十五章 沼のオロチ <Ⅱ>沼の大蛇


 あおい沼から見あげる空は茜色あかねいろ


 北斎の波のような雲が、高々と盛りあがり、砕け堕ちる寸前の形をとどめたまま、風に押し流されてゆく。あの輝きもほんのわずか後には、暮色に沈むのだ。


 黄金色の雲間を渡って、黒い小さな飛翔体がやってくる。カリグラフィーの軌跡を描くシルエット。コウモリを一つ二つと数えてはいけない。際限もなく増えてしまうから。



 楓の岩陰に影がぎる。

 暗い水面が千々に乱れて、ゆらりと紅いさざ波が立つ。

 伸び上がった波頭はとうが、その形を得たまま、あお大蛇おろちの姿を現した。


 青磁色のうろこが、残照に紅くぬらりと光る。

 大蛇おろちは、楓の梢に鎌首を並べると、舌をほのおのようにひらめかせ、風の匂いを嗅いだ。


 琥珀こはく色をした丸い瞳孔が岸を見やる。

 なめらかな波が向かった先には、夕映えに染まった桂の大樹が、風に木の葉を散らしていた。


 その桂の根元には、古びた石のほこらがあった。

 祠の前には、こけした岩があり、真新しい木の香の匂う白木のひつが据えられている。

 縄でくくられ御札で封じられた櫃が、微かに揺れているのは気のせいか。

 否。カタリと微かな音がした。


 櫃の気配は、大蛇を呼び寄せる。

 みぎわの暗い水から、こうべが現れた。

 這い登った道筋をしるして、泥濘ぬかるみのワタスゲが水に没した。


 生い茂る荻を分けて、しなやかな一筆書きが滑っていく。首が桂の祠に届いても、大蛇はまだ水中に体を残していた。年経た体が幾尋いくひろあるのか、大蛇自身も定かではなかった。


 鎌首を巡らせ、蒼いかおひつの角に寄せる。舌がひらめく。

 また、中からカタカタと音がした。

 大蛇は、するすると櫃に体をからめると、いびつな形になった蜷局とぐろを、ひと思いに締めた。


 櫃は紙風船のように、あっけなく潰れる。


 ゆるめた蜷局の隙間から、砕かれた白い木っ端がパラパラと落ちる。

 大蛇は顎門あぎとを開き、絶命した幼い娘を飲み込んだ。滑らかな胴体が異様に膨らみくねるのも束の間だった。


 血塗れた木片を台座に残し、大蛇は沼へと戻りはじめた。なぎ倒された叢に、淡く銀色に光る道筋が印される。汀の静寂しじまくさ薄荷はっかと血の匂いが漂った。



 時の間、荻のうたう風音に、鈴の音が混ざった。


 はたと静止したこうべが、ゆらりと下がって背後をうかがう。

 桂の木陰から、人の匂いがした。


 しろ脚絆きゃはんを履いた足が、いて小枝を踏みしだき、枯れ残った竜胆りんどうの一群れをかき分ける。

 墨染めの直綴じきとじ袈裟けさを掛けた雲水うんすいが、ひつぎの残骸に駆け寄った。


 網代あじろがさひさしから覗く唇が、一文字に引き結ばれ、その場に、がくりと膝をつく。

 ここまで走り通して来たのだろう。肩が激しくあえいでいる。


 若い雲水は、頭を垂れて、数珠じゅずを握り締めた。

 その指が、木片に触れようとしたとき、背後のくさむらが二つに分かれた。


 振り返ると、荻の裏から巨大な蛇が、こちらを見下ろしている。

 雲水は、思わずったが、錫杖しゃくじょうを握り直して踏み留まった。大蛇の目を、はったと見据え、朗々と真言を唱えつつ、錫杖を突けば、しゃんと魔除けの鈴が鳴る。しかし、その音を意にも介さず、化け物の腹が荻を分けて滑り寄ってきた。


 雲水は咄嗟とっさふところから取り出したものを、大蛇の眼前に突きつけた。


魔魅まみ退散!」


 大蛇は黒い石を見た。


 ――綺麗。これは何だろう。


 艶々と磨き込まれた石のおもてが、水鏡のように自分を映す。

 鎌首をめぐらして右目で鏡を覗き込み、次に左目で覗き込んだ。


 ――どうして、これを見せてくれるのかしら。この人は誰だろう。


 大蛇は、舌の先を踊らせて、その人の匂いを嗅いだが、途端に身震いして、かおそむけた。

 人身ひとみ御供ごくうの娘たちは、精進しょうじん潔斎けっさいしてひつに入るから、清潔な良い匂いしかしなかったが、旅の雲水は、ここ暫く風呂に入っていなかった。


 「臭い」


 悲しげなつぶやきに、雲水はプッと吹き出した。

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