十五章 沼のオロチ <Ⅲ>慈慧法師

 波打つ荻の穂を分けて、日暮れの風が走る。

 陰った山並みの向こう側は、未だ燃えるような夕映えの只中にあった。


 大蛇おろち雲水うんすいは不思議そうに見つめあったまま、しばらく動かなかった。

 やがて、鏡をふところに納めた雲水が、網代あじろがさはずした。


「大変失礼致しました。これなるは、諸国しょこく行脚あんぎゃの雲水で、慈慧じけいと申します。この沼の主神ぬしがみ様であらせられますか」


「いいえ。僕は蛇です。名は持ちません」


 大蛇の声音こわねは、あしの葉擦れの音に似て、微かにしゃがれたその声は、大人になりかけた変声期の少年のようでもあった。


「そうですか。人の言葉を話されるので、もしやと思いました」


 大蛇は、初めて戸惑とまどった。


「これは不思議です。おっしゃるとおり、僕は人の言葉を話している」


 熟れた冬瓜とうがんほどのかおが、目前まで迫ってきたので、慈慧じけいは思わず、後退あとずさった。


「法師様、僕は、なぜ人の言葉が話せるのでしょうか?」


「――さて、なぜでしょうか」


 思わぬ難問。慈慧は智恵を振り絞った。


「失礼ですが、蛇殿は、もとは人間だったのではありませんか? 人が大蛇に化身した、という話を伝え聞いたことがございます」


「僕が人間だった?」


 大蛇は虚空こくうを見上げて、枯れ木のように静止した。

 目蓋まぶたを持たない瞳がくるくると回っている。懸命に記憶を辿っているらしい。


「覚えている限りは――」


 暫くして大蛇が言った。


「やっぱり蛇でございます」


 両目が中央に寄っている。


 慈慧はこぶしで、くっと口を押さえたが、我慢できずに吹き出した。


「失敬。そうですか。不思議ですね」


「まことに不思議です」


 うなずく大蛇の仕草がたまらなく可笑しくて、慈慧は爆笑した。

 大蛇もなにやら浮き立つような楽しい心持ちになって、体を揺らした。静かな沼にさざ波が立った。


 巨大な蛇から、足元の砕け散ったひつに目を移すと、慈慧は困惑して眉をひそめた。


「してみると、これは何の仕業しわざだろう」


「なんのしわざといいますと?」


「実は、この櫃に入っていたのは、村の幼い娘なのです。可哀想に人身ひとみ御供ごくうとなりました。沼の大蛇が喰うのだと聞いたのですが、まさか、あなたの仕業ではありますまい」


「いえ」と穏やかに大蛇が目を伏せた。


「僕がいただきました」


「あなたが」


「ごちそうさまでした」


 慈慧は声を失った。

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