十四章 リンの望み <Ⅳ>砕けた鏡

 ころころと首が転がってきて、ことんと爪先で止まった。


 首を無くしたビスクドールが、床に落ちている。


 ――ナニ。

   コレッテ ナニ。


 心は反応できていないのに。ひざまづいたあたしの手が、リンの顔を拾う。


 薄く閉じた目蓋まぶたが、灰青の瞳にかぶさっている。

 花びらのように描かれた唇。ブルネットに染め上げた絹の束が、あたしの膝を覆って床まで流れ落ちる。

 ガラスの瞳と陶器の頬が冷たく濡れている。


 ――リンが。 リンが。 リンが。


 泣けたらいいのに。叫べたらいいのに。

 あたしはリンが好きだったのに。


 白猫の首がむちのように伸びて、一瞬でリンの首をねたのだった。


 視覚が捉えた現象を、脳が理解するにしばらく時間がかかった。


 ――許さぬ!


 白いかおが、長く伸びた首をうねらせて、空中を激しく旋回する。

 天井や壁をこするたびに、しゅうという耳障みみざわりな音を立てる。


「――なぜ?」


 胸を絞ると、かろうじて声が出た。


「なぜ! なぜよ! なぜだよ!」


 リンの首を抱いて叫ぶ。


「なぜ、リンを殺したあああああああ!」


 猫の頭が際限もなく飛びまわる。

 真っ赤な口を、ぱくりと大きく開けたまま。


 ――嘘吐き!


   僕を好きだと言ったくせに!

 

   僕をだました!

 

   嘘吐き!

 

   リンの嘘吐き!



 しゅう。しゅう。

 あたしの回りを飛びながら、猫が気が触れたようにわらう。


 猫の頭が天井に音を立ててぶつかり跳ね返る。壁を擦る音が嵐のようだ。



 ――時雨も死ねばいいんだ!


   みんな死ねばいいんだ!



 音が激しくなる。

 白い貌に、首に、真っ赤な血が滲む。

 血濡れのオロチが荒れ狂う。



 ――何にも知らないくせに!

 

   お前は可哀想な魂を救ってやったつもりか?

 

   思い上がるな!


   自分の意志で、鏡に留まってる魂だっているんだ!

   鏡に僕が留まるのは、呪いじゃない!

   これが僕の望みだからだ!


   わからないくせに!


   わからないくせに!


   なんで余計な真似ばかりするんだ!


   わからないなら、邪魔をするな!


   リンも時雨もみんな殺してやる!




「時雨さん」


 あたしの手の中で、かすかな声がした。


「リン?」


 ガラスの瞳があたしを見上げている。

 人形の唇が微かに開いた。


「おねがい シグレ様を たすけて」


 最後の音の形に唇を開いて、リンの形代はそれきり永遠に動かなくなった。


「リン!」


 オロチの首が、あたしの前を飛び過ぎた。





 この卑怯者。





 なぜ? こんな奴を、なぜかばうの? 

 リンはこんなに愛してたのに。こいつはリンを殺したのに。

 許せない! 絶対許さない!


「死ねばいいのは、お前だ!」


 あたしは床を踏み鳴らして叫んだ。


 天井で身をひるがえしたオロチがやって来る。

 オロチの牙が真直ぐに迫ってくる。

 その喉元の黒い鏡に、ひび割れたあたしが真面に映った。


 ――あたしの望み!


さんの鏡! こいつを殺す力をよこせ!」


 オロチが空中で停止する。


 ――また僕をコロスのか

   僕の望みで 僕をコロスのか


 その喉元で、鏡が砕けた。

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