十一章 残された望み <Ⅲ>還る

 目の妖しい猫が近寄ってくる。足がすくんで動けない。


「坐れ」


 言われるまま、床にペタリと坐る。

 猫はエジプトの壁画のような横顔を見せた。


「この割れた鏡が見えるか」


 頷く。


「今から、この鏡に、僕の望みを言うのだ」


「シ、シグレの望みを、あたしが言うの?」


「きみが口にした望みが叶うのだ」


「――その後、あたしを殺すの?」


 横を向いたまま猫が目を細める。壁に映る黒い影が異様に大きい。


「シグレさまは……」


 少女が、なにか口にしかける。だが、猫の尻尾がぴしりと床を払った。


「望みが叶えば、きみに用はない」


 どうしよう。このままだと殺されるパターン。

 でも、こうしているうちにも、青深や陽蕗子が、助けに来てくれるかもしれない。

 あのときだって、深雪が来てくれたんだ。諦めちゃダメだ。

 あたしは、泣くのをこらえた。


「……わかった。なんて言えばいいの?」


「時雨は賢いな」


 猫が冷やかにわらう。


「シグレの魂がかえるために、望みの鏡よ、元に戻れ、と望むのだ」


 猫は呪文を唱えるようにゆっくりと言った。


「帰るの? 鏡に?」


「僕のしろは、もとより望みの鏡だ」


 誇らしげな猫の台詞に、水神様の言葉が甦る。


 ――参の鏡の主は先頃より行方知れず――

 こいつの依り代が、参の鏡ってことは――?


「もしかして、仮男かりおってさんの鏡のぬしだったの?」


「カリオ?」


「いや、ごめん。言い間違い。気にしないで」


「この鏡は僕の鏡だと言ってるだろう。最初から」


 猫が剣呑けんのんな流し目をくれた。


「言ったっけ?」


「言った」


「言いました」


 え、リンまでそんな目で?

 猫の喉元に揺れる黒い鏡。この鏡を求める蜘蛛のような指。

 ――思い出した!

 こいつは、耳まで裂けた口で笑いながら、――僕の鏡だ、と言ったのだ。


「そうだ。言ってた!」


 廃屋の二階であたしを追い回してる間中――僕の、僕の、って叫んでた。

 あんなに怖くなかったら、ウザい幼児だった。


「なんだ。自分の鏡なら最初からそう云えばいいのに」


 ――しまった。また、つい思ったことを口にしてしまった。

 いつも青深はるみに怒られてるのに。


「実物を見るまでは分からなかったんだ」


 猫はぷいと横を向く。――傷ついたな。


「ごめんなさい! ボクのせいなんです!」


 突然リンが叫んだ。

 両の掌がエプロンドレスのすそを固く握りしめている。顔が真っ赤だ。


 ――いきなりどうした。いつの間にそこまで思い詰めたんだ。


 あたしも驚いたが、猫も意表を突かれたらしい。

 固まっている猫とあたしを、交互に見比べていたリンの目が、みるみる潤み、とうとう、わっと泣き出してしまった。


「シグレ様、ごめんなさい! ボクのせいでこんなことに……」


「何百年前のはなしだ」


 猫が呆れ果てたという調子で呟いた。――何百年って?


「――いえ。でも、このことは……」


「うるさい! 罪のない者が詫びるな」


 猫が苛立いらだった声でさえぎると、リンは両手で顔を覆ってしまった。


 ――おまえ、いったい何様?


 この猫、むかつく。女の子が謝ってるんだから、言いようがあるだろうよ。

 もっと優しくフォローしろよ。可哀想じゃないか。

 猫がわざとらしく背を向けている隙に、あたしはリンに寄り添った。


「……あの。林……じゃなくて、えっと」


「リンです。ボクも」


 リンが泣き顔を上げる。濡れた灰青の瞳が愛らしい。


「人間でいた頃、名をりんといいました」


「人間――でいた頃?」


「はい。猫になる前は」

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