十二章 子猫の恋 <Ⅲ>呪いの鏡

あるじから、呪いの鏡を取りに行け、と命じられたときは、怖くて泣きました」


 目の前のリンがつぶやく。


「呪いの鏡? 望みの鏡じゃなくて?」


「はい。呪いの鏡です。鬼のむ鏡だと聞きました。偉いお坊さんが人食い鬼を封じた鏡だとか。鏡をのぞいた者は、中の鬼に取って喰われると」


「それで、目が赤かったんだね」


「勘弁してくださいと頼んだら、主はむちでボクを殴りました」


「ひどい!」


「みんなから嫌われていました」


 いろいろ思い出したらしく、リンは不愉快そうに顔をしかめた。


「あの神社は、そいつのものなの?」


「とんでもない。戦に巻き込まれて、守り手が絶えた古いおやしろでした」


「どうして、望みの鏡があそこにあったの?」


「神社がまだ栄えていた頃に、ゆかりのある貴人から預かったそうです。そのときの宮司様がわざわいを恐れて、奧の院の経蔵きょうぞうに鏡を封じ隠しておいたものを、強欲な主が探しだしたのです」




 小机の端に灯明とうみょうを置くと、リンは固く目を閉じ、胸の前で掌を握り合わせた。


 ――怖いよね。そうだよね。誰よりもわかるよ。あたしには。


 鏡の中に、一対の瞳が現れた。

 琥珀色をした丸い瞳は、懐かしいものに出会ったような眼差しで、小さなリンを見つめている。

 やがて目を開けたリンは、その視線に気づいて小さく叫んだ。


 リンと琥珀の瞳は、しばらく見つめ合った。


 そして、鏡が名を問うよりさきんじて、リンの可憐な声がおずおずと訊ねた。


「あの。あなたさまは、どなたでしょうか?」


 鏡の中の瞳は明らかにうろたえた。


「――僕は、時雨シグレだけど」


 鏡が答えた。




 あたしは大きくった。


「――こっちから先に訊いちゃったんだ?」


「あれは驚いた」


 猫が不愉快そうに尻尾を振った。


迂闊うかつでした。本当にすみませんでした」


 リンが真っ赤になって、シグレに頭を下げる。


 身代わりの形代かたしろを渡すのでもなく、鏡に名前を訊かれる前に真名まなを呼ぶでもなく、先に名前を訊く。


 ――その手があったか。一番リスクが少ないじゃないか。

 次に鏡の間に入ることがあったら、絶対これで行こう。




「シグレ様。どうか私を食べないでください!」


 鏡をおがんだリンの髪の先が、ぴょんと跳ねた。


「なんだと! ふざけるな! 僕は人の子は食べない!」


 いきなり鏡がキレた。

 リンは飛び下がって床に額を擦りつけた。


「ごめんなさい。お許しください」


「お前は、慈慧じけい法師様を知っているか」


 と鏡が言った。


「いいえ。そんな方は存じません」


 平伏したままリンが応えた。


「オロチ沼は知っているか」


「いいえ。存じません」


「そうか。お前は誰だ」


りん と申します」


「鈴、おまえは人身ひとみ御供ごくうか」


「いいえ。ちがいます」


「では。なぜ僕が、お前を食べると思ったのだ」


「鏡の中には人食い鬼がいると――聞いておりましたので」


「なんだと。失敬な。僕は鬼ではない!」


「お許しください!」


 リンは震えて謝った。


「嘘を信じておりました。ごめんなさい」


「不愉快だ」


「申しわけありません」


 ――こいつ、子ども相手に大人げないな。望みの鏡のくせに。


「それで?」


 と鏡が尖った声で言った。


「どうして鬼のところに来たのだ。――鬼退治か」


「まさか。滅相めっそうもありません。ここに来なければ、死ぬほど鞭で打たれるのです」


「ええっ? 誰に」


 鏡が驚いている。


「私のあるじです」


「鈴の主は、お前のような子どもを鞭で打つのか」


「はい。言いつけに逆らうと、殺されるような酷い目に遭わされます」


「そうか」


 鏡はしばし押し黙ると、やがて言った。


「鈴。もっと近くへ来い」


「はい」


 鈴は膝行しっこうして、恐る恐る鏡に近づいた。


「僕がお前を助けてやる。なんでも望みを言いなさい」


「まことですか?」


 リンは頬を紅潮させて、鏡を見つめた。

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