十六章 鏡の主 <Ⅱ>燃える沼

 これを合図に、矢と石礫いしつぶてが降りそそいだ。

 伝え聞くよりも、おぞましい魔物を目の辺りにした村人は、狂ったように、沼に毒を投げ込み、火を放った。


 その村には、古くから伝わる毒があった。

 山を四つほど越えた谷に、油壺ゆつぼと呼ばれる、生き物の絶えて棲まない沼地がある。湯壺から浸み出す、臭水くそうずという毒の水は、気が遠くなるほど臭い。そして摩訶不思議なことに油のように燃えるのだ。


 燃やした跡には、ねばねばとした臭いすすがいつまでも残るので、日々の暮らしには役立たなかったが、魔除けになると言い伝えられてきた。だから、どの家も薬壺に溜めて敷居の下に埋めておいた。

 その臭水が、オロチに効くだろうと言い出した者がいて、皆で掘り出して、ここまで担いで来たのだった。


 水面みなもに炎が走り、芦原を焦がす。

 立ち昇る黒い煙が、鈍色にびいろの空を隠した。



 時雨しぐれは息が止まりそうだった。

 いきなり矢を射掛けられるなんて。


 たかが一本の毒矢に奪われるような命ではなかったが、その衝撃は傷の痛みなどより耐え難かった。何が起きたのか分からないまま、首を巡らして水底深く潜り、水底の水草の茂みに頭を隠して震えた。だが、人間たちの恐ろしい声は、そこまでも聞こえてくるのだった。


「オロチはどこだ」


「次に上がって来たら、とどめを刺すぞ!」


 燃える水面を見上げて、やっと時雨は悟った。


 ――あの人たちは、僕を殺しに来たのだ。



 得心がいくと最初の恐怖は去り、幾分か気分が落ち着いた。

 落ち着いてみると、多少腹が立った。


 たしかに、僕は娘子を食べたけど、毒を流すなんて、これはあんまり酷い仕打ちじゃないだろうか。沼の生き物は僕だけではないし、世の中は人間だけで生きていけるものでもないだろうに。こんなに沼を汚したら、あの人たちだって、この沼の水を飲めなくなってしまうのに。


 ――それにしても法師様はどうされただろう。


 懐かしい顔を思い浮かべると、時雨の怯えた気持ちがやわらいだ。

 こんなとき、あの方なら何とおっしゃるだろう。


 誰かが自分を殺そうとしても、あの方は絶対怒ったりしないだろう。

 沼の蛇の気持ちにさえ、寄り添ってくださるような方だから。


 ――そんなに怒らせてしまったか、まないことだ、と仰るだろう。

 法師様はそういう方だ。時雨は、水中でポコリと泡を吐いた。


 ――みんな可愛らしい女の子だった。

 やれやれ。僕はあの人たちの、大切な子どもを食べちゃったんだ。

 考えてみれば、済まないことをした。


 時雨は水底を離れた。燃えているみぎわを目指して泳ぎだした。

 たちまち毒の水に包み込まれる。苦しかったが、大きく口を開けてガブガブと、飲めるだけ毒を飲んだ。


 ――これで毒が薄まって、他の生き物が少しでも生き残れますように。


 そして、自分の死んだ姿を見て安心して貰おうと、燃える炎の下から水面に浮き上がった。

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