十六章 鏡の主

十六章 鏡の主 <Ⅰ>復讐

 鳥が鳴いて夜が明けた。

 森はまだ霧に包まれている。


 ブナの洞で目覚めた慈慧じけいが、ごしらえを整えると、昨夜のように時雨が先導して森を抜け、桂のほこらまでおくってくれた。

 未だ朝日を浴びない草の葉は、昨夜の雨露を重たげに抱えている。慈慧の脚絆きゃはんの足元が、しとどに濡れた。


 祠の前で、慈慧は改めて昨夜のもてなしを感謝した。


「私は村に戻ります。怖ろしい魔物などいなかったと、早く伝えなくては」


 時雨は、項垂うなだれた。


「僕が行って、村の人達にお話しすべきではありませんか」


「いや。あの人たちは昔から、時雨を魔物のオロチと信じてきたのです。いきなり時雨の姿を見たら、話を聞くより先に逃げ出すでしょう。まずは私から、事を分けてお話ししてみましょう。時雨が村人に会うのは、その後がよいでしょう」


「僕のことを、何と言うでしょう」


「もう生けにえは要らないと聞けば、もちろん喜んでくれますよ」


 網代あじろかさを結んだ慈慧は、ひさしの下から時雨に優しく頬笑みかけた。そして、トンと錫杖しゃくじょうを突いてきびすを返すと、濡れた杣道そまみちを早足に降っていった。


「法師様!」


 その背中に、時雨は、もう一度呼びかけた。


「すぐにまたお目にかかりましょう!」


 慈慧は振り向いて手を振った。


 後ろ姿も鈴の音も、忽ち朝霧に紛れてしまう。

 遠くなる錫杖の音に耳を傾けているうちに、うつらうつらと眠くなった時雨は、楓岩かえでいわ棲処すみかに戻って暫く微睡まどろんだ。




 低い雲から吹き降りる風が、沼にさざ波を立てていた。

 水鳥の群れが乱れて飛び立つ。鹿の群れが逃げる騒々しい物音がする。切羽せっぱ詰まった鳴き声が聞こえてくる。いったいこの騒ぎは何事だろうか。

 時雨は、只ならぬ気配に目覚めた。


 棲処から沼に入り、水脈みおを引いてみぎわに向かうと、胸の悪くなるような匂いが漂ってきた。匂いは水に混ざって逃げ場がない。息絶えた魚や虫たちが、其処彼処あちこちに浮いている。


 時雨はせた。――毒だ。

 周章あわてて鎌首を返して、沼の底まで一気に沈んだ。


 水底を這うと、砂地に古い倒木が横たわっていた。太い幹の下にもぐり込むと、水草の茂る奥までは、匂いが来ていなかった。そこから水面を窺うと、桂の祠の辺りにチラチラと、いくつもの朱い松明たいまつが見えた。

 大勢の人間が大声で何か叫び合っている。

 この怖ろしい匂いにおびえているのだろうか。


 ――法師様は御無事だろうか。

 時雨の胸は不安で一杯になった。


 あの人たちに尋ねたいものだが、魔物かもしれない僕に、返事をしてくれるかしら。逡巡する間にも、水底まで毒が漂ってきて、目蓋の無い目に酷く染みた。

 ここに留まっていられるのも僅かな間だ。早くしなければ、法師様のことを聞き損なってしまう。時雨は心を決めた。


 水面を割って、大蛇が現れた。

 松の木のように太い胴体には、青磁色のうろこがぬめぬめと妖しく光り、ぱくりと裂けたような口から、先の割れた舌先が、チロチロと燃える焔のようにうごめいている。その両眼はホオズキのように朱くただれていた。


「オロチだ! オロチが出た!」


「助けてくれえ!」


 間近く遭遇した者が、手にした得物えものを放りだして逃げた。


 転がった薬壺の蓋が外れ、吐き気を催す臭気の液体が、泥濘ぬかるみに染み込んでいった。


 酷い臭いに、頭が痺れる。

 時雨は、ふらふらとみぎわこうべを近づけた。


「もし。どなたか――。慈慧法師様を知りませんか」


 それを聞いた村人たちが悲鳴を上げた。


「口を聞いたぞ!」


「呪われるぞ! 声を聞くな!」


 鋭い矢羽根やばねの音がして、時雨の背中に、毒矢が突き立った。


「オロチを殺せ!」


 矢を射掛けた男が、祠の上から叫んだ。


「逃げるな! 俺たちは、オロチ退治に来たんじゃないのか!」

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