十八章 旅の終わり <Ⅴ>別離
つらい沈黙を破ったのは、影法師だった。
「時雨や。私が毒を
「いいえ!」
大蛇が
温かな声が、先を続けた。
「私のしたことは、みな間違いだった。毒を呷ったことも、時雨を鏡に封じたことも。だが、いくら後悔しても、もはや取り返しがつかないのだ。悲しいことだが、私はお前を苦しめたまま逝かねばならない」
「法師様。僕は……」
大蛇ががっくりと
「だが、時雨や。お前も、ひとつ間違っている」
「はい? 間違い?」
影法師が頬笑んだ。
「あの村を救ったのは、時雨だよ」
「なに、それ?」
驚いたのは、あたしだけじゃなかった。
シグレは、目を丸くして返事ができないでいる。
「だって、命懸けで村の人を冷静にさせたのは法師様でしょ?」
とあたしが言うと、大蛇もこくこくと頷いた。
影法師は穏やかに
「私もお前の過去を見た。時雨は、あの炎の中から人を救い出した」
――魔物のオロチが、
信じられない光景を見つめている村人の表情が甦ってきた。
救い出された、あの人は、シグレに泣いて掌を合わせていた。
その手が放った矢が、時雨の背中に突き刺さっていた。
「オロチは魔物ではなかった。あのときの時雨の尊い行いを見て、はじめて村人には真実が分かったのだ。時雨は自分の力で誤解を解いたのだ。――私は時雨を救えるのは自分だけだと自惚れていたが――とんでもない。恥ずかしいことだ」
「そんな……」
あたたかい眼差しが、戸惑う琥珀の瞳を見つめた。
「私は時雨が誇らしい。時雨は逃げなかった。村人の怒りに背を向けなかった。森の奧深く隠れてしまうことなど、お前なら容易だったろうに――」
シグレの視線が恥じ入るように揺れた。
「
――そうだよ。シグレはいい奴なんだ。
あたしは涙が止まらなかった。
そのとき、シグレが鎌首を立てた。
濡れた
「法師様は間違っていません。なにひとつ」
まだ大人にはなれない、声変わりの途中の少年の声だった。
「鏡のことも。毒を呷ったことも。法師様、あなたの真心こそが、人の心を救ったのです。村の呪縛を解いたのです」
シグレは叫ぶように言った。
「苦しむことに囚われて、僕は法師様の考えに、思いを致そうとしなかった。僕は恥ずかしい。法師様が自分の意志で決断されたことならば、誰のせいにもしてはならなかったのに。法師様こそ、僕の誇りです」
「時雨や――」
影法師の声が潤んだ。
「僕には、法師様の死が耐えられなかった。理由も
シグレは影法師の足元に頭を垂れた。
「許してください。――法師様。僕はあなたの鏡です。あなたを歪めることなく映します。今も。これからも」
一条の光が雲間を抜けてその人を照らした。
雨に濡れた
「ああ。時雨や、時雨。なんと有難いことだろう」
大蛇の緩やかにうねるシルエットが、佇む影法師に寄り添う。
遙か西の国の、美しい仏像のようだった。
光に包まれた人が、合掌した。
「時雨さん。御世話になりました」
「法師様――」
一瞬だけ、
子どものように澄んだ眼差しが、あたしをまっすぐに見た。
その目が楽しげに瞬いて笑っている。
――似てる。
澄んだ満月のような笑顔が、ヒミコさまにそっくりだった。
さようならと、その人の声が別れを告げる。影が淡く霞んでゆく。
「待って下さい。法師様、僕も!」
泣きながらシグレが叫んだ。
「僕も連れていってください!」
風が、きらきらと光を吹き散らした。
「私たちは いつも
頬笑む気配が、白い霧に溶けていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます