十七章 望みの鏡 <Ⅳ>オロチの罪科

「オロチではない証拠に、沼の蛇は私に何一つ悪さをしなかった」


 慈慧は頬の血を拭いもせず、息をひそめている群衆をひとわたり睨み渡した。

 村人は固唾を飲んで聞いている。身動きする者もいない。


「それどころか、私に一夜の宿を貸し、寒さや山の獣から守ってくれた。そして、二度と人の子を食べないと誓ってくれたのだ。これが魔物のすることか!」


 赤ん坊が泣き出した。

 慈慧は、はっと我に返るとひとつ咳払いをする。


「あの蛇は魔物でも神でもなく、ただの年経た蛇なのです。自分が雨雲をあやつる魔物とおそれられてきたことも一切知りませんでした。これまで捧げられてきた人身御供ひとみごくうを、そうとは知らずに食べていましたが、それは生き物のさがというもの。目の前に食べ物が有ったから、食べただけなのです」


 ――たった一度、日照りの年、楓岩の湧き水に連れて来られた牛を食べた。

 それが始まりだった、と蛇の語ったままに伝えると、人々は顔を見合わせた。オロチ沼の雨乞い神事の由来ゆらい通りだった。


「まさか――。オロチが……」


にわかには信じられぬ」


 村人たちは、互いにひそひそと私語ささやき交わす。


「魔物など最初からいなかったのです。もう人身御供を出さなくてよいのです。皆さん、どうか心をしずめてください。心の優しいあの蛇を、憎まないでいただきたいのです。どうか、お願いします。この通りです」


 雲水はその場で膝を折り、額を床に擦りつけた。




 虻の羽音が聞こえる。

 しわぶきひとつ聞こえない。

 額を床に押しつけたまま、慈慧は分かってもらえたのだと思った。



 沈黙を破って、村長がうめいた。


「可愛い子を、儂等わしらは蛇の餌にしたのか」



 膝に置いた節くれ立った拳が、骨を浮かせている。


 おおお、と吠える者があった。駒吉だった。

 ふらふらと立ち上がり、おすげよ、お菅よと、娘の名を呼びながら、庭の立木に我が身を打ちつけた。止める手を振り払い、駒吉は血達磨になって吠え狂った。

 それに泣き叫ぶ女たちが続き、叫びだす者は次第に増えていった。


「ただの蛇なら殺してしまえ」


 拳を掲げて、村長が立ち上がった。


「娘たちの無念を晴らせ!」


 その場にいた者は、残らず立ち上がった。


「殺せ! 恨みを晴らせ!」


 人々の叫びは、まるで地の底から響いてくるようだった。


 村長を先頭に、人々は怒濤どとうのように庭先から流れ出した。


「待ってください!」


 狼狽うろたえた慈慧は叫んだ。


「蛇に罪科つみとがはありません!」


 応える者は一人としてなかった。


「蛇を殺してはいけません!」


 慈慧は、群衆の背中に向かって声を限りに叫んだ。


「恨みを晴らす為だけの殺生に、いったい何の益がありますか!」


 振り返る者はいなかった。

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