十六章 鏡の主 <Ⅲ>オロチの奇跡

 煙に巻かれた村人は、退路を失っていた。


 見境なく撒き散らした臭水くそうずのおかげで、四方の芦原は盛んに燃えて、火の勢いは留まるところを知らなかった。


「誰が、帰り道に火をつけたんだ!」


「俺たち、焼け死ぬのか!」


「こうなったら、早く沼に入れ!」


「入れるものか! 沼も燃えているんだ!」


 既に取り返しはつかない有様だった。森までが火の粉を上げて燃えはじめていた。


「この火が、村まで届いたらどうするんだ!」


 村長が白髪頭を抱えて叫んだ。


「これは祟りじゃ! オロチの祟りじゃ!」


 男たちは、すすに塗れた顔を見合わせた。


「あの坊主は、ただの蛇だと言ったじゃないか!」


「そうだ。だから殺しに来たんだ!」




 沼の大蛇は魔物ではないと言ったのは、旅の雲水だった。

 憎しみに狂った人々を止めようと、どこまでも立ち塞がった若者の顔は忘れられなかった。

 ――殺してはいけない。そう叫んでいた。


「だがよ、見ただろう。さっきのあれは、ただの蛇じゃなかった!」


「人間のような口をきいたよなあ?」


「やっぱり魔物だったのか?」


「あの坊主、嘘ばかり言いやがって!」


「わしらは、魔物のオロチに大変なことをしちまった!」


 魔物を怒らせた。村はもうおしまいだ。

 男たちは皆、顔色をなくした。


「誰が殺せと言ったんだ!」


「こいつだ!」


 最初に弓を引いた男が、燃える沼に突き落とされた。


「オロチ様! こいつを生贄いけにえにして、村ばかりはお許しください!」


 村長と男たちはその場にひざまづいて、生贄の落ちた沼を伏しおがんだ。


 突き落とされた男の着物に火がついた。


「助けてくれ! 助けて!」 


 火を消そうともがくうちに、泥濘ぬかるみに足を取られ、片足がずぶりと深みにはまる。


 そのとき燃える沼から、大蛇が鎌首をもたげた。

 双眸が朱くただれている。


 男は、ひいっと泣いて泥濘に這いつくばった。その背中を火炎が舐めた。


 大蛇は鎌首を低く下げると、気を失いかけた男の腹の下にもぐり込んだ。

 松の木のような体が、炎に包まれた男を背負うと、ぐっと高く鎌首を立てる。

 宙に持ち上げられた男が、身の毛のよだつような声で泣き叫んだ。

 男たちはみな、生贄の末路を見まいとして目を逸らした。


 大蛇は、男を乗せたまま炎の中をするすると這い進み、まだ火の届かない場所に男を降ろすと、濡れた蜷局とぐろでそっと包んで、男の体の火を消した。


「しっかりして下さい。大丈夫ですか?」


 男は肝を潰した。


「オロチ様。わしを――喰わないのですか」


「僕は、二度と人は喰いません」


 大蛇の焼け爛れた背中には、男の放った焦げた矢が突き立っていた。


 男は泣いた。子どものように。


「オロチ様。申しわけありませんでした。どうか、どうかお許しください」


 泥濘ぬかるみに額をつけて、命を救ってくれた大蛇に詫びた。


「見ろ! オロチが、忠助を助けた」


 固唾かたずを呑んで見守っていた村人がどよめいた。


「魔物じゃないのか――。本当だったのか。あの法師が言ったことは」


 腰を抜かした村長が、へたへたと坐り込んだ。

 逃げ場を無くした村人に、蛇の群れのような炎が押し寄せていた。


「もうダメだ」


 一人残らず観念して、目を閉じたそのとき。魔物のように風が吠えた。


 天から旋風つむじかぜが襲いかかって来た。

 見えない鎌を振るわれたように、肌がすぱりと切れて血が噴き出す。旋風はうなりを上げて、燃える芦原をなぎ払う。

 人々は悲鳴を上げてうずくまり、草の根にしがみついた。


 雲の中から雷鳴が轟き、稲妻が空を引き裂いた。

 天の底が抜けたような雨がなだれ落ちる。時ならぬ豪雨は森を焦がす炎を消した。

 沼から溢れ出た水は、毒も弓矢も石礫も、哀れな死骸も、救いを求める生き物も、濁流の果てに押し流した。


 人々は流されながら、沼のほとりの桂の大木にすがりついた。しかし豪雨は、枝にしがみつく腕をもぎ離そうとする。抱き合った人々の力が尽きかけたとき、彼程あれほど凄まじかった雨が、ぴたりと止んだ。


 夕空に凛々りんりんと月影が差した。


「法師様!」


 沼の時雨が、その人の名を呼んだ。

 満月に鏡をかざして、慈慧法師が立っていた。

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