十七章 望みの鏡 <Ⅱ>谺の主

 朝霧のかかる杣道そまみちを、足早に下りていく人影が見えた。

 網代あじろがさを被り、錫杖しゃくじょうを突いてゆく雲水うんすいの姿だ。


「法師様――」


 あたしの隣で、シグレが呟いた。

 あたしとシグレは同じ景色を観ていた。


 眼の前に、鏡の主の思い描く物語が、鏡に映すように立ち上がった。





 ぬかるんだ杣道を、泥まみれで降りてきた雲水を見て、村人は驚いた。てっきりオロチに喰われたものと思っていたのだ。


 旅の雲水が、この村を訪れたのは昨日のことだった。薄汚れたなりだったが、どこか卑しからぬ佇まいの若い法師だった。ちょうどものみの祭りの日でもあるし、人身ひとみ御供ごくうとなった娘の供養になろうと、村人は食べ物や衣をほどこした。


 オロチの話をはじめたのは誰だったか。

 顔色を変えた雲水が娘を助けにいくと云って、オロチの沼に向かったきり日が暮れても戻らなかったのだ。

 沼へ行く径を教えたのは、人身御供になったおすげの父親の駒吉こまきちだった。止せばいいのにと思った者も多かったが、駒吉親子が気の毒で、誰も口を挟めなかったのだ。気の毒といえば、人喰いオロチの沼に向かった人の好い雲水なのだが。


 その雲水が、沼から戻ってきたのだ。


「法師様、よくぞお戻りなされた」


「昨日は、あれからどうなされました」


 雲水を囲む村人を若い男が押しわけた。駒吉だった。


「法師様! オロチを退治しなすったんだな?」


 周囲の者が色めき立つ。


「本当ですか、法師様?」


「あの化け物を退治したのかい? とんでもない法力ほうりきだ!」


「どうやって退治したんですかい?」


「こうして無事に戻ってきたんだ。そうなんでしょう?」


 慈慧は周章あわてて手を振り回した。


「とんでもない! 違います!」


「それなら、うちのお菅はどうしたんだ!」


 駒吉が慈慧の胸ぐらをつかんで地面に突き倒した。


「この野郎。お菅は!」


「おいおい、止めておけ」 


 駒吉が止めに入った相手の横面よこつらを張ったので、殴り合いが始まった。

 押し寄せて来る人々にもみくちゃにされて、慈慧は気が遠くなった。

 そこへ、村の最長老である村長が駆けつける。


退いてろ!」


 人々の下から、大根でも抜くように慈慧を引き摺り出した。

 浅黒く日に焼けたこめかみには、癇癪かんしゃく持ち特有の血管が浮いている。


「法師様。あんた、オロチ沼に行ったってな?」


 この老人は、そうでなくとも人を責めるようにものを尋ねるのが常だった。


「はい。行きました」


「余計なことだったな。人身御供の娘はどうなった?」


「申しわけありません。駆けつけるのが間に合わず救えませんでした」


「救われてたまるか。人身御供は、オロチに喰われるのがつとめだ」


 震えだす駒吉の腕を、仲間がつかんだ。


「ですが、オロチは。いえ、あの蛇は」


 慈慧の言葉に、村長は目をいた。


「あんた、オロチを見たのか?」


「見ました。私はオロチと話をしたのです」


「オロチと話した、だと?」


 村長は絶句した。


 人身御供はくじで決まる。村の世話役は、気の毒な娘が入ったひつを、オロチ沼のおやしろの前に置くなり、一目散に逃げ帰ってきた。

 だから、ここにいる者どころか、先代も先々代も、オロチの姿を見た者は一人もいないのだ。そもそも怖ろしいオロチを、その目で見ようなどと思いつくような命知らずはいなかった。


 オロチと話したと言い出した法師から、誰もが急いで身を引いた。

 騒然とする場で、村長が異様に大きな声で告げた。


「村の衆! これは大事な話だ。法師様には、わしの家で話して貰うとしよう」

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