十五章 沼のオロチ <Ⅳ>大蛇の宿

 黄昏たそがれた山から、霧が降りてくる。

 墨色の霧が沼に滑りでると、凍りつくような風が雲水うんすいの肌を刺した。


 慈慧はひつ欠片かけらを集めて火をおこし、すべて燃え尽きるまで経文を唱えて、幼い娘の菩提ぼだいを弔った。

 大蛇はみぎわゆる蜷局とぐろを巻いて、野辺の送りを見守っている。


 回向えこうが済むより先に、沼は宵闇に沈んだ。西の稜線も、とうに夜陰やいんに紛れてしまった。火が燃え尽きると、暗がりから大蛇が言った。


「法師様。これでは道が分かりますまい。今宵こよい一夜、寒さのしのげる場所に、御案内いたしましょう」


「これは有難いお申し出です。是非お願いいたします」


 慈慧は恐縮して合掌した。


「すっかり暗くなりました。どうぞ、おつかまり下さい」


 年経た松の木ほどもある太い胴体をすり寄せて、慈慧に手を掛けさせると、大蛇はゆるゆると夕闇の奧へ分け入るのだった。


 既に手にした錫杖しゃくじょうも見えない。慈慧はおそるおそる歩き出したが、大蛇の導きは巧みで、泥濘ぬかるみに足を踏み入れることさえなかった。


 はじめは沼岸の荻の間を行くようだったが、程なく厚く積もった枯葉に藁草履わらぞうりの足が柔らかく沈むようになった。柔らかい苔を踏むと芳香が漂う。

 沼のほとりは、豊かなブナの森だった。森に入ると風がやわらいだ。うっそうと茂った梢が沼から渡る風をさえぎってくれている。歩くうちに、山の端から昇った十三夜の月が木の間隠れに現れ、その明かりに足元が見えるようになった。


「こちらです。いかがですか」


 月花つきはなに、梢の影が差し示す。

 ブナの大木の根元に、大きなほらがあった。

 洞に吹き寄せられた枯葉を掻きのけると、人一人が坐れる大きさだった。乾いた枯葉にうずまっておれば暖かろうと思われた。


「これは素晴らしい。なんと御礼を申し上げていいのか」


「いつもは獣たちのねぐらですが、僕が傍におれば邪魔はしないでしょう」


「いやいや、そこまでのお気遣いは無用です」


 慈慧は周章あわてて断ろうとした。そこまで厚意に甘えるのは気が引けた。


「こうした野宿は慣れたものです。蛇殿は、寒い季節を地中で眠って過ごされると聞きおよんでおります。今夜のように冷える晩は、お体に障りましょう」


「良いのです。僕が傍にいたいのです」


 しどろもどろに、大きな蛇が言った。


「まだ雪の気配もありませんから、あなもりまでは間があります。いえ。僕のような生き物を、法師様がお嫌でなければですが」


 慈慧は頬笑んで合掌した。人懐こい蛇の好意が嬉しかった。


「蛇殿が傍にいてくだされば、これほど心強いことはありません。久方ぶりに安心して眠れます。有難いことです。お言葉に甘えます」


「そうですか。よかった。そうだ、少しお待ちください。すぐに戻ります」

 大蛇は、いそいそと滑り出ていく。

 その後ろ姿に合掌して、慈慧は洞に坐ってみた。




 耳を澄ますと、森はひそやかな気配に溢れていた。

 野山に虫がすだく。草陰を走るのは野ねずみか。枝をしならせて跳ぶのは、むささびだろうか。森の樹木にも幽かな呼吸を感じる。こうして大木のほらに坐っていると、ぶなの木になって皆を見守っているような心持ちになってくる。常に橅の木のように坐りたいものだと慈慧は思った。


 大蛇はまだ戻らない。

 慈慧は、胸に抱えてきた行李こうりを手探りで開け、中から炒り豆を出した。あの村で施して貰ったものだった。親切な大蛇が怖がるかもしれないから、今夜は火は使えない。竹筒の水で飲み下していると、ポトポトと膝に何か落ちてきた。


「――!」


 肝を潰してじっとしていたが、膝のものは動かない。どうやら生き物ではないようだ。そっと手探りすると、柔らかな丸いものがつたにいくつもついている。月明かりにかざしてみれば、葡萄染えびぞめ色をした美しい果実だった。


「おや、これは」と思わず声が出た。


「サルたちが美味しそうに食べていましたから、毒ではないと思います」


 頭上の梢の二股から、大蛇が覗き込んでいた。


「法師様のお口に合いますかどうか」


「美味しそうな木通あけびだ。頂きます」


 熟して割れたところから白い果肉を頬張ると、甘い果汁が舌先でとろけた。

 掌に受けた種を大木の根元に捨てる。この種は根付くだろうか。春には花が咲くだろうか。夏には若葉の蔓がこの洞を縁取るだろうか。木通が鈴なりに実る様を思い描くと慈慧は幸せになった。


「美味しゅうございました。御馳走様でした」


「こちらこそ、いたみいります」



 大蛇は樹上に巻きつき、ブナの一部のような姿で身を落ち着けた。月の光に濡れて、うろこが虹のような淡い光を発していた。

 幼い頃に、こんな美しい絵草子を見たような気がする。あれは母の枕元か。それとも旅寝の夢だったか。慈慧の唇から、知らず昔の歌が漏れた。


「行き暮れて、木の下かげを宿とせば――」


 月影の梢から、しゃがれた声が先を詠んだ。


「蛇や今宵の、あるじならまし」

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