十七章 望みの鏡

十七章 望みの鏡 <Ⅰ>約束

 ポツリと冷たい雨粒が、あたしの額に落ちた。

 日暮れを鈍色にびいろに沈めて、しずかに時雨が降りはじめる。


 時雨沼のみぎわうずめる芦原あしはらに、白いオロチが蜷局とぐろを巻いていた。




 ――さあ、消えろと言うがいい。



 鎌首かまくびを立ててオロチはささやく。



 ――これで、きみは僕を消し去る力を得たのだから。


「消し去る力って……?」


 ――きみが鏡に願っただろう。僕を消し去る力を寄越せと。

   だから望みの鏡は、僕の正体をきみに見せたのだ。


「そしたら、いま見たのは――」


 ――僕の真名まな時雨しぐれだ。

   慈慧じけい法師ほうし様がつけてくださった名だ。

   さあ、時雨よ、消えろと言え。きみの望みだ。



「言わないよ、そんなこと!」


 あたしはこんな悲しい話、聞きたくなかったよ。


「ごめん。あたし、なんにも知らなかった――」



 ――今はすべてを知っている。


 受ける罰を待つように、オロチはうつむく。


 ――消してくれ。消えたいんだ。



「どうして?」



 ――法師様が望んだから、僕は鏡の主になったのに。


 オロチが朱い双眸を見開いた。


 ――僕は、望みの鏡になれなかった。




 それは芦原を渡る風のような声だった。


 ――鏡を失い、道連れを殺した。もう僕を消してくれ。



「そんなこと、できないよ。いやだよ!」


 ――なぜだ。きみが望んだ力じゃないか!


 オロチの喉から絞り出される声音は、旋風つむじかぜに変わった。

 白い尻尾の先がくさむらを激しく叩いている。


 ――消えろと言え!

 

オロチの叫びに、空気がびりびりと震える。


 ――言わなければ、喰ってしまうぞ!


 オロチが巨大な鎌首かまくびを振り立てて襲いかかってくる。


「助けてっ!」


 悲鳴を上げて後退あとずさった瞬間、あたしは以前にも同じ体験をしたことを思い出した。

 あれは、お化け屋敷の暗い廊下。

 あたしはヒミコさまのすえで、水神様のつかいだった。


 鏡に名前を唱えるように、あたしはシグレにはっきりと告げた。


「絶対言わない! リンと約束したんだから!」




 ――リンだと。



 オロチの怖ろしい風音が止んだ。


 ――リンの約束って、なんだ。


「シグレを助けてって、リンが云ったから!」


 ――いつ?


「――リンが、……壊れちゃったとき」



 そのとき、オロチの姿が忽然と消えて、初めて出会った頃のシグレが現れた。


 夏草のような黒い髪。細面の白い顔。黒曜石を嵌め込んだような切れ長の瞳が、深い睫毛の下から、あたしを見上げている。


 ――こんなに小さかったっけ。


 あたしより頭一つ分も背の低い少年が、華奢な肩を雨に濡らしている。

 その膝がくずおれた。



「僕が殺したのに、どうして僕を救うんだ。法師様と同じじゃないか!」


「ちがうよ。シグレはリンを殺してないよ! あのビスクドールは、ただのしろだったんだから」


「黙れ! 僕が殺した! 僕はリンを殺したんだ!」


 シグレは泥にまみれ、身悶みもだえた。


「リンが僕を鏡の外に連れ出してくれた。リンが僕を好きだと慕ってくれた。そのリンを、僕は殺したんだ!」


 土塊つちくれを握り締めたこぶしに、白く関節が浮きあがる。


「法師様も。リンも。みんな僕が殺したんだ!」


 歯を食いしばり、慟哭どうこくを押し殺してうずくまる背中。

 うう、とうめき声をもらすけれど、その瞳は一粒の涙もこぼさなかった。


 シグレは、もしかしたら、泣けないのかも知れない。

 きっと、自分が泣くことさえ許せないんだ。


 法師様をなくした日から、シグレはずっとここにいたんだ。

 法師様に貰った、この鏡の中に。


「ごめんね。シグレ」


 あたしは泣いた。あたしが泣いたって、どうしようもないのに。


「あたし、七年前にシグレの望みを、ちゃんと聞いて上げればよかった」


「僕を殺してよ。ここで――」


 シグレはうずくまったまま動かない。

 だめだよ、シグレ。こんなの呪いと変わらないよ。

 ヒミコさまと同じじゃないか。




 ――しぐれや しぐれ 帰っておいで



 風がまた歌っている。



 ――しぐれや しぐれ 帰っておいで



 寂しいこだまが、シグレを呼んでいる。



 ――しぐれや しぐれ 帰っておいで



 この谺はどこから聞こえてくるんだろう。

 この谺が、千の鏡のような人たちだったら、シグレを助けてくれないかな。


「誰ですか?」


 あたしは谺に呼びかけた。


「どこにいますか?」


 だが、鏡の間のような返事はなかった。



 ――しぐれや しぐれ 帰っておいで



 むなしい風になって歌っているのは、誰なんだろう。

 故郷の沼が、可哀想なシグレを慰めようとして呼んでいるのだろうか。

 どうしてシグレは、この歌を聞いて泣くのだろう?


 ――あのとき約束したんだ。嫌です。僕は帰りません!

 さっき、シグレはそう言った。


 大切な人と交わした約束。

 その人のために、望みの鏡になるとシグレは誓った。

 だから。帰るわけにはいかないんだ。どうしても。


 ――それなら。


 シグレに帰っておいでと呼んでいるのは、もしかしたら。


「シグレ、この声って、慈慧法師様じゃないの?」


 少年が驚いたように顔をあげた。


「あの方の声が、君にも聞こえるのか。――鏡の中にいつも聞こえるんだ。もう二度と逢えないのに」


 鼓動が早くなる。

 あたしは雨にかすむ森を見渡した。


 ――しかと視ることじゃ。

 耳の奧で、ヒミコさまの温かい声が聞こえた。


 そうか。の鏡だ。

 あの時と同じだ!


 あたしは、ばしゃばしゃとみず飛沫しぶきをあげて、ワタスゲの茂るみぎわに踏み込んだ。足元の水に、あたしが映る。


「慈慧法師様っ!」


 沼の水鏡に、あたしは呼びかけた。

 この時雨沼が大きな鏡なんだ。そして鏡の主はきっと――!


「慈慧法師様! あたしは時雨です! シグレと同じ名前の時雨です! どうか、あたしの望みをかなえてください! お願いです! シグレを助けて!」



 ――有り難う。時雨さん。あなたの望みこそ、私の望みです。


 沼のこだまが答えた。

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