十九章 忘れない

十九章 忘れない <Ⅰ>ありがとう

 霧が晴れてゆく。この雨は、もうじき上がる。


 名残惜しげな雫がひとつ、またひとつ。光を放って空から降りてくる。

 また子供の姿に戻ったシグレが、空の雫を顔に受けとめて泣いていた。

 法師様がシグレの涙を取り戻してくれたんだ。


「――シグレ。ごめんね」

 

 濡れた琥珀色の瞳が、問いかけるようにあたしを見返した。


「シグレの大事な鏡。壊して、ごめんなさい」


 形の良い唇から、ふっと吐息が漏れる。


「いいんだ。鏡はもう要らない」


 シグレは長い睫毛まつげの涙を払うように、何度もまたたきした。


「でも。望みの鏡は――」


「鏡は、法師様に返したんだ」


 空を見上げるシグレの眼差しは清々しかった。


「――そうか」


 あたしは胸が熱くなった。


「鏡はもう要らないんだね」


 うんと、シグレがうなずいた。


 君という人が、法師様の鏡なんだね。


「シグレ。あたし、思い出せてよかった!」


 できるだけ笑顔で言ったつもり。引きってたらごめん。

 あれ? シグレの顔が引き攣った。


「僕は――。恐ろしかったろう」


 シグレが眉を寄せて、気まずそうに視線をさ迷わせる。

 今頃になって何を言い出すんだ。この野郎。


「過ぎてしまえば、いい思い出だよ」


 大人な対応で参ったか。

 マジで恐かったけど。許してやるさ。これで一個貸しだぜ。


 シグレが、上目遣いにあたしを見た。


「きみをいじめるつもりではなかったんだ」


「分かってるよ」


 言うなよ。全部、分かってるよ。

 シグレが、どんなにいい魔魅まみかってことも。

 だって、あたしとシグレは鏡のえにしを結んでるんだから。


「ありがとう。シグレ!」


 あたしの言葉に、シグレが目をみはる。


「あの日、シグレに誘われて、鏡の間に行かなかったら、あたしはヒミコさまに会えなかった。水神様にも、千の鏡にも。法師様にも、本当のリンにも、でっかい大蛇のシグレにも。あたし、鏡の間に行けて良かった!」


 シグレは困ったように目を伏せるけど、そんなことには構わず、あたしは続けた。

 シグレには分かるはずだ。あたしのほんとうの気持ちが。


「それから――。あの西洋館でシグレとリンが、あれからずっと、あたしを待っててくれなかったら、大切な思い出を忘れたままだった。シグレとリンのおかげで、あたしは全部取り戻せた。これでもう二度とくさない。だからね――。ありがとう。シグレ!」


 あたしを見つめていたシグレのまぶたが閉じて、白い頬を涙が伝わった。


「――なんと有難いことだ」



 ――こいつときたら、普通にありがとうって言えないんだから。





 鏡のような水面みなもを、柔らかな風が吹き渡った。

 世界を抱きしめていた霧がすっかり姿を消すと、沼を囲む黄金色の森が現れた。

 森の向こうには、遠い山波が青くそびえていた。


 樹と炎の形はとてもよく似ている。

 ぶなの大樹は大地を踏みしめて、天まで届けと梢を伸ばす。


 水面に森が映る。水に映った空は、ほんとうの空より明るく見えた。


 やがて空一面が白桃色に明るくなり、雲の上で夕映えがはじまった気配がした。



「ねえ。慈慧法師様って、笑い上戸だよね」


「うん。よく笑う方だったなあ」


 くすと、シグレが笑った。

 はじめて見る笑顔だった。


「時雨。きみには、きっといつか――」


 シグレがなにかを言いかけたとき、頭上の梢が、ざっと音を立てて雫を落とした。


「あうっ!」


 濡れた草を踏んで足が滑った。

 咄嗟とっさに、シグレがあたしの背中に腕を伸ばす。

 あの恐ろしかった腕があたしを支えてくれている。ちょっと感動的。


 そのとき、舞台の幕が上がるように、雲が吹き払われた。


 山の端に低く懸かった夕陽が、空一面を薔薇色に染めあげていた。

 あたしたちは並んで西の空を眺めた。


「きれいだね」


「ああ」


 琥珀の瞳があたしを見つめた。

 ――と思うと、ピクリと震えて動かなくなった。


 どうした。瞳孔が開いてないか。

 信じられないものを見たような目が、あたしを凝視する。

 なんですか。怖いんですけど。


 やがてシグレが言った。


「――リン?」

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