十二章 子猫の恋 <Ⅳ>鈴の望み

りん、黙れ!」


 割れた声が甲高かんだかく叫ぶ。入り口の日影をさえぎる者がいた。


 太った体をねじ込むようにして入ってきたのは、烏帽子えぼしを被った白い浄衣じょうえの男だった。


「ええい、下がれ! 役立たずめ! 鏡とは一言も話すなと、言いつけたのを忘れたか! 端者はしたもの分際ぶんざいで、身の程をわきまえろ!」


 言っていることが最低だから、こいつが強欲な陰陽師おんみょうじだな。


「望みはわしのものだ!」


 と言いつつ、本人はすみやかに駆けつけて……いるつもりらしいが、せり出た腹が弾んで後戻りしている。

 長持ちの散乱している通路が、狭くてなかなか抜けられない。真横になってつぶれたり、勢い余って転んだり。かなり面白い。


 そのすきを捉えて、リンは望みの鏡に白い頬を寄せて、早口に言った。


「シグレ様。お願いします。私のそばに来てください。私と一緒にいてください。それが鈴の望みです!」


 ――えええー? なんじゃ、その望み。


 ははは、と楽しそうにシグレが笑った。


「その望み、かなえよう!」


 参の鏡からキラキラと光る粒子が、かすみのように抜け出したと思うと、暗がりに控えている武者人形の頭頂から、すうっと入っていった。

 人形は頭をもたげると、床几しょうぎからすっくと立ち上がる。


 萩重はぎがさね水干すいかんに、よろい腹巻をつけた若武者わかむしゃり。腰には黄金こがね小太刀こたちばさみ、下げ髪を背中でくくっている。

 顔を上げると、おもておおったにしきが、はらりと落ちて、若武者のまぶたが開いた。


 細面ほそおもての小さな顔。白い額につながる鼻梁の高い鼻。憂いを帯びた眉。黒曜石をめ込んだような切れ長の瞳。

 見覚えのある美しい少年が、夢見心地で見つめている小さな少女の手を取った。


 シグレは目玉が飛び出しそうになっている陰陽師を睨んだ。


「触るな。端者はしたもの。鏡がけがれる」


 若武者が手にした扇子をかざすと、そでくくりのつゆがキラキラと揺れる。


「ひいやああああ!」


 寄り目になった陰陽師は、慌てふためいて逃げ出そうとするが、たちまち長持ちにつまづいて つんのめり、頭から先に宙を飛んで、床にドスンと這いつくばった。

 すぐ後からシグレが、リンの手を携えてやって来る。

 横目でこれを見るや、陰陽師は出口に突進した。しかし狭い。

 つかえた腹が、ぎゅっと詰まって、顔面を朱に染める。どうなることかと見守っていると、「ポン」と音を立てて抜け出した。

 だが、敷居に沓の爪先が引っかかり、勢いがついて見事なとんぼを切った。


 地面に大の字に延びた。――失神している。

 リンの楽しそうな笑い声。あたしも一緒に爆笑してしまった。


 シグレとリンは手を取り合って土蔵を抜け出すと、明るい日差しのもとへ駆けていった。

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