十五章 沼のオロチ <Ⅵ>時雨の夜

人身ひとみ御供ごくうがいつから始まったのか、今となっては分からないが。奥山の沼で静かに暮らしている生き物を、見かけだけで人喰いオロチ呼ばわりするとは、迷惑千万。ものは確かめてから言うものだ」


 眉をひそめ不愉快そうにつぶや慈慧じけい法師ほうしに、大蛇は不思議そうに尋ねた。


「法師様は、どうして僕のところに来たのですか。人を喰うオロチの沼などに」


「それは――」


 慈慧は言いよどんだ。


 この袖にすがって、泣きむせぶ男の声が耳に残る。

 あれは、幼い娘を生贄に出した、若い父親だった。

 ――法師様。頼む。どうかオロチにむくいてくれ。


 蛇が知れば、どんなに心をいためるだろう。


「わたしは……実は、魔物退治を頼まれたのです」


「魔物退治。ああ、なるほど」大蛇が頷く。


「誠に申し訳ありません」


 慈慧は、深々と頭を下げる。


「先程の無礼な振る舞い。お許しください」


「やめてください」


 大蛇は、おろおろと慈慧にこうべを寄せた。


「お話しをうかがえば、魔物と云われるのも、せんないことです」


「いや。事実も確かめずに噂に惑わされるとは、人として恥ずべきことでした」


 大蛇は、ほおと感嘆した。


おっしゃる通りですが、魔物退治となれば、法師様のお勤めでもありましょう」


 慈慧法師は、頬笑んで頭を振った。


「私は修験者しゅげんじゃではありませんから、魔物退治など、したことがありません。もとより、闘うすべも持ちません。そもそも仏弟子に殺生せっしょうはできません」


「そうでしたか。では、どうして」


「お断りしようとは思ったのですが、是非にと頼まれて、無下むげに嫌とも云えなかったのです。ならば、せめても娘さんの身代わりになろう、と駆けつけたのですが、時すでに遅く、間に合いませんでした。情けないと申しましょうか、いやはやいったい、何をしているのだか」


「身代わり?」


 蛇の鎌首が高く伸び上がった。


「なんですって。それでは、僕に喰われる気で、ここに来たと仰るのですか!」


 慈慧が剃髪ていはつした頭をいた。


「お恥ずかしい」


 一陣の風が吹いて、森影がざわざわと揺れたが、蛇は石像のように動かなかった。


「あのひつに――。法師様が、あの櫃の中にいたかもしれない」


 戦慄おののく声の痛々しさに、慈慧は胸を突かれた。

 こちらにかおを背けた蛇は、がくがくと総身を振るわせている。

 蜷局とぐろを巻きつけたぶなの木が、揺れてきしむ。梢の先の葉が、はらはらと落ちた。


「――僕は、もう人の子は食べません」


 闇の中から蛇が言った。


「どんなにひもじくても、絶対に食べません」


 橅の木を揺すり上げるように、冷たい風が吹いた。


 そのとき。慈慧の頬を、一筋の涙が伝って落ちた。


「あなたは、なんと尊いことを仰るのだ」


 思いも寄らない言葉に蛇が振り返ると、慈慧が洞から出て、己に合掌している。


「やめてください。法師様。僕は魔物です」


「いいえ」と慈慧が言った。


「いいえ。あまねく生き物は、己が生きる為に殺生せっしょうをするのです。人が魚を美味しいと食べるのも、蛇が人の子を美味しいと食べるのも、同じことです。誰にも罪科つみとがはありません。ですが。それが悲しいと思ったとき、仏の修行は始まるのです。あなたは尊い方だ。誠に有り難いことです」


「そんなことはない。今頃、あの子の縁者は、どんな思いでいることでしょう。今日はじめて知りました。僕は、怖ろしい魔物です」


「いいえ。魔物などでは決してありません。あなたは仏様の尊いお弟子です」


 迷いのない慈慧法師の言葉に、蛇の双眸から、はらはらと涙が溢れた。




 夜は更ける。

 しみじみと語り合ううちに、時雨が降りはじめた。はじめは高い雨音を奏でていたが、乾いた葉が湿る頃には、くぐもった密やかな調べへと変わっていく。


 慈慧が身にまとわりつくような寒さを耐え忍んでいると、ひそかな物音がして、ほらが、ぬばたまの闇になった。

 何かが、狭い入り口をふさいでいる。


 不思議に思って、手を伸ばすと、ざらりとしたうろこが手に触れた。蛇が蜷局とぐろをしっかりと巻きつけて、洞を塞いでいるのだった。


「おやめください。これではあなたの体が冷えてしまう」


 慈慧は、身をていして雨風から守ってくれる友のうろこをさすった。


「いいえ。こうしていると、法師様の暖かみが心地良いのです」


 洞の内に、大蛇の声がくぐもった。


 慈慧は涙を流した。


「ありがとう。なんとあたたかい夜だろうか」


「僕もです」


 時雨の森で、大蛇の蜷局とぐろに抱きしめられて、旅の法師がぬくもっている。故郷から引き離され、漂白の旅に導かれたのは、この夜に出会う為であったか。


「あなたを今日から時雨しぐれと呼ぼう。この沼は時雨沼だ」


「ありがとう。法師様」


 ――僕は、時雨という名を貰った。もうオロチではないのだ。


 いつか雨脚が遠のき、月が皓皓こうこうと照らしても、時雨は固く巻いた蜷局をほどかなかった。

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