十六章 鏡の主 <Ⅳ>魔物の月

 月が二つあった。

 一つは空に。一つは水に。


 雨に満たされた沼は、月明かりを湛えて輝いていた。

 明るいみぎわには、朽ち木のように動かない大蛇の姿があった。

 錫杖しゃくじょうにすがって這うようにやって来た慈慧じけいは、蛇の大きな頭を胸にかき抱いた。


 泥濘ぬかるみうずくまった男たちは、声もなく大蛇と法師を見守っていた。


「よかった。法師様。もう会えないかと思いました」


 慈慧の腕で、時雨しぐれが低くささやいた。


「ああ、時雨や。かわいそうに。なんとむごいことを」


 慈慧は焦げたうろこに、そっと掌を置いた。

 七色に光彩を放っていた鱗は、色を失い黒い汚れをこびりつかせていた。


「すまない。私のせいだ。時雨や、すまない」


 時雨と同じように、すっかりしゃがれてしまった声を絞り出して、慈慧は友に幾度もびた。


「やめてください。なぜ謝るのですか」


「村の人に、時雨のことを、どうしても分かってもらえなかった」


 自責の思いが、慈慧を責めさいなんだ。


「法師様のせいではありません。もともと悪いのは、僕なのですから」


 囁く声は、あどけない童子のようだった。


「法師様。この命が尽きる前に願いします。どうぞ僕をお弟子にしてください」


 慈慧は涙を抑えることができなかった。


「私がお前のお弟子になりたい……」


 言葉を継ぐ前に、胸を押さえて時雨の蜷局の上にうつ伏せる。


「法師様。どうなさいましたか」


 とうとう時雨が異変に気づいた。


「大丈夫。なんでもないから」


 だが言葉は虚しく、慈慧は血を吐いて身悶えた。


「法師様、まさか法師様も毒を?」


 蛇の目が、異様に朱く灯った。


「僕の為に?」


「いや、そうではないんだ」


「村の人が、あいつらが、法師様に毒を?」


 時雨の声音が、やいばを含んだように凍った。


「違うのだ。時雨や、聞いておくれ。これは私が――」


「おのれ、奴等。法師様によくも――」


 焼けただれた大蛇のこうべが高く上がった。

 抱きあって震えている村人たちを、朱く燃える双眸が睨み据える。

 人々は叫ぶことすらできず、雷に打たれたように動けなくなった。


「我が命よりも大切な人に何をした!」


 蛇の雄叫びには音が無い。

 激しい共振が大気を振るわせ、空気をつんざき、人々の鼓膜が裂けた。


 村人たちは耳を抑えて泥濘ぬかるみに倒れ伏し、そのまま息絶えた者もいた。


おそれ多くも、慈慧法師様に手を掛けるような外道げどうどもめが。いったい、どうしてくれようか。一人残らず、はらわたを引き千切り、奈落の底に撒き散らしてくれる」


 怒りにふくれあがった大蛇おろちから、無音の雄叫びが放たれ続ける。

 気を失っていない者たちは、虫けらのように這いずりながら、森の奧へ逃げこもうとした。


「おのれ。憎い。法師様に毒を飲ませた人間どもが憎い。このかたきを討たねば気が済まぬ。だが、この命はじきに尽きる。悔しい。悔しい。悔しい」


 大蛇の両眼から、血の涙が滴り落ちた。



 身の張り裂けるような痛みは、毒や火傷に因るものではなかった。

 我はここに有りながら、慈慧法師様をむざむざと殺させてしまった。

 悔やんでも悔やみ切れぬ。死んでも死に切れぬ。


 激烈な苦痛が極まったとき、沼に映る月が、流した血の色に染まるのを見た。


 ――そうか。僕は魔物となるのだ。


 大蛇の沸きかえった血潮は、体の彼方此方あちこちから火を噴くようにほとばしり、沼の汀を染めた。

 無残なむくろから、朱い妖気が陽炎かげろうのように立ち昇る。

 膨れあがる妖気は朱いもやとなって、時雨沼一帯をじわじわと包みこんでいった。


 皮肉なことだ、と大蛇はわらった。

 見捨てておけば、害もない蛇だったものを――。

 殺したばかりに、僕はなりたくもない魔物と化す。

 お望み通り、魔物のオロチとなって、お前等を殺してやろう。皆殺しに喰い尽くしてくれよう。

 朱いオロチは、おぞましい興奮に酔いしれた。


「だめだ。時雨は、魔物になってはいけない」


 遠くから、その人の優しい声がする。

 死にゆく慈慧の目には、もう時雨の姿が見えなかった。


 ――法師様。僕には、この恨みを消すなんて、できない。


 オロチは吠えた。


「やめなさい。恨みは自分を傷つけるばかりだ」


 ――いいえ。己がどうなろうと、奴等を皆殺しにするまで許せない。


「あの人たちに罪はないのだ」


 ――罪があろうとなかろうと。知ったことか。


「ああ。お願いだ。思い出しておくれ」


 慈慧は、苦しい息をふりしぼった。


「時雨や。時雨の魂は誰よりも尊いのだ。自分を見失ってはいけない。そうだ。どうしても思いが残るというのなら、この鏡に宿りなさい」


 慈慧は掌に握りしめた黒い鏡を差し出した。

 二人が出会ったときの鏡だった。


「これは魔除けの鏡だ。尊い巫女みこの形見なのだ。どんなわざわいからも守ってくれるのだ。お前も見ただろう。私が、皆を守ってくださいと念じたら、大雨が降って、山火事が消えたのを」


 ――先程の嵐は、この鏡が起こしたのですか。


 魔物は怯んで、小さな鏡を見つめた。


「そうとも」


 ――あなたは、自分に毒を盛った奴等を救ったというのか。


 オロチは身を震わせた。


 ――慈慧法師様、あなたという方は。


「時雨は、ここに宿って鏡の主になりなさい」


 法師が頬笑んだ。


「誰かが救いを求めたら、お前の力で助けてあげなさい。それこそ時雨に相応ふさわしいではないか」


 その人の息が、聞き取れないほど微かになる。


「時雨や、時雨。時雨は私の望みだ。どうか魔物にならないで。

 鏡よ。時雨を御護おまもりください」


 その人の手から鏡が落ちて、血の色をした月光を反射した。




 ――だめだ!

   法師様の形見を汚してはだめだ!




 朱いオロチは全身から瘴気しょうきの火花をまき散らして、天頂へ駆け上がった。

 既に月は、朱い妖気に包み込まれていたが、オロチはその巨大な総身を鞭のように振るって、己の発した毒々しい妖気を蹴散した。


 妖気が霧散すると、夜空に純白の満月が戻った。

 まぶしい月光を浴びると、オロチは千の矢に射貫かれたように全身が痺れた。



 ――魔物ではない。僕は時雨だ。



 そのとき。オロチの姿は月光の色に変わった。


 白いオロチは身を翻す。天空から駆け下り、鏡の中に飛び込んだ。


 ――叶えよう。

   これがあなたの望みならば。

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