十八章 旅の終わり <Ⅳ>二つの月

「それから、もうすこしお話ししたいことがあります」


 影法師があたしに語りかけた。

 ねたシグレは蜷局とぐろに頭を隠してしまっていた。


「旅の雲水に身をやつしておりましたが、私は実は、お尋ね者でした」


「お尋ね者?」


 ぴくりと蜷局が緩んだ。


「私の一族と申しますのは、代々栄えてきた豪族でした。都の御門みかどの任を賜る者も多く、一頃ひところはそれは羽振りが良かったのですが。盛者必衰しょうじゃひっすいことわり通り、時至りて命運尽きて、皆殺しにされる運命を辿りました」


「皆殺し?」


 蜷局が解けて、大蛇が円い眼を覗かせた。


「後々の遺恨を断つ為でした。血の繋がりのある者は女子どもでも容赦なく斬られました。ところが――。敵の目を逃れて、ただ一人生き残った幼子がいたのです」


「その子が、法師様なんですか?」


 あたしはおそるおそる訊いた。


「はい。私です」法師様が頷いた。


「幼名を金輪丸こんりんまるといいました」




 そのとき朧気おぼろげにに見えた景色は、大勢の美しい女御にょうごたちにかしずかれた、まだあどけない皇子だった。大きな白い木馬に跨がって、可愛らしい声ではしゃいでいる。



「母は七番目の皇子の許嫁いいなずけで私を産んだばかりでしたが、出自を隠して遠国へ嫁ぎました。赤ん坊は乳母の故郷にかくまわれ、山寺の小僧として育てられました。運が良ければ、彼の地で静かに一生を終えたことでしょう。しかし。いつからか噂が立つようになりました。――山寺の小僧はさる人の子ぞと」



 天を突くような杉木立の参道を、大きなたきぎの束を背負って歩く小僧さんがいる。

 足元が覚束おぼつかず、ときどきよろけては踏み留まる。やっと庫裏くりに辿りついて重い荷を降ろすと、今度は水桶を担いで井戸端に向かった。庭先を掃いていた老僧が目を細めて、その華奢な背中を見守っている。



「慈しんでくれた人に迷惑は掛けられません。私は、雲水うんすいの修行へ出ると称して旅に出ました。いまにも追っ手がかかるのではないかと、道々、後ろを振り返ることもしばしばでした。諸国行脚しょこくあんぎゃは形ばかり。素性を悟られるのが恐くて、長く一所に留まることもなく、果てのない流浪の日々を送りました」


 深山幽谷の地にいくつも僧坊が並び立ち、本堂からは、朝靄を吹き払うかの如く、読経の声が朗々と流れる。その声に背を向け、旅支度の若き雲水は一人山を下る。

 笠に隠れた濡れた頬。耳に聞こえる経文を、その唇も口ずさんでいる。


 いつのまにか近々と貌を寄せていたシグレが身を震わせた。


「法師様が、そんな辛い思いをされていたなんて」


 影法師は、シグレのうろこを悲しげに撫でた。


「私は過去を胸の内にくすぶらせてきた。一族を殺した仇をゆるせぬ思いが手放せず、己の心が重く辛かった。なにもかも忘れたいのに。そうすれば、どんなにか安らげるだろうに。分かっていながら、それができなかった。だから、時雨も同じ苦しみを背負うのかと思うと耐えられなかったのだ」


「法師様――」


 大蛇の双眸から涙が流れた。


「旅に出てより、時雨の宿に泊まった夜ほど安らげたことはなかった。人は皆優しいと信じていた、幼い頃に戻ったようだった」


 影法師は、泣きつづけるシグレの首を抱いた。


「重いかせを外して貰ったような心持ちがしたのだ。はじめて心を許せる友と語り合えた。時雨や。あの夜、私はお前に救われたのだ」


「僕だって、あの夜がどんなに嬉しかったか。それなのに――」


 シグレが切なげに呟いた。


 ――それなのに二人は死んでしまった。


「それなのに」と影法師は頬笑んだ。


「それなのに。――お前は私の望みまでも叶えてくれた。私の最期の望みを。いや、私の最期の呪いを果たしてくれた。ながくつらい思いをして――」


 影法師は大蛇に合掌した。


「私の望みは成就した。時雨や。ありがとう」


 シグレは法師様に向き直った。


「僕は、法師様の望みの鏡です。今も。これからも」


 あの日、空と水に在った二つの月のように、影法師と蛇は、互いをいつまでも見つめ合っていた。

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