十五章 沼のオロチ <Ⅴ>魔物の噂

 風が雨催あめもよいの気配を運んでくると、朧月おぼろづきかさを差した。


 世にも珍しい知己ちきに出会えた。

 言葉を交わすほどに親しみが湧き、互いに黙っている静寂も心地良い。この切ないような懐かしさは、どこから胸に寄せてくるのだろう。慈慧じけいは目を閉じた。


 村で聞いたことは、己の胸一つに納めてしまえばよい。

 己が黙っておれば、何も知らぬ蛇は、これまで通り暮らしていけるのだ。

 ――だが、知らぬ振りをすることが、友なのか。


 論語にいわく、夫子ふうしの道は忠恕ちゅうじょのみ、と。

 忠恕とは、友を思う真心だ。今ここで、私が友として為すべきことは何だ。

 来年も、私の友は、何も知らずに人を喰らうのか。


 慈慧は黙していられなかった。




「蛇殿。ひとつ、うかがっても宜しいでしょうか」


「なんでしょう」


「この辺りの雨をつかさどっていらっしゃるのは、どなたでしょうか」


「あめ。雨。空から降ってくる雨ですか?」


「はい」


「ええ? あれは、誰かが司っていたんですか?」


 驚きを隠せない大蛇に、慈慧は声を上げて笑った。


「法師様。どうしてそんなことをお尋ねになるのですか?」


 慈慧は、躊躇ためらいつつ語り出した。


「御存知でしょうか。この山のふもとに小さな村があります。狭い山間やまあいに棚のような畑を作りながら、山の幸に頼って暮らす貧しい村です。今朝ほど、その村に立ち寄りますと、なにやら村の衆が集まっていました。今日は年に一度のものみの祭り。人身ひとみ御供ごくうを捧げる日だというのです。奥山の沼にまう、怖ろしいオロチに――」


 大蛇が橅の枝から落ちかけた。


「オロチというのは」


 尋ねる声が裏返る。


「もしや、僕のことでしょうか」


「この沼にお棲まいのお仲間で、大きな方は他にもいらっしゃいましょうか」


「いや、小さな者は幾らもおりますが。大蛇と呼べるのは僕しかおりません」


「やはり、そうでしたか」


 慈慧は膝に目を落とした。


「失敬。どうぞお続けください」


 大蛇は居住まいを正した。


「はい。――そのオロチに、幼い娘を毎年一人、差し出すしきたりだとか。さもないとオロチが雨雲を操り、辺り近在をひでりにしてしまうのだと、村人は信じております」


 大蛇はゆらと鎌首かまくびを揺らし、尾の先で不思議な音を奏でた。

 笑っているらしい。


「まさか。蛇にどうして、そんな神通力が」


 慈慧は切なく頬笑んだ。――この大蛇になんの罪があろうか。


「山を下りて、ふもとの村に行かれたことはありますか」


「いいえ。この水を離れたことがないのです。この沼の名も今初めて知りました。オロチ沼というんですか。僕が棲んでいるからですね」


「沼の名さえ知らないということは――」


 慈慧は眉を曇らせる。


「蛇殿から村人に、生けにえを求めたことは、ありますまいな」


 大蛇は、しゅううと長いため息を漏らしてうなずいた。


「前から不思議だとは思っていたのです。毎年どうして、こんなところに生きてる女の子を入れた箱が置いてあるのだろうと。――楽しみにはしておりましたが」


 叢雲むらぐもが吹き寄せられて、空行く月を隠した。


「この沼には長く棲んでおられるのでしょうか」


「ええ。いつと覚えぬ頃から」


「水神と呼ばれることに、思い当たることはありませんか?」


「そんなことがあったかなあ……」


 蛇はまた虚空こくうを見据えて、暫く動かなくなった。


「うむ。――あれは。そう。ひどい日照りの夏がありましたよ」


 蛇は記憶を辿りつつ語り出した。


みぎわの辺りは、すっかり乾き切りましたが、僕の棲んでいる楓岩かえでいわの湧き水はれませんでした。或る日のこと、乾いた沼底を踏んで、湧き水を汲みに来た人がありましたが、僕を見るや、逃げていきました」


「その人を食べましたか?」


「人は食べませんが、置いていった牛は食べました」


「う、牛ですか」


「その人が牛をいてきたんです。痩せた茶色い子牛でした。こう、巻きついて締めて、大きい骨をつぶして」


 慈慧は夜陰やいんまぎれて蒼白めた。


「その夜から雨が降りました。降るとなったら大雨になりまして、沼から水が溢れて、この辺り一帯の森が水浸しになりました。やっと水が引いてみると、どこからか大勢の人がやって来ました。それはにぎやかに歌ったり踊ったりしていました。それから皆で、あの桂の木の根方にほこらを建てました。以来、時折やって来ては、雨を降らせてくれと祈るのです。歌も踊りもあります。物陰から面白く眺めておりましたが。そうか。あれは、僕に言っていたのか」


「蛇殿は、一切何も知らなかったのですね」


迂闊うかつでした」


 言霊ことだまが空に届いたのか、雨交じりの湿った風が森の梢をざわつかせた。

 慈慧は、雨避けに枯れ枝を何本も拾って、ほらの入り口をふさいだ。旅慣れた自分はこれで良しとしても、どうにも大蛇の身が気懸かりだ。


「寒くはありませんか?」


「いっこうに。どうぞお構いなく」


 蛇はくつろいだ様子で応じた。

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