりで時雨と別れた後の記憶です。私はずっとここで待っていました。仏門を志す身でありながら、この世に執着を残すとは情けないことでしたが。どうしても時雨に、あの日のことを知ってほしかった。時雨のせいで死んだのではないと伝えたかったのです」


「そうだったんで……、うわっあああ!」


 ――いきなり叫んですみません。


 だって、熟した冬瓜とうがんぐらいの、あおみどり色のヌラヌラしたかおが、法師様の肩越しに滑り出てきたんだもん!


 パックリ裂けた口から、長い舌がチロチロと覗いている。

 背筋を悪寒が駈けのぼる。大蛇ヤバい。オロチなんか敵ではない。


「時雨や。お帰り」


 法師様、コレ見て、なんで平気なのー。


「ああ。法師様」


 大蛇はするすると青磁色の蜷局とぐろを延ばし、その人を一巻きすると胸もとにかおを寄せた。――あひゃーい! 助けてー!


「可哀想に。私のせいで辛い思いをさせた。時雨や。すまなかった」


 影法師の掌が、大蛇を慈しむように撫でた。


「僕は鏡をなくしてしまいました」


 身の毛のよだつような大蛇が、痛々しく甘えている。――助けてー。


「あんなものは無くてよいのだ」


 いたわる声がしみじみと優しかった。


 感動の再会シーンにあたしの胸はチクチクとうずいた。

 ――壊したのはあたしだ。すみません。

 胸を貫く自己嫌悪が、ついに生理的嫌悪感を克服した。


「ごめんなさい! あたしが鏡を壊したんです」


 あたしは思い切り頭を下げた。

 超居たたまれない。土下座したい。


 影法師がこちらに向き直る。


「――まさか。あの鏡を、どうやって?」


 想定していた対応から大きく逸れた。


「最初は、踏んづけたら割れちゃったんです。それで――。さっき――。あたし、シグレを殺そうとしたんです。そしたら、鏡が爆発しちゃいました。本当にごめんなさい」


 影法師が膝から崩れ落ちていく。

 ――ここで、なぜ笑う。


 何か言おうとしてはむせせたりして、ひとしきり笑い収めるまで口がきけない影法師。


「ああ、失敬。ああ苦しい。奇跡です。あの鏡を壊せるとは」


「そうなんですか?」


「あの鏡は、世に謂う<魔鏡>です。砕こうとあぶろうと、誰がどうやっても壊せるような代物ではないのです。それを踏んづけたら割れちゃったって……。ば、爆発ぅ?」


 言ってるそばから、また噴き出す。そこまで笑うのか。


「でもそれどころか、あたし、シグレを――」


「いやいやいや。いっぺん死んでる者は、二度と殺せませんよ」


 数珠を振りながらお腹を折って、影法師がそれはもう可笑しそうに笑うから、つられてあたしも笑っちゃった。


 素の慈慧法師様は、笑い上戸だった。

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